第七十三話 銀貨のない農家を救う契約
信用審査という言葉は、王都の商人にはよく知られていた。
黒穂連合商会から借金している農家が、谷の食糧便に麦を売れば融資を打ち切る。
そんな通知が、各地の農家へ届き始めたのだ。
最初に事務所へ来たのは、麦農家のハンナだった。
「売りたい麦はある。でも、黒穂に借りた種代を来月返さなきゃならない」
「いくらですか」
「銀貨四十枚。今すぐ返せと言われたら、畑を売るしかない」
俺は帳簿を開いた。
食糧便の現金は、次の配達三回分を払えばほとんど残らない。
「全部を肩代わりすることはできません」
ハンナは肩を落とした。
「そうよね」
「でも、麦の買い方は変えられます」
俺は畑を見せてもらうことにした。
風に揺れる麦はまだ青く、収穫まで一か月ある。
ここで農家が土地を手放せば、次の季節に作る人がいなくなる。
「収穫前に、買い取り数量と最低価格を決めませんか」
「それじゃ、あなたが損するかもしれない」
「収穫が少なければ、こちらも必要量を確保できない。だから収穫量の上限を保証するんじゃなく、一定量の優先買い取りを約束します」
ミラが条件を書き出した。
前払いは種と生活費に必要な最低限。
天候不良の際は農家だけに違約金を負わせない。
品質検査は双方立ち会いで行う。
ハンナは何度も読み返した。
「こんな契約、初めて見た」
「こちらも初めてです。うまくいかなければ直します」
問題は前払金だった。
俺はラトナ村で香草を売って得た積立金を思い出した。
村の将来のために蓄えていた金だ。
勝手に使うわけにはいかない。
村の集会で事情を説明すると、老人が言った。
「その金は、困ったときに使うための金だ」
別の農民が首を振った。
「でも全部使えば、うちの種代がなくなる」
議論は夜まで続いた。
最終的に、積立金の三分の一だけを短期融資に回し、残りは村の備蓄と農業費用として守ることになった。
貸付先は一人に集中させず、返済は収穫物の納入で行う。
「誰か一人を救って、別の家を飢えさせたら意味がない」
俺の言葉に、村長が頷いた。
翌日、ハンナは契約書に署名した。
だが黒穂の代理人がすぐに現れた。
「融資契約には、指定商会以外へ販売してはならないとある」
ハンナの顔が青ざめる。
俺は契約書を確認した。
確かに、そう読める条項があった。
「これは困りましたね」
代理人は勝ち誇った。
「ならば手を引いてもらおう」
俺は書類の末尾を指さした。
「指定商会というのは、契約時に一覧を渡すことになっていますね。その一覧はありますか」
代理人は黙った。
ハンナが言った。
「もらっていないわ。名前を教えてくれたこともない」
ハンナは隣の農家を見た。
「あんたも?」
三人が首を振り、同じ契約の写しを机に置いた。
代理人が一人の記憶違いとして片づけられないよう、農家たちが自分で証言を揃えた。
「名前を出せば、次の種を売ってもらえないかもしれない」
と一人が言う。
ハンナは頷いた。
「だから署名するかどうかも、自分で決めて」
指定先が不明なままでは、どこへ売れば契約違反なのか判断できない。
俺はその場で契約無効を主張しなかった。
代わりに、町の仲裁人へ照会し、回答が出るまで取引の強制を止めるよう申し入れた。
数日後、仲裁人は黒穂に指定先の開示を命じた。
一覧には、すでに閉店した店や存在しない商会が含まれていた。
「農家に守れない約束をさせて、違約金を取る仕組みだったのか」
ミラが呟く。
仲裁人は問題の条項について、農家に不利益な解釈を認めないと裁定した。
ハンナはようやく息を吐いた。
契約の説明会には、字の読めない農民も来ていた。
俺は一枚ずつ紙を配ったが、年配の男性が黙って裏返したのを見て、手を止めた。
「すみません。読み上げます」
男性は首を振った。
「恥ずかしいからいい」
「恥ずかしいことじゃありません。大事な約束だから、皆で同じ言葉を聞きたいんです」
ミラが条項を読み上げ、俺は麦袋を使って説明した。
「この袋のうち、家族が食べる分と来年蒔く分は売らなくていい。余った分を、先に決めた値段で買います」
「不作なら?」
「収穫が少なかったことだけで罰金にはしません。ただし、収穫量は一緒に確かめます」
「それじゃ嘘をつく奴が出るぞ」
「出るかもしれません。だから隣人同士の監視ではなく、第三者の検査員を入れます」
会場には不安が残った。
それでもなお、条件を知らずに印を押すよりはましだった。
帰り際、若い農婦が小さく手を挙げた。
「夫が戦争から帰らないんです。畑の名義が夫のままで、私には契約できないと言われました」
俺は即答しなかった。
町の制度を知らないまま約束すれば、彼女を傷つける。
農家の一人が輸送費の欄を指さした。
「麦を売れても、運賃で赤字になるなら意味がない」
俺は複数の運送人の見積もりを並べ、農家自身が選べるようにした。
翌日、役場で調べると、行方不明者の家族が一定期間の耕作権を申請できる制度があった。
必要な証人は二人。
ハンナが名乗り出て、隣家の老人も続いた。
数日後、農婦は自分の名前で契約書に署名した。
「これで、自分の名前で畑を守れます」
農婦は署名した紙を胸に抱いた。
「夫が戻ってきても、私がこの一年を耕したことは消えない」
「畑を守ったのは、あなたです」
俺はそう答えた。
ミラは帰り道で言った。
「食料を買うだけのつもりが、土地のことまで調べるなんてね」
「食料は畑から来る。畑を守る人が困っていたら、次の食料は生まれない」
しかし、喜んだのも束の間だった。
彼女の畑の端で、灌漑用の水門が閉じられていたのだ。
水門の鍵には、黒穂の印があった。
俺は乾き始めた土を握った。
麦を買う契約を守っても、麦そのものが育たなければ意味がない。
次に争うのは、金ではなく水だった。
その晩、ハンナは村の女性たちを集め、契約の読み方を教え始めた。
俺が教えたのは一度きりだったが、村で学ぶ人は少しずつ増えていった。
ハンナは前払金を受け取った日、最初に新しい靴を買おうとした。
だが店先で立ち止まり、結局、壊れた鍬の修理を頼んだ。
「靴も必要でしょう」
と俺が言うと、彼女は笑った。
「必要よ。でも収穫が済んだら買う」
その姿を見たミラは、契約の前払金が生活費だけでなく生産を守る金でもあると理解した。
俺は支払い記録に用途を強制的に書かせなかった。
農家の生活まで管理する権利はない。
ただ、次回の説明会で農具の修理費も見積もりに入れることを提案した。
小さな変更だったが、農家たちの表情は変わった。
自分たちの仕事が、ただ食料を安く提供する手段ではなく、尊重される仕事だと伝わったからだ。
収穫前の契約説明会で、ハンナは初めて読み上げ役を務めた。
数字を一つ読み違えたときは、紙に指を戻して言い直した。
誰も急かさなかった。
最後列の老農夫だけは、契約書を前に腕を組んだままだった。
「去年、読めない紙に判を押して畑を失いかけた。今度も同じなら署名せん」
ハンナは老農夫の隣に椅子を運んだ。
「取り消しの条件から読みます。分からないところは止めてください」
老農夫は三度、同じ行を読み直させた。
ハンナは三度とも答え、収穫が減った場合の再協議欄を指さした。
「これなら、悪い年にも話し合えるな」
老人は自分で数量を書き込み、署名した。
ハンナは契約書を受け取らず、まず老人に写しを渡した。
「家でまた確かめてください。気になることがあれば、私に聞いて」
俺は何も言わなかった。
初めてここに来たとき、借金を恐れていたハンナが、今は誰かに考える時間を渡していた。




