第七十四話 水門を閉めた商会長
ハンナの麦畑へ水が届かなくなって二日目、葉の先が黄色く変わり始めた。
「あと三日も続けば、収穫は半分以下になる」
農家たちは用水路の前に集まっていた。
水門の管理札には、黒穂連合商会の名前がある。
商会は数年前、用水路の補修費を立て替える代わりに、管理を請け負っていた。
「払えと言われた料金は払ったんだ」
ハンナが領収書を差し出す。
「それでも、上流の新しい倉庫へ水を回すと言われて」
俺は水路を歩いて調べた。
上流では確かに新しい穀物倉庫が建設されている。
だが、倉庫の床を洗うために畑の水を止める必要はない。
「水を止めた理由を、書面で確認しよう」
ミラが管理人を探すと、老人が小屋から出てきた。
「鍵を渡せと言われたんだ。断れば孫の働き口をなくすと」
「誰に?」
「黒穂の支配人だ」
俺は老人を責めなかった。
まず水を戻す方法を考える必要がある。
石工のサーラが現場を見て、古い分水路を指さした。
「ここを掘れば、上流の公共水路から水を回せる。ただし、勝手に開けば下流の村と争いになる」
俺は下流の村長に会いに行った。
村長は厳しい顔で言った。
「こっちだって水が足りない。よその麦のために、うちの畑を枯らせというのか」
「いいえ。水量を測って、夜間だけ一部を回せないか相談したいんです」
村の若い農夫が声を荒らげた。
「数字で腹が膨れるか!」
俺は言葉を挟まず、頷いた。
彼の怒りはもっともだった。
その晩、両村の農家が集まり、川の水位と必要な灌漑時間を確認した。
サーラが簡易の量水板を設置し、畑ごとの面積を調べる。
「全部の畑を同時に潤すことはできない。でも、順番を決めれば枯死を防げる」
提案したのは、下流の村の老農夫だった。
翌朝、共同の水番が立ち、分水路が開かれた。
黒穂の支配人は兵を連れて現れた。
「許可なく水を盗んだな」
俺は管理契約を示した。
「この分水路は町の共有財産です。あなたの管理区間ではありません」
「水は上流から来ている!」
「だから、上流と下流の双方が同意して使っています」
支配人は兵に命じようとしたが、同行していた町役人が止めた。
「共有水路での配分は、町の決定です。武力で妨害する権限はありません」
支配人は唇を噛んだ。
「黒穂に逆らって、次の冬を越せると思うなよ」
俺はその場で答えを決めず、相手の話を聞き続けた。
この男と口論しても、水が増えるわけではない。
共同の水番が立った翌日、下流の村の若い農夫が量水板を見に来た。
昨日まで反対していた彼は、上流の畑が乾けば次の冬に麦が足りなくなると知り、自分の畑の取水時間を短くする案を出した。
ハンナは礼を言わず、まず自分の畑の数字を示した。
二人はサーラと一緒に流量を測り直し、余裕のある時間だけを交換した。
譲る側が損を隠さなくていい。
その約束が守られるかどうかは、次の雨まで皆で確かめることになった。
さらに翌日、下流の村の青年が量水板の前で立ち尽くした。
「昨日より水が少ない。約束が違うんじゃないか」
彼の畑には、乾燥に弱い豆の苗が並んでいた。
ハンナは言い返しかけたが、サーラが二人の間に入った。
「水門の板は動いていない。上流の石積みに漏れがあるかもしれない」
三人で水路を歩くと、古い石の継ぎ目から細い流れが土手の外へ逃げていた。
誰かが盗んだのではない。
長年放置された傷だった。
青年は肩から鍬を下ろした。
「疑って悪かった。でも、俺の畑は待ってくれない」
「私の麦も同じよ」
とハンナは答えた。
サーラは土嚢を並べ、流れを一時的に細める方法を示した。
上流と下流の農家が交代で土を運び、半日かけて漏れを塞いだ。
作業を終えるころ、青年の手には血豆ができていた。
ハンナは自分の水筒を差し出した。
「今日はうちの畑の時間を少し減らす。明日の朝、また一緒に測ろう」
「貸し借りにはしたくない」
「じゃあ、次に水路が壊れたら一緒に直して」
青年はようやく水筒を受け取った。
二人の村長は濡れた石を指さし、修理に使った縄と土嚢の代金をそれぞれの村で負担すると約束した。
黒穂が管理していた頃、壊れた場所を知らせても、修理の見積書が届くだけだったという。
青年は土嚢を運んだ農家の名を一人ずつ読み上げ、ハンナは泥で汚れた手を挙げて応えた。
翌日の朝、青年は約束どおり水位を測りに来た。
昨日よりわずかに高い線を見て、ハンナに笑いかけた。
「これなら豆も持ちこたえる」
「麦もね」
ただし、失われた二日間は戻らない。
ハンナは黄色くなった葉を一枚摘み、共同の机に置いた。
「水が戻ったから終わりじゃない。次に止まったとき、同じことを繰り返さないために残しておきたい」
俺はその葉を帳面に挟む代わりに、両村の代表へ見せた。
葉は乾きかけていたが、まだ茎には緑が残っている。
ハンナが鍵を机の中央へ置くと、下流の青年も手を伸ばした。
二人は互いの顔を見てから、両村の代表がそろわなければ水門を動かさないと決めた。
次の水番表には、ハンナと青年の名が並んだ。
数日後、ハンナの畑には再び水が行き渡った。
だが収穫量の見込みは、一割ほど落ちていた。
「助かったのに、損をした気分ね」
ハンナが苦笑する。
「実際に損をしています。だから記録しておきましょう」
俺は収穫予測を帳簿に残した。
水門が閉じられた日付、農作業が止まった時間、失われた収量。
「後で責任を問うため?」
「それもある。でも来年、同じことを起こさないためです」
ミラが水路の点検に必要な道具を並べると、村長たちは各家から出せるわずかな会費を数えた。
青年は
「足りない分は、まず俺たちで見回る」
と言い、ハンナが頷いた。
会議を終えると、青年は漏水箇所を示すための縄を両村の水番へ一本ずつ渡した。
「次は一人で水路に入らない。まず相手の村にも知らせる」
ハンナは縄を受け取り、泥のついた手で握り返した。
夕方、町の倉庫街を調べていたサーラが戻ってきた。
「黒穂の連中、倉庫の小麦を全部動かしている」
「どこへ?」
「王都の北の、古い軍用倉庫よ」
俺は地図を開いた。
黒穂は水門を失っても、穀物そのものを握っている。
黒穂が小麦を移した王都北方の軍用倉庫は、民間人が立ち入れない施設だった。
俺は地図に門の位置を記した。
水門を守る村人と、穀物を取り戻すために動く俺たち。
それぞれの仕事を混同してはいけない。
黒穂の倉庫を追う前に、村の冬支度が残っていた。
集会所でハンナが不足する麦を量ると、下流の青年が自分の家の豆袋を一つ持ってきた。
「これなら分けられる。家族の分は別に取ってある」
ハンナは袋を受け取り、代わりに麦の種を少しずつ返せるか、春の収穫後に相談すると答えた。
二人は量を確かめ、受け渡しの札を互いに一枚ずつ持った。
水を分けた二つの村が、今度は冬の食卓を分け合った。




