第八十三話 水を奪う畑、残す畑
水路が復旧すると、クレフ村で別の争いが起きた。
上流の農家が水門を開けば、下流の畑に水が届かない。
下流が抗議すると、上流は
「自分たちも飢える」
と言い返した。
村の広場には鍬を持った男たちが集まり、今にも殴り合いになりそうだった。
「全員の畑を守るだけの水はない」
村長の声はかすれていた。
俺は畑の面積を数え、作物ごとの必要水量を聞いた。
豆は比較的少ない水でも育つが、今からまけば収穫まで時間がかかる。
水を大量に使う作物を残せば、早く売れる代わりに他の畑が枯れる。
「値段が高い作物を優先すべきだ」
上流の地主が主張した。
「食べられなければ、金があっても意味がない」
下流の母親が返した。
俺はどちらの畑も勝手に切り捨てなかった。
村人全員の前に、三つの案を並べた。
収益優先、収穫量優先、世帯ごとの最低保障。
どの案にも損をする人がいる。
議論の途中、地主の娘が倒れた。
彼女は父に隠れて自分の食事を弟へ分けていた。
「お前まで我慢する必要はなかった」
父親は泣いた。
娘は弱々しく笑った。
「お父さん、畑を守りたいんでしょう」
その言葉で、地主はようやく自分の畑以外を見た。
「俺の畑の半分を豆に変える。だが借金の返済がある。雇い人の給金も払わなければならん」
俺は買い取り保証の契約を提案した。
食糧便が一定量を適正価格で買い、収穫できなければ損失を分担する。
ただし資金は無限ではない。
村も種と水の記録を公開する。
「失敗したら、お前も損をするぞ」
地主が言う。
「そうです。だから水門の鍵も記録も、俺一人には預けないでください」
「だから無理な約束はしません」
夕方、上流と下流の農夫が水門の試験運用に立ち会った。
互いを信用したからではない。
時刻と水量を誰でも確認できるようにしたからだ。
最初の水が下流の乾いた畝に染み込む。
母親は土を握り、何も言わずに頭を下げた。
俺は帳面に記した。
水を届けることと、公平に使えるようにすることは、別の仕事なのだ。
買い取り保証の契約書に署名する前、農夫の一人が手を挙げた。
「不作だったら、俺たちを追い出すのか」
俺は契約書の違約条項を読み上げた。
故意の隠匿と天候不順を区別し、収穫が減っただけで土地を奪わない。
農夫は何度も確かめてから、震える手で印を押した。
紙一枚が、畑に残る勇気になることもある。
上流の地主は、娘が倒れた翌日、下流の畑へ一人で歩いていった。
そこでは子供たちが乾いた土を砕き、豆を植える溝を作っていた。
地主は何も言わず鍬を借りた。
下流の農夫は驚いたが、追い返さなかった。
夕方まで働いても、水門の取り分は変わらない。
それでも地主は
「今まで見に来なかった」
と謝った。
俺はその場を見ていたが、仲直りの言葉を急がせなかった。
明日の水量が守られ、来週も同じ帳面が使われて初めて、信用は少しずつ戻る。
村の子供が芽の出る日を尋ねると、農夫は空を見上げて答えた。
「天気次第だ。でも今日は、まいたと言える」
買い取り保証の資金を確保するため、俺は食糧便の収支を公開した。
農夫たちは自分たちが支払うことになる運送費を見て驚いた。
バルクは車輪の修理代、馬の餌代、御者の賃金を一つずつ説明した。
無料の食料が届くわけではない。
誰かが費用を負担している。
農夫たちは話し合い、収穫後に一部を共同備蓄へ回すことを決めた。
来年、別の村が飢えたときのためだった。
翌日、地主が借金の証文を持って訪ねてきた。
作物を変えれば、約束どおりには返済できない。
悪者に見えた彼にも、家族と雇い人を養う責任があった。
俺は返済期限の延長を債権者へ相談し、地主自身に数字を説明させた。
誰かの犠牲だけで成立する案は、翌年に破綻する。
その夜、共同の水番に二人が正式な当番として並んだ。
最初の共同夜番で、上流の農夫は下流の若者に言った。
「お前たちが水を盗んだと思っていた」
若者は
「俺たちは、お前たちが全部取ったと思っていた」
と答えた。
二人は水門の目盛りを見つめ、言葉より先に同じ数字を記録した。
水門の当番が定着するころ、村人たちは最初の芽を待っていた。
地主の娘が水門の札を読み上げると、隣の畑の老人が首を振った。
「俺の番はまだだ」
俺は決めた順番と作物の枯れ具合をもう一度照らし合わせた。
守る畑を選ぶ苦しさは消えない。
それでも、選ばれなかった人に理由を隠すことだけはしたくなかった。
数日後、下流の畑に小さな芽が出た。
収穫の保証はない。
それでも母親は子供に芽を踏まないよう教えた。
俺はその光景を見て、支援の成果を袋の数だけで測るのをやめようと思った。
俺は水門の目盛りを確かめた。
「上流だけで決めない。下流の畑にも測った数字を渡そう」
その日の夕方、共同水番の帳面に空欄が見つかった。
下流の若者が水門を閉めた時刻を記録し忘れたのだ。
「また上流だけで決めたと思われるぞ」
地主が言うと、若者は顔を伏せた。
しかし地主は責めず、自分の腕に残る泥を拭った。
「俺も昨日、開けた時刻を忘れた。二人で確認しよう」
村長は水門の横に小さな板を置き、開閉のたびに二人が時刻と水位を書く決まりにした。
翌朝、下流の畑に届く水が予想より少なかった。
誰かが盗んだのではなく、水路の曲がり角に枯れ枝が詰まっていた。
農夫たちは枝を取り除いたが、今度は上流の畑の土がひび割れ始めた。
「順番を守ったのに、うちの麦が枯れる」
地主の娘が泣いた。
俺は決めた順番を変える前に、双方の畑を歩いて見た。
麦の一角は今夜の水を逃せば戻らない。
一方、下流の豆畑には昨日の水がまだ残っている。
下流の老人は畝を指で掘り、湿り気を確かめた。
「今夜だけ、こっちの番を譲ろう。ただし明朝の分は返してくれ」
地主は娘の前で頭を下げた。
「約束の時刻には俺が水門に立つ」
村長は変更の理由と期限を板に書いた。
例外を認めるなら、誰にでも見える形にするためだ。
翌日、地主の娘は老人の畑へ水路の泥を運んだ。
「昨日の分のお礼じゃない。次に困ったら、私も来る」
老人は礼を言わず、泥を置く場所を指した。
二人が黙って働く間、村長は当番板の下に、異議を申し出るための空欄を作った。
村長は空欄の横に翌週の集会日を書き、地主の娘にも異議を書けると伝えた。
夜明け、地主は約束どおり水門を閉め、下流へ水を送った。
娘は自分の畑を見つめたままだったが、老人が持ってきた豆の苗を受け取った。
「麦が全部助からなくても、次に植えるものは残せる」
水を奪い合った農夫たちは、畑の境界で黙って立っていた。
先に水を引く区画を決めると、一人が自分の畑の溝を埋めた。
約束はその土の重さから始まった。
俺は二人の間に立たなかった。
地主の娘は老人から豆の苗を受け取った。
二人が掘った小さな穴に水が染み込み、老人は下流の溝へ目を向けた。
「明日も、この量を守ろう」
娘は頷いた。




