第七十九話 崩れた相場と守るべき畑
黒穂連合商会の手形問題が公になると、穀物相場は一気に崩れた。
昨日まで高値だった小麦が、半値以下で売られ始めたのだ。
市場の人々は喜んだ。
「これでパンが安くなる!」
その隣で、麦を売りに来た農夫が荷車の手綱を握りしめた。
「うちの子が来年食べるパンは、誰が作るんだ」
パンを待つ母親が振り向いた。
「でも今日のパンが買えなければ、うちの子は今夜泣くのよ」
二人とも言い返せず、市場の鐘だけが鳴った。
だが、俺のもとへ届いた農家からの手紙は、喜びとは正反対だった。
『この値段では、来年の種を買えません』
ミラが顔を上げた。
「商会を追い詰めた結果、農家が苦しんでいる」
「商会が投げ売りしているんだ。現金が必要だから」
「それでも買う側は安いほうへ行くわ」
俺はハンナの畑へ向かった。
収穫を終えた麦束が、納屋に積まれている。
ハンナは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「契約してくれた分は助かった。でも、残りが売れない」
「買い取り先を探します」
「あなたが全部買ったら、今度はあなたが潰れるわよ」
その通りだった。
食糧便の資金には限りがある。
安い麦を買い支えるだけでは、問題を先送りする。
俺は農家を集め、収穫量と保管場所を調べた。
保存倉庫は五百キロしか入らない。
村全体の小麦を収納することなどできない。
「まず、来年の種と冬の食料を確保しましょう。売るのはその後です」
市場で安いパンを待つ人を敵にはできない。
だから値段を吊り上げるのではなく、農家が底値で全部を手放さずに済む時間を作る。
農家たちは頷いたが、借金の返済が迫る家もある。
「今売らないと、畑を取られる」
一人の青年が言った。
俺は農家が来年用に残した種の量を、売却予定から外して考えた。
必要なのは、麦を安値で売らずに済むまでの時間だ。
「共同倉庫を作れませんか」
サーラが図面を広げた。
「古い石造りの納屋なら、換気と床の補修で使える。ただし湿気対策が必要ね」
農家たちは労働を出し合い、町の職人が修理を請け負った。
倉庫の使用料は安く設定し、運営記録を公開する。
同時に、商人組合が収穫物を担保とする短期融資を検討した。
ただし黒穂と同じ過ちを繰り返さないよう、担保の評価額と返済条件を明記した。
「もし凶作になったら?」
ハンナが尋ねた。
「そのときは返済期限を再協議する。農家が土地を失うような条件にはしない」
商人組合長は苦い顔をした。
「甘い契約だ」
「甘いかもしれません。でも、来年の畑がなくなれば、商人も食料を売れません」
議論の末、融資は少額から試すことになった。
数日後、黒穂の代理人が村へ来た。
「今なら、すべての麦を買い取ってやる。現金だ」
提示された価格は、市場の底値よりわずかに高い。
青年農家が迷った。
「借金を返せるなら……」
ハンナが彼の腕をつかんだ。
「来年の種まで売ったら、どうするの」
代理人は笑った。
「種はまた借りればいい。うちからな」
その言葉に、青年の顔が変わった。
去年も同じことを言われたのだ。
「俺は、今年で終わりにする」
青年は契約書を返した。
「売るのは余った分だけだ」
代理人は舌打ちし、去っていった。
俺は安堵したが、同時に責任の重さを感じた。
農家が商会を断れたのは、共同倉庫と小口融資があるからだ。
その仕組みが失敗すれば、彼らはもっと苦しくなる。
夜、俺は帳簿に書いた。
『安く買えることと、来年も食べられることは同じではない』
翌朝、ラトナ村から荷車が到着した。
積まれていたのは、かつて俺が救った村で育った豆だった。
「今年は少し余ったんだ」
御者が笑った。
「困ってる村に持っていってくれ」
俺は袋を受け取り、胸が熱くなった。
救われた村が、今度は誰かを救おうとしている。
その循環を壊さないことが、自分の仕事なのだ。
だが、その日の夕方、王都から急報が届いた。
黒穂の商会長ヴァルデンが、王国の大臣に面会したという。
そして翌朝、谷の食糧便に対する新たな規制案が発表された。
規制案の知らせが届いた翌日、共同倉庫の最初の作業日は朝から雨だった。
サーラは屋根を見上げて首を振った。
「このまま麦を入れたら、湿気で傷む」
農家たちは焦っていた。
相場は毎日下がり、借金の期限は近づいている。
「少し濡れるくらいなら大丈夫だろう」
若い農夫が言った。
「だめよ。一度傷んだ麦は戻らない」
サーラは厳しく答えた。
俺も保存倉庫に全部入れることはできない。
そこで農家たちは、使える納屋へ麦を分散して保管することにした。
一つの倉庫に集めるより手間はかかる。
だが、修理を急いで麦を台無しにするよりはましだった。
ハンナは自宅の乾いた納屋を提供し、別の農家は床板を運んだ。
作業の途中、青年農家が突然しゃがみ込んだ。
「どうした?」
「親父に、麦を売れって言われてる。借金を返せないなら、家を出ていけって」
俺は隣に座った。
「お父さんも、怖いんでしょう」
「分かってる。でも、俺だって畑を残したい」
俺は答えを押しつけなかった。
その夜、青年は父親を連れて集会へ来た。
ハンナが倉庫の仕組みを説明し、商人組合長が融資の条件を読み上げた。
父親は最後まで黙っていたが、帰り際に息子へ言った。
「来年の種だけは、売るな」
青年は目を赤くして頷いた。
倉庫の修理が終わる頃、雨は上がっていた。
サーラは屋根に水を流し、漏れがないことを確認した。
「これなら使える。ただし毎週点検して」
農家たちは順番を決め、点検表を壁に貼った。
俺は最初の袋が運び込まれるのを見届けた。
麦を守るために必要だったのは、特別な魔法ではない。
修理する職人、待つ勇気、約束を守る人々だった。
俺は収穫前に返済期限が来ないよう、農家と貸し手の双方に予定表を確認してもらった。
相場が下がっても、畑を失えば次の冬にまた同じ列ができる。
共同倉庫の利用初日、若い農夫が種麦の袋を持ち帰ろうとした。
家では弟が熱を出し、食べる麦が足りないという。
ハンナは責めず、食用に回せる豆の在庫と、村の救急配給枠を確かめた。
俺は保存倉庫から今夜の食料を運べても、春に芽を出す畑を代わりに作ることはできない。
農夫は長い沈黙のあと、種麦を棚に戻し、豆を受け取った。
「弟には今夜食べさせる。畑は来年まで残す」
その選択を支えたのは、値下がりを嘆く言葉ではなく、今夜の食事を用意した人々だった。
倉庫の利用が始まって数日後、黒穂商会の買付人が再び来た。
「今日売れば現金を出す。明日からはこの値段を保証しない」
買付人が示した額は、借金を一度に返すには足りないが、目先の支払いには魅力的だった。
青年の父親は倉庫の鍵へ手を伸ばした。
「売ろう。家を失うよりましだ」
青年は鍵を押さえた。
「来年の種まで売ったら、家は残っても畑が死ぬ」
「借金を返せなければ、その畑だって取り上げられる!」
二人の声が倉庫に響いた。
俺は口を挟まず、青年が自分の言葉を探すのを待った。
「余剰分だけ売る。足りない分は組合に返済日の相談をする。俺も冬は運送の仕事をする」
父親が顔を上げた。
「お前が、そこまで考えていたのか」
「親父に畑を残してほしいからだ」
商人組合長が、余剰分の売却額と返済猶予の条件を読み上げた。
簡単な道ではない。
冬の収入が途絶えれば、また交渉が必要になる。
買付人は苛立ったように言った。
「相場は待ってくれないぞ」
青年は鍵を握り直した。
「種はもっと待ってくれない」
買付人が去ったあと、父親は初めて息子に倉庫の鍵を渡した。
数日後、青年は余剰分の麦だけを売り、借金の一部を返した。
まだ苦しい暮らしは続く。
それでも、来年の畑に蒔く種は残った。
倉庫を閉めるとき、青年は父親から託された鍵を取り出し、二人で扉の錠を確かめた。
「今日の支払いはまだ残る。でも来年の種は、ここにある」
青年は頷いた。
数日後、村の収穫を祝う集まりで、二人は畑の端に立った。
「今年はあまり儲からなかったな」
と父が言う。
「でも種は残った」
と息子が答える。
父は来年の畝を指さした。
「こっちは豆にしよう。麦ばかりだと、また同じ値段で苦しむ」
青年は驚き、それから笑った。
俺は遠くから二人を見守った。
相場を崩した商会に勝ったと宣言するより、親子が来年の畑を自分たちで決めたことが嬉しかった。




