第七十話 敵国の将軍が頭を下げた日
帝国の前線司令官グラウスが面会を求めてきたのは、一万人の避難民への配給が、ようやく複数の道で続き始めた頃だった。
国境で幾度も王国軍と戦った将軍だという。
「罠かもしれん」
バルクは中州への地図を広げた。
「分かっています。でも会わなければ、徴発を止める話もできません」
俺が答えると、エルザが立ち上がった。
「私も行く。村から奪われた袋のことは、村の人間が聞かなきゃ」
会談の前、エルザは将軍を国境の墓地へ案内した。
冬を越せなかった村人の名前が、小さな石に刻まれている。
「兵士だけじゃない。ここにいる人の名前も覚えて」
グラウスは帽子を脱ぎ、墓石を一つずつ見た。
俺は少し離れて待った。
墓の前でどんな顔をしても、麦は戻らない。
だが顔を背けなかったことは、エルザが確かに見届けていた。
中州の卓についた将軍は、使い込まれた軍服の懐から軍の倉庫一覧を出した。
「我が軍も飢えている。戦線を維持しろという命令がある。だから村から取った」
「誰が命じ、どこへ運んだんですか」
エルザが尋ねた。
「調べる。命令書も搬送記録も、立会人に見せる」
「死んだ人は戻りません」
「分かっている」
将軍の声は低かった。
俺は口を挟まなかった。
許すかどうかは、奪われた側が決める。
そのとき帝国側の伝令が駆け込んだ。
「南の救援便が襲われました。軍服の男たちです。御者が一人、腕を負傷しました」
グラウスは兵を集めようとした。
「大勢の軍人が村へ入れば、避難民が逃げます」
俺は止めた。
「では、兵を出さずにどう守る!」
「現地の商人と医師に先に確かめてください。負傷者を助け、食料の行き先を追うんです」
エルザが受領書の束を卓に置いた。
「ここにあるのは数字じゃない。待っている人の名前です」
将軍は一枚ずつめくり、記録係を呼んだ。
「襲撃の徴発票を照合しろ。軍の補給と民間の配給を分ける。負傷者には医師を送れ」
夕方、エルザから襲撃者の徴発票の番号が届いた。
グラウスが一覧を指でたどると、ある欄で手が止まった。
「副官の管理番号だ」
副官は呼び出され、帳簿の提出を命じられた。
調べが進むと、救援物資を私的に売り、輸送隊を襲わせて帳尻を合わせていたことが分かった。
将軍は剣に手をかけた。
「今ここで斬れば、奪われた麦の行き先は誰が答えるんですか」
俺が言うと、グラウスはゆっくり剣から手を離した。
「軍の手続きで裁く。まず荷を探し、治療費を軍に負担させる」
副官の帳簿には、別の商会への送金も記されていた。
ミラは印を見て眉を寄せた。
「王都の商会で見た印に似ている。でも、まだ同じ相手とは言えない」
「写しを取ろう。王都へ戻って照合する」
俺は答えた。
翌朝、将軍は兵の前で命令を読み上げた。
民間の救援物資を徴発しないこと。
違反した者の記録を残すこと。
村の配給所を軍の補給から切り離すこと。
「命令が出たからといって、昨日の袋が戻るわけじゃない」
エルザはそう言い、村の受領書と軍の搬送記録を双方の立会人に照合させた。
消えた袋を一つずつ追い、戻せる分は戻す。
戻らない分は、誰が責任を取るのかを記す。
救援隊の御者頭は、将軍の前に負傷した仲間の手袋を置いた。
「腕が上がらないんです。明日の便を走らせる人が足りない」
グラウスは負傷者の名前を聞き、軍医と治療費の手配を書面で命じた。
「口約束なら受け取れません」
と御者頭。
「ならば、これを持っていけ」
将軍は自分の署名を入れた命令書を渡した。
御者頭はそれを懐にしまったが、礼は言わなかった。
その日の午後、俺とエルザは国境の診療所へ向かった。
負傷した御者のロイは、肩から腕を布で固定され、寝台の端で拳を握っていた。
軍医が傷口を洗おうとすると、彼は身を引いた。
「軍服の人間には触られたくない」
軍医は手を止めた。
エルザが村の医師を呼び、ロイにどちらの治療を受けるか尋ねた。
「村の先生に診てもらう。軍医は薬と包帯を置いていってくれ」
軍医は異を唱えず、薬の名前と使用量を紙に書いた。
村の医師が傷を確かめ、骨に異常がないか調べた。
すぐには荷車を操れないと告げられると、ロイは唇を噛んだ。
「俺が休んだら、あの村への便は」
「代わりの御者を二人、もう頼んだよ」
御者頭が答えた。
エルザは軍の署名入り命令書を寝台の脇へ置いた。
「治療費は軍が払う。休んでいる間の賃金も、組合と一緒に請求する。あなたが怪我をしたことを、帳簿から消させない」
ロイは紙を見たが、すぐには手を伸ばさなかった。
「俺は、もう一度あの道を走れるのか」
「それは治ってから、あなたが決めていい」
エルザが言うと、彼はようやく握った拳を開いた。
数日後、民間救援の徴発禁止が国境の村々にも伝わり、最初の返還便が到着した。
エルザは袋の数を確かめ、受領書に足りない分を残したまま中州へ戻った。
グラウスが俺と彼女の前に立った。
「敵の子供を救うために、自国の軍とまで争った。その覚悟は私にはなかった」
将軍はゆっくりと頭を下げた。
エルザは礼を返さなかった。
「残りの袋と、ロイの治療費と休業中の賃金が支払われるまで、謝罪を終わりにしないでください」
「未返還の袋は、軍の記録と突き合わせる。ロイの治療費と休業補償は、支払日と担当者を記した書面を村へ届ける」
そのとき、エルザが受領書の端を指で押さえた。
「この名前の人は、冬の途中で亡くなりました。届かなかった麦の数だけを数えれば、この人のことが消えてしまう」
将軍は紙に視線を落とした。
「遺族には、何が起きたか伝える。軍が持ち去った記録を隠したままにはしない」
「それも必要です。でも、残された子供は今夜も食べます」
エルザは顔を上げた。
「次の便が遅れたら、誰が知らせに来るんですか」
グラウスは記録係を呼び、軍の担当者の名前と連絡先を書かせた。
「私が命じる。民間の便を妨げたら、村の代表へその日のうちに知らせる」
エルザは書面を読み、村へ持ち帰る一通を求めた。
彼女が必要としていたのは、将軍の立派な言葉ではなく、明日も確かめられる約束だった。
「村の掲示板だけでなく、駐屯地にも同じ文面を貼ってください」
グラウスは記録係に命じた。
「双方に掲示しろ。兵にも読ませる」
俺は二人を見ていた。
誰かの頭が下がることより、次の荷車が無事に村へ着くことの方が大切だった。
「礼なら、運んだ御者と、受け取って配った村の人に言ってください」
将軍は頷いた。
別れ際、グラウスは封をした写しをミラへ渡した。
「副官の送金先だ。帝国の飢饉は天候だけが原因ではない。穀物を買い占めている商会がいる」
封の印には、王都で見たものと似た模様があった。
だが、似ているだけで犯人にはできない。
王国へ戻る船の上で、ミラは封書を開かず、写しの受取日と封印だけを帳簿に記した。
「王都の帳簿と照合するまで、送金先を犯人と決めつけない」
俺は頷いた。
川向こうでは、まだ返還されていない袋を待つ家々から、夕食の煙が細く上がっていた。
船着き場に着くと、ロイの代わりに走る若い御者が、荷車の前で立ち尽くしていた。
ロイ自身が負傷した腕を吊りながら、危険な曲がり角を指さして教えている。
「俺が行って、村の人は荷を受け取ってくれるでしょうか」
若い御者の問いに、ロイは一度だけ首を振った。
「俺の代わりだと名乗るな。受領書を見せて、自分の名前で届けろ」
そこへ帝国軍の連絡係が駆けてきた。
先ほど将軍が署名した書面に、治療費の支払担当者と期限が追記されていた。
御者頭は日付を確かめ、ロイにも読めるように広げた。
「金はまだ届いていない。だから、支払いを確かめるまでこの紙はしまわない」
ロイはそう言い、通知を御者頭に預けた。
若い御者は検問の手前で止まる手順を復唱した。
村の代表が立ち会わなければ、軍の兵が通行を許しても荷は渡さない。
ロイが教えたのは道順だけではなく、断る権利だった。
若い御者が手綱を握ると、エルザが荷台の結び目を一つ直した。
「足りなければ足りないと言って。次の便を呼ぶのは、その先にいる人たちだから」
荷車は動き出した。
ロイは追いかけず、無事に坂を上りきるまで見ていた。
坂の向こうで若い御者が一度だけ手を上げた。
ロイは痛む腕を動かさず、無事な方の手で応えた。
誰かが休んでも、次の便は止まらない。
その光景を見て、俺はようやく船へ戻った。




