第八十二話 干上がった井戸の底に
クレフ村の井戸に降りたのは、石工のサーラだった。
「底の石が割れてる。でも水が消えた理由はそれだけじゃない」
三王国の干ばつは雨の不足だった。
ここでは、雨が降った年にも水路の詰まりで水が届かなくなっていた。
原因が違えば、救い方も違う。
彼女が指した先には、古い水路の入り口があった。
数年前の土砂崩れで埋まり、村人は存在さえ忘れていた。
俺は保存倉庫から飲料水を出した。
だが五百キロすべてを水で満たしても、村全体では一日も持たない。
「運ぶだけじゃ足りない」
井戸の縁で、十歳ほどの少女が空の水差しを抱えていた。
「昨日は三回汲んだの。三回とも、底の泥だけだった」
サーラは水路の石を指でなぞり、崩れた部分の幅を測った。
「通せるかもしれない。でも一気に掘れば、また人が埋まる」
少女は水差しを置き、細い紐を差し出した。
「お父さんが使ってた測り紐。今はもう歩けないから、私が持ってきた」
俺はその紐を受け取った。
水を運ぶ五百キロの力より、ここに残った人々が持つ知恵の方が、村を救うかもしれなかった。
「昔の水路なんて、役に立たないと思っていた」
村長が呟くと、俺は測り紐をサーラへ渡した。
「まだ使えるかどうか、危険を調べてから決めましょう」
水路を掘り返すには人手がいる。
だが村人は空腹で、重い石を持ち上げる体力もない。
そこで食糧便は、作業する者だけに食事を与えるのではなく、働けない老人や幼児にも同じ基準で配ることを決めた。
「働いた者だけ多く食べればいい」
若い農夫が反発した。
「子供が倒れたら、親は作業を続けられない。これは全員の仕事だ」
ミラが答えた。
掘削二日目、古い水路から濁った水が噴き出した。
歓声が上がったが、サーラは飲もうとする村人を止めた。
「待って。上流に獣の死骸があるかもしれない。透明に見えても飲めるとは限らない」
水差しを持った少女は一度だけ唇を噛み、それから自分で水差しを地面に置いた。
「お父さんに飲ませたい。でも、病気になったらもっと困る」
サーラは水路の修理と飲み水の確認を別の仕事として村長に頼んだ。
水を煮沸する燃料も限られていた。
俺は鍋を持つ家を調べ、共同の煮沸場所を作った。
薪の持ち出しには記録をつけ、森を丸裸にしないよう当番を決める。
夕方、水路の奥で土が崩れ、サーラの足が挟まれた。
助けに入った農夫も肩を痛める。
作業は中断された。
「私のせいで遅れた」
サーラは悔しそうに言った。
「急がせたのは俺だ。安全を確認せず進めた」
俺は工程表を破り、新しいものを書いた。
支柱を組み、交代で掘り、危険な場所には誰も一人で入れない。
三日目の午後、水が村の貯水槽へ流れ込んだ。
飲み水の確保にはまだ検査が必要だったが、畑を潤す水は戻ってきた。
村長は水面に映る空を見た。
「これで全部助かるのか」
「いいえ。次は、水をどの畑に使うか決めなければ」
喜びの後に残ったのは、もっと難しい選択だった。
村人が掘り出した古い石板には、昔の水路の修理日が刻まれていた。
二十年前にも同じ場所が崩れている。
サーラは石板を見て、なぜ補強されなかったのか尋ねた。
村長は
「直したつもりだった」
と答えた。
工事の記録が残らず、代替わりのたびに同じ弱点を見落としていたのだ。
今回は修理箇所を図に描き、次の村長へ渡すことになった。
水路の出口で、子供が泥のついた石を拾った。
そこには昔の工事人の印が残っていた。
サーラはそれを見て、村の老人から古い作業歌を教わった。
歌には水門を開く順番が織り込まれていたという。
忘れられた知恵は、帳面だけに残るとは限らない。
作業を終えた夕方、サーラは足を引きずりながら支柱を点検した。
俺は休むように言ったが、彼女は若い職人に点検を任せた。
自分が倒れれば止まる工事ではいけない。
翌朝、若い職人は支柱の緩みを一つ発見した。
誰かが見つけられる仕組みを作ったことが、最も大きな成果だった。
夜の集会で、村長は新しい水路の管理者を決めようとした。
皆がサーラの名前を挙げたが、彼女は首を振った。
「私はここを離れる。村の人が直せるようにしないと」
そこで若い農夫二人と老人一人が選ばれた。
作業の順番は紙に残し、危険を感じたら水門を閉じると決める。
俺は井戸の縁に腰を下ろし、最初の日の乾いた底を思い出した。
水は戻った。
次は、守る人が残る。
翌朝、管理を任された若い農夫が、井戸の縁に新しい札を掛けた。
『飲み水としては、まだ使わない』
水が戻ったと聞いて駆けつけた母親は、空の瓶を抱えて立ち尽くした。
「昨日は水が出たって言ったじゃない」
「畑へ流す水は戻りました。でも、飲ませるには確かめなければならない」
俺が答えると、母親は泣きそうな顔で瓶を差し出した。
「じゃあ今夜は?」
サーラは足の痛みをこらえ、井戸から離れた丘を指した。
「古い湧き水の道がある。崩れた水路とは別の場所だ」
俺は保存倉庫の残量を確かめた。
病人と乳児のための飲料水を先に取り分けても、村全員の一日分には足りない。
「明日までの水は俺が運ぶ。その間に、湧き水までの往復路を確かめてほしい」
農夫たちは顔を見合わせた。
水路を直したばかりで、もう一度働けと言われたのだ。
そのとき、最初の日に測り紐を持ってきた少女が手を挙げた。
「お父さんは歩けない。でも、道を知ってる。家で話を聞いてきてもいい?」
サーラは頷いた。
「あなたの仕事は穴を掘ることじゃない。帰り道を見失わないこと」
少女は父親に聞いた曲がり角を小石で地面に並べた。
老人が休憩できる場所を教え、若者が空の桶を持って試しに歩いた。
日暮れ前、最初の桶が戻った。
量はわずかだったが、底には泥が混じっていなかった。
リーナに相談して飲用に必要な処置を確認し、村は共同の煮沸場所へ運ぶことにした。
「水路が直ったのに、まだこんなに手間がかかるのか」
村長が呟くと、サーラは首を振った。
「水路を直したのは終わりじゃない。次に崩れたとき、誰が止めるかまで決めて初めて修理よ」
少女は空の水差しを洗い、飲み水が届くまで口をつけないよう父親に伝えた。
「明日は、飲んでもいい水か確かめてから持ってくる」
父親はその手を握った。
俺は井戸の底を覗き込んだ。
初めて来たとき、そこには乾いた泥しかなかった。
今は水の音がする。
けれど村を救ったのは、音そのものではない。
危険だと声を上げた石工と、待つことを選んだ村人と、父親の記憶を持ってきた一人の少女だった。
井戸番の若者が水位の変化を伝えると、サーラは村長に見張りの引き継ぎを頼んだ。
湧き水も煮沸を終えるまで飲ませない。
少女は父親のために、共同かまどの順番を確かめた。
翌朝、少女は父親の枕元へ、水差しを持って戻った。
昨日は空のまま置いた水差しだった。
「お父さん、今日はちゃんと確かめた水だよ」
サーラが水源の濁りを調べ、村の共同かまどで煮沸した水だった。
父親は一口飲み、ゆっくり目を閉じた。
「お前が、道を見つけたのか」
「お父さんが覚えてた道だよ。私はみんなに伝えただけ」
「伝えてくれなきゃ、誰も歩けなかった」
少女は父親の手を握った。
戸口では、村長が農夫たちと水路の見張りを交代する時刻を決めていた。
少女は井戸のそばにある注意書きの板を、子供にも見える高さに掛け直した。
「濁ったら知らせる。これなら私も見張れるね」
少女は水差しを窓辺に置き、父親の枕を直した。
「明日は私が見張りに行く。お父さんは、昔の水路のことをもっと教えて」
父親は笑い、次に雨が降ったとき水が集まる場所を指で描いた。
俺は家の外でその声を聞き、保存倉庫の表示を閉じた。
五百キロでは村の水を運び切れない。
だが今日は、誰かが水を持ってくるのを待つだけの村ではなかった。




