第七十一話 黒い穀物印の持ち主
王都に戻った翌朝、俺は机に三種類の紙を並べた。
帝国軍の副官が残した送金記録。
王都の穀物商会が発行した倉庫証券。
そして、ラトナ村へ食料を運んだときの受領書だった。
「同じ印ね」
ミラが指さしたのは、穂を三本束ねた黒い紋章だった。
「同じに見える。でも、これだけでは犯人と決められない」
俺は紙を窓にかざした。
黒い印の下には、ほとんど見えない小さな横線がある。
ミラは同じ紙の端に二つの印影を写し、違いが偶然のかすれでないか確かめた。
帝国の記録には二本、王都の証券には一本。
「系列会社か、偽造か。まず確かめよう」
谷の食糧便が運ぶ小麦は、今日も不足している。
証拠集めのために配送を止めれば、商会の思うつぼだ。
俺はバルクに配達を任せ、ミラと二人で王都の商業登記所へ向かった。
登記官は黒い印を見ると、あからさまに目をそらした。
「この紋章の持ち主を知りたいんです」
「閲覧料は銀貨五枚だ」
「掲示には銅貨二十枚とあります」
「特別な調査だからだ」
ミラは窓口の脇に貼られた料金表を指で押さえた。
「正式な料金と、領収書をお願いします」
登記官は舌打ちし、古い台帳を差し出した。
そこに記されていたのは、黒穂連合商会。
王国と帝国の双方に支店を持ち、穀物の買い付けだけでなく倉庫の賃貸、船の保険、融資まで扱う巨大な組織だった。
「どこにでもいるのね」
「どこにでもいるから、食料が動かなくなる」
俺は名前を書き写した。
そのとき、隣の閲覧席にいた老商人が小声で言った。
「黒穂を調べるなら、倉庫より先に秤を見な」
老人はそれだけ言うと、立ち去った。
俺たちは市場の計量所へ向かった。
小麦袋の重さを量る秤には、検定印が付いている。
しかし、黒穂商会の倉庫だけは独自の秤を使っていた。
「同じ袋なのに、買い付けと販売で重量の記録が違うの?」
ミラが計算した。
「まだ秤の誤差か記帳の問題かは分からない。公認秤で確かめよう」
そこへ、黒穂商会の制服を着た男が現れた。
「よその秤に触るな」
俺は手を離した。
「検定記録を見せてください」
「お前に何の権利がある」
「買い手として、重量を確かめる権利です」
男は笑った。
「だったら買ってみろ。一袋、金貨一枚だ」
市場相場の三倍だった。
俺は買わなかった。
代わりに、市の公認秤で量ることを条件に、少量の小麦を購入した。
商会の男は拒んだが、取引のやり取りを聞いた他の買い手たちが集まってきた。
「俺の袋も量ってくれ」
「先週の分も軽かったぞ」
商会の男は荷台を閉じ、逃げるように去った。
午後、老商人が食糧便の事務所を訪れた。
「今のは危なかった。あいつらは小麦より借金で人を縛る」
老人の名はオルム。
昔、黒穂の支店を任されていたという。
「話してくれる理由は?」
「わしの息子は、黒穂の倉庫で働いていた。去年、帳簿の不正を告げようとして消えた。わしは息子の字が残る伝票を捨てられずにいる」
俺は返事を急がなかった。
老人が求めているのは復讐なのか、息子の消息なのか。
それを聞き違えれば、取り返しがつかない。
「息子さんを探す手伝いはできます。ただ、危険な証言を無理に頼むつもりはありません」
オルムはしばらく黙り、封筒を机に置いた。
中には、穀物を実際には運んでいないのに輸送費を請求した記録があった。
「紙の上だけで何千袋も動かしている。飢えた村に行くはずの麦が、数字の上で売買されているんだ」
夕刻、バルクが戻った。
「西の集落に豆は届いた。ただし黒穂の代理人が、来月から橋の通行料を上げると言ってきた」
俺は地図を開いた。
倉庫、橋、船着場、融資先。
黒穂の名前を赤い点で記すと、食料の道が網のように囲まれた。
「相手は一つの商会じゃない。道そのものを押さえている」
ミラは封筒を見た。
「なら、道を取り戻すところからね」
ただし、次に必要なのは勇ましい宣言ではない。
明日の朝、どの村へ何袋届けるか。
その表を完成させることだった。
翌日の配送に備え、俺は配送台帳をもう一冊作った。
これまでの帳簿は、誰に何を渡したかを記すためのものだった。
新しい帳簿には、届かなかったものを書く。
ラトナ村では初日のパンが足りなかった。
ベルクでは橋が壊れて豆が遅れた。
城塞都市では船が一艘帰らなかった。
「失敗ばかりだね」
ミラが苦笑した。
「成功したことだけ覚えていたら、同じ失敗をする」
バルクは城塞都市の行を見て、苦い顔をした。
「あのとき俺が川の流れを甘く見た。船長を危険にさらした」
「それを責めるための帳簿じゃない。次に誰かが判断するとき、知っておけるようにする」
俺は記録の横へ、改めた手順を書いた。
川の増水時は船を出さない。
到着確認が遅れたら救援を求める。
倉庫の封印を開くときは二人以上が立ち会う。
一つひとつは地味な約束だった。
それでも、これがなければ大商会の不正を見つけても、次の食料を届けられない。
夕方、レムから小さな包みが届いた。
中身は乾かした豆と、つたない文字の手紙だった。
『みんなで育てました。
おなかのすいたひとにあげてください』
俺は包みをしばらく見つめた。
「最初に食料をもらった子が、もう人に渡そうとしてる」
ミラは静かに笑った。
「だからこそ、黒穂のやり方を止めたいのよ」
二人は豆を試食用として残し、手紙の写しを配送所の壁に貼った。
オルムには息子の捜索を担当する者の連絡先を渡した。
商会への追及とは別に、家族を探す手は止めない。
翌日、オルムが前日に預けた証拠を調査に使う前に、俺は一つだけ確認した。
「この紙を公開したら、息子さんを探す手掛かりが失われるかもしれません」
「分かっている」
「では、原本は安全な場所に保管し、写しだけ使いましょう」
老人は初めて、深く頭を下げた。
「商売の数字を調べているのに、家族のことまで気にかけるのか」
「数字の向こうに人がいるから、調べているんです」
さらに俺は、黒穂と取引のある村を訪ねた。
村長は最初、口を閉ざしたままだった。
だが受領書を見せると、倉庫へ預けた麦の半分しか戻ってこなかったと打ち明けた。
「証拠は?」
とミラが尋ねる。
村長は床下から木札を出した。
麦袋ごとに付けていた番号が刻まれている。
倉庫証券の番号とは一致しなかった。
俺は木札を一枚ずつ写し取り、持ち主へ返した。
そのとき倉庫の裏で車輪の音がした。
村長は戸を閉めかけたが、俺は止めた。
「追えば証言者が見つかる。今は荷の数を確かめましょう」
農家の若者が裏口へ回り、積み出される袋の数だけ石を並べた。
商会の御者は追わず、村長も名を明かさない。
翌朝、空になった保管棚と石の数を村人全員で照らし合わせた。
記録だけでは奪われた麦は戻らない。
だが今度は、村人が自分の目で失われる量を数えた。
「木札と棚の数が合わない。少なくとも、あなたたちの知らない搬出があったことは確かです」
村長は長く息を吐いた。
「やっと、聞いてくれる人が来た」
帰りの荷車には村人が差し入れた乾燥豆が載った。
俺は代金を払おうとしたが、村長は首を振った。
「調べてくれた礼じゃない。次の村へ届けてくれ」
黒穂商会の名が出た途端、集まった農家が視線を落とした。
俺は商会の金より先に、この沈黙をどう破るか考えた。
差し入れの袋には村の名が墨で書かれていた。
黒い穀物印を見た若い農家が、声を落とした。
「うちの袋にも押されていた。でも、妹は黒穂と取引のある店で働いている」
俺は名前を公開の記録に書かず、ミラと別室で袋の搬出日だけを聞いた。
翌朝、妹の働く店に黒穂の使いが現れた。
若者は口を閉ざし、俺たちの前で拳を握りしめた。
「妹を失業させるくらいなら、俺の名前は出さないでくれ」
ミラは木札の番号と搬出日を照合した表を机に置いた。
「あなたが名乗らなくても、この番号を調べることはできる。証言が必要になったら、先にあなたたちへ相談する」
若者は表を見つめたが、その日は何も答えず帰った。
村長は原本を施錠した箱に収め、見張りを二人一組に増やした。
調査官へ渡したのは番号と日付の写しだけだ。
夕方、若者は妹を連れて戻ってきた。
妹は店で働くときの前掛けを握り、震える声で言った。
「名乗るのはまだ怖い。でも、あの夜、店の裏を通った荷車の数なら覚えています」
若者が妹の手を握った。
ミラは二人の名前を書かずに、新しい日付と荷車の数を表へ加えた。
ミラは村長の立ち会いのもと、番号と搬出日の照合結果を監督官へ提出した。
翌朝の再搬出を止めるため、対象の棚だけを封印する仮の措置を求める。
黒穂商会そのものを犯人と決めつけるのではなく、村の麦が無断で運び出されるのを防ぐためだった。
日暮れ前、監督官から返事が届いた。
「該当棚の移動は現物確認まで停止」
妹はその紙を読み、初めて前掛けを握る手を緩めた。
「名前を言わなくても、今日の荷は止められたんですね」
「あなたたちが確かめた数が、役に立ったんだ」
とミラ。
商会への追及はまだ始まったばかりだ。
ミラは押収を求める棚の番号だけを残し、妹の名前を書いた控えを破棄せず本人に返した。
今夜守れたのは麦だけではない。
証言した人が明日も店に立てることだった。




