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役立たずと追放された俺の保存倉庫は、飢えた世界を救う最後の希望だった  作者: レモンティー


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第七十八話 百枚の約束手形

黒穂連合商会の買い戻し宣言は、市場を騒然とさせた。

「また小麦が消えるぞ」

「今のうちに買っておけ」

人々は不安に駆られ、店の前に列を作った。

俺は列を見ながら、ミラに言った。

「買い占めが成功するのは、皆が明日の食料を信じられないからだ」

「信じろと言うだけじゃ、腹は膨れないわ」

「だから数字を見せよう。ただし、数字だけではなく、今日届く荷を見てもらおう」

俺たちは、周辺の農家とパン屋が同意した範囲で、今後二週間の納入予定を掲示した。

何袋がいつ届くか。

どの食堂で何食作れるか。

予定が遅れたら、誰に連絡すればいいか。

ただし、個々の家庭の名前や備蓄量は公開しなかった。

買い占めや盗難の標的になるからだ。

掲示板の前で、母親が呟いた。

「明後日も豆が届くなら、今日は二日分だけ買えばいいね」

その一言が、俺には何より心強かった。

しかし黒穂は別の手を打った。

取引先の商人たちへ、百枚もの約束手形を一斉に発行したのだ。

「今売れば高く買う。支払いは一か月後」

商人たちは飛びついた。

だが、オルムは手形を見て顔色を変えた。

「この署名、支店長のものじゃない」

「偽造ですか」

「分からん。ただ、同じ番号の手形を前にも見た」

俺は手形を集めるため、商人組合に相談した。

組合長は首を振った。

「商人は自分の信用を守りたい。手形が危ないと認めれば、取引先に逃げられる」

「なら匿名で番号だけ照合できませんか」

「それなら……」

組合は手形の番号と額面だけを集計した。

結果、同じ番号の手形が複数存在していた。

「これでは、誰かが必ず支払いを受けられない」

ミラが言った。

俺は黒穂の本店へ向かった。

商会長は、豪華な椅子に座って待っていた。

名はヴァルデン。

白髪を後ろへ撫でつけた男で、笑うと目尻に深い皺が寄った。

「噂の配達人か。随分と商売を荒らしてくれたね」

「飢えている人へ食料を届けているだけです」

「それが商売を壊すのだよ。価格とは、買える者を選ぶためにある」

俺は机の上へ、重複した手形番号を書いた紙を置いた。

「支払うつもりのない約束で小麦を集めていませんか」

ヴァルデンは笑みを消さなかった。

「証明できるのかね」

「番号は確認できました。発行の経緯は、これから調べます」

「では帰りたまえ」

俺は椅子を押し戻し、立ち上がった。

商会長の背後には大きな地図があった。

赤い線が港、倉庫、街道を結んでいる。

その線の多くは、俺たちがこれまで食料を運んだ道と重なっていた。

「一つ聞いてもいいですか」

「何だ」

「あなたは、食料が届いた町の子供を見たことがありますか」

「感傷で商売はできん」

「そうですね。でも、届かなかった町も、あなたの帳簿には数字でしかないんでしょう」

ヴァルデンは答えなかった。

事務所へ戻ると、ミラが知らせを持っていた。

黒穂の支店が、手形の支払いを一部延期すると通知したのだ。

市場では混乱が始まった。

俺は商人組合へ駆け込んだ。

「手形の不安を理由に、食料の配達まで止めないでください。現金払いの小口取引を分けて続けましょう」

組合長は険しい顔で言った。

「資金が足りん」

「全部を救う資金はありません。だから、病院と孤児院への食料を優先したい」

商人たちは議論した。

誰もが損を恐れていた。

それでも最後に、パン屋の主人が立ち上がった。

「俺は三日分なら、代金を待てる」

豆農家が続いた。

「うちは二日分」

魚商人が言った。

「魚は待てないから、今日の分を現金で」

小さな約束が積み重なり、最低限の配送が維持された。

夜、俺は掲示板に新しい紙を貼った。

『明日の配達は予定どおり行います』


翌朝、手形を恐れた御者が来なかった。

俺が運ぼうとすると組合長が止めた。

「お前一人では続かん」

荷役人が二人、荷車を引いて現れた。

「現金払いなら運ぶ。明日の分はまた相談だ」

現金払いで荷を積む。

人々は走り出す車輪を見送った。

黒穂の信用が崩れても、食料を運ぶ人々の信用まで失わせてはいけない。

そのための戦いが、ようやく始まった。

同じ番号が複数見つかったことを組合が公表すると、今度は手形を預けた店主たちが不安を訴え始めた。

商人たちは互いに顔を見合わせ、なかなか書類を出さない。

「信用がなくなったら、店を続けられない」

小さな雑貨屋の女性が言った。

「だから名前は集めません。番号と額面だけを封筒に入れてください。開封するのは組合の立会人です」

「それでも黒穂に知られたら?」

「誰が出したか分からない形にします。ただし、調査の結果は皆に返します」

女性は迷った末、封筒を箱へ入れた。

一人が動くと、次の人も続いた。


その夜、組合長とミラは封筒の番号を銀行の控えと照らし合わせた。

重複が単なる書き間違いではないことを確かめ、翌朝、手形の持ち主へ個別に知らせる準備をした。

「このまま支払日を迎えたら、店を閉める者が出る」

俺は数字を書き写した。

「不正を告発するのと同時に、支払いが遅れた店への対策を考えましょう」

組合長は苦笑した。

「お前はいつも二つの仕事を同時に持ってくるな」

「どちらかだけでは、人が飢えるからです」

翌朝、雑貨屋の女性が食糧便へ来た。

「昨日の箱、私も入れたわ。怖かった」

「ありがとうございます」

「でも今朝、店に来た子がパンを買えなくてね。怖いからって黙ってたら、あの子も困るんだと思った」

彼女は少額の銅貨を机に置いた。

「病院への配達に使って」

俺はすぐには受け取らなかった。

「ご自分の店は大丈夫ですか」

「大丈夫じゃない。でも、今日の分はある」

俺は寄付として記録し、受領書を渡した。

「使い道を後で報告します」

女性は笑った。

「そんな小さな金にも帳簿を付けるのね」

「小さいからこそ、誰かの大事なお金です」

約束手形を裏返した老人が、小さな文字を指した。

「期限を過ぎたら畑を取ると書いてある」

列にいた農家が次々と紙を確かめ始めた。

俺は別の融資条件を掲示し、署名を急がせないよう頼んだ。

危機のときに考える時間を奪うことも、商会の武器だった。


一週間後、病院の掲示板に寄付金で買った食材の一覧が貼られた。

女性はそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。

信用とは、立派な商会の看板ではなく、こうした約束の積み重ねなのだと俺は思った。

病院への配達が終わると、料理人が受領書に署名した。

「昨日より患者が二人増えた。明日は少し多めに頼めるかい」

俺はすぐに頷きかけ、残りの在庫を思い出した。

「確かめてから返事をします」

料理人は笑った。

「それでいい。できない約束をされるより助かる」

帰り道、俺はその言葉を繰り返した。

黒穂は支払えない手形を大量に出した。

自分たちは反対に、小さくても守れる約束を増やしていく。

それが遠回りに見えて、最も確かな道だった。

商人組合は、手形を持つ人へ相談窓口を設けた。

その初日、黒穂商会の使いが現れた。

「手形の持ち主は今日中に署名しろ。署名すれば、支払いを延期する代わりに少額を先に渡す」

列に並んだ老人が紙へ手を伸ばした。

ミラが止めた。

「待ってください。裏面に『残額の請求を放棄する』とあります」

使いの顔が強張った。

「読めない者のために説明してやっているんだ」

「説明なら、裏面も読んでください」

俺は窓口の外へ出て、待っている人々に聞こえる声で条項を読み上げた。

老人の手が震えた。

「俺は薬代が必要なんだ。今日の銅貨がなければ困る」

その言葉で俺は言い返せなくなった。

正しい説明だけでは、今日の薬は買えない。

ミラが組合長を呼び、病院への支払い猶予と緊急の食料配達を頼んだ。

「組合が全額を肩代わりするわけにはいかない。でも、権利を捨てずに今日を越える方法は探せる」

組合長は老人に、手形の写しと相談窓口の受領証を渡した。

「署名するかどうかは、説明を聞いてから決めてくれ」

老人は黒穂の使いから紙を取り返した。

「俺の金を、俺が知らないうちに消すな」

列の後ろから拍手が起きた。

使いは何も言わず去った。

その夕方、病院の料理人から知らせが届いた。

老人は薬を受け取り、食事も取れたという。

「全額戻るとは、まだ言えません」

とミラは言った。

老人は頷いた。

「分かってる。だが今日は、俺が何に署名するかを俺が決めた」

百枚の手形が一度に本物へ戻ったわけではない。


翌朝、仕立屋は手形を担保にした仕入れを断り、弟子の給金を先に払った。

布の入荷は遅れ、店先には注文を待つ客が残った。

老人はその客へ、自分の言葉で事情を説明した。

商会は

「支払いを拒む店だ」

と噂を流したが、弟子たちは給金を受け取った証拠を見せ、客に納期を選んでもらった。

客の一人は急ぎの注文を別の店へ移した。

失った売上は戻らない。

それでも仕立屋は、署名の意味を知らずに畑まで失うよりましだと笑った。

その日の夕方、相談窓口に一枚の紙が貼られた。

『署名の前に、裏面も読んでください』

書いたのは、昨日まで薬代のために署名しかけていた老人だった。

仕立屋の弟子がその横に立ち、文字の読めない客へ声に出して読み聞かせた。

俺が手を貸すまでもなく、列の後ろで別の商人が自分の手形を裏返した。

老人は弟子の給金が守られたことを確かめ、静かに帽子をかぶり直した。

一人が署名を断ったことは、まだ誰の借金も消していない。

仕立屋は失った注文の穴を埋めるため、弟子と夜まで働くと決めた。

次に呼ばれた商人は、署名する前に契約書の裏をめくった。

仕立屋が断った理由を、誰も聞かなかったことにはできなかった。

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