第六十八話 国境を閉ざす最後の命令
停戦線の救援が広がり始めた頃、王国軍に新しい命令が下った。
『帝国軍の移動を確認。
国境のすべての通行を即時停止せよ』
バルクは命令書を読み終え、俺へ告げた。
「今日で終わりだ」
「民間の配給も?」
「例外はない」
川の対岸では、食料を待つ人々が列を作っていた。
俺はその光景を見ながら、声を絞り出した。
「せめて今日の分だけでも」
「できん。敵軍が村を盾にして進んでいるという報告がある」
俺は反論しかけたが、遠くの丘に土煙が上がるのを見た。
馬に乗った兵が何十人も移動している。
誤報とは言い切れない。
「軍が来たら、村人はどうなる?」
「避難させるしかない」
ミラは地図を広げた。
村の背後には崖があり、冬の山道は危険だ。
避難できるのは一度に数十人。
食料を持って逃げる余裕もない。
救援が止まった三日間、村では麦の一部を挽かずに残した。
急いで全部食べれば次の便が遅れたときに持たない。
エルザは各家庭の残量を調べ、子供のいる家へ優先して少量を回した。
厳しい判断だったが、配給の理由を村の集会で説明した。
俺は対岸へ伝言を送った。
『救援停止。
避難の準備を。
倉庫の食料を人数別に小分けして持つこと』
エルザからの返事は短かった。
『避難できない者がいる』
その夜、俺は関所の屋根で眠れなかった。
自分が無理に渡れば、両軍が衝突するかもしれない。
何もしなければ、対岸の人々は飢える。
翌朝、バルクが俺を呼んだ。
軍の偵察報告には、敵兵の移動先が記されていた。
国境の村ではなく、北側の古い砦へ向かっているらしい。
通行停止の二日目、俺は救援用の豆を倉庫へ戻した。
腐らせずに保存できる能力が、今ほど歯がゆかったことはない。
食料は目の前にあるのに、渡すことができない。
ミラは
「無理に行けば全部失う」
と繰り返した。
俺も理解している。
それでも窓の外の白い旗を見るたび、拳に力が入った。
バルクが連絡将校と会う前、双方の兵士は互いの武器を確認した。
誤解が一つあれば会談が壊れる。
俺は食料の受け渡しで使っていた机を運び、真ん中に置いた。
かつて豆袋を数えた机で、今度は軍の移動について話すことになった。
三日後、最初の小口便が出ると、エルザは受け取った袋をすぐ配らず、村の倉庫に一部残した。
次の停止に備えるためだ。
腹を空かせた人々へ備蓄を説明するのは難しかったが、彼女は逃げずに話した。
俺はその報告を読み、現地に任せられる人がいることを心強く思った。
「村を盾にしたという情報は?」
「まだ裏が取れていない」
バルクは救援所の扉に
「停止」
の札を掛けた。
俺はそれを見て、何も言えなかった。
命令には理由がある。
しかし理由があっても、空腹は待ってくれない。
両方を同時に考えるのが、この仕事の難しさだった。
村の倉庫へ備蓄を運ぶ日、レムは小さな袋を持って現れた。
「これ、僕も運べる」
大人たちは笑って袋を軽くした。
俺は川のこちら側から、その列を見送った。
自分がいなくても、村は少しずつ動き始めている。
いつか救援便が来なくても冬を越せるようにする。
それが本当の目標だった。
救援停止の命令が出た日、俺は関所の厨房で余った湯を見つめていた。
鍋は温かいのに、川向こうでは食事を待つ人がいる。
バルクは
「お前の気持ちは分かる」
と言ったが、俺は首を振り、先に確かめるべきことを口にした。
「隊長には隊長の守る人がいます。俺にもいます」
二人はしばらく黙って地図を見た。
どちらかが悪いと決めれば簡単だが、それでは道が開かない。
俺は次の停止に備え、村の備蓄を三か所へ分ける案を作った。
一つの倉庫が使えなくなっても、ほかの場所に食料が残るようにするためだ。
エルザは村人と相談し、学校の地下と共同炊事場、古い石造りの家を選んだ。
小さな備えだが、三日間の不安を繰り返さないための確かな一歩だった。
エルザは村の集会で避難先を決めた。
歩ける人は北の森へ、動けない人は石造りの共同炊事場へ集まる。
子供たちには一人ずつ大人を付けた。
レムは妹の手を離さず、
「僕が連れていく」
と言った。
母親はその頭を撫でた。
救援便が来ない間も、人々は自分たちで生き延びる準備を続けていた。
通行が再開されたあと、俺は三日間の遅れを取り戻そうとして無理な増便を提案した。
運送組合長は即座に止めた。
「御者を休ませろ。焦って事故を起こせば一週間止まる」
俺は計画を修正し、まず不足の大きい世帯へ小口便を送り、残りは通常の隊列で運ぶことにした。
急ぐことと、無理をすることは違う。
俺は地図を見て、奇妙なことに気づいた。
古い砦の近くには、帝国軍の兵糧庫がある。
食料を求めた部隊の移動なら、村への攻撃とは別の可能性がある。
「確認のために、軍同士で連絡できませんか」
「そんなに簡単に敵と話せるか」
「救援所の中州には、双方が立ち会う手順があります。軍の使者もそこで会えるはずです」
バルクは長く黙り、上官へ照会した。
許可が下りたのは夕方だった。
武装した護衛を遠ざけ、中州へ帝国側の連絡将校が来た。
軍同士の連絡では、地図に書かれた地名が一致しなかった。
王国側の
「灰の砦」
は、帝国側では
「北の穀倉」
と呼ばれていた。
俺は二つの名前を並べて記録し、同じ場所を指していることを確認した。
戦争中は、同じ道にも違う名前が付く。
「我々は村を攻撃しない」
と将校。
「ではなぜ部隊を動かした?」
「砦の倉庫で食料が腐敗した。兵を移して調査している」
俺は目を見開いた。
食料を保存できない帝国軍では、備蓄の劣化がそのまま軍の危機になる。
バルクはすぐには信じなかった。
将校へ倉庫の記録と、村へ軍を入れないという書面を求めた。
俺は受領書の欄外に、食料の受け渡しと避難先の確認は別々に記すよう指示した。
国境が開く日を待つあいだも、村長は空き家の持ち主に手紙を送り、受入先を一軒ずつ確かめた。
国境閉鎖の命令書を読み上げた兵士は、最後の一行で声を詰まらせた。
向こう岸に子供たちが待っていることを知っていたからだ。
俺は彼に命令違反を求めず、緊急救援を申請できる条項を探した。
閉ざされた門の前で、誰か一人を犠牲にする近道だけは選びたくなかった。
翌日、双方の偵察隊が砦への移動を確認した。
村への攻撃の兆候はなかった。
それでも軍の命令が解除されるまで、救援便は動かなかった。
三日目の朝、限定的な再開が認められた。
前の便で新たな避難民四十八人のうち十六人へ食事が渡り、残る三十二人は閉鎖中、村の備蓄で一日ずつしのいでいた。
エルザは最初の小口便でこの三十二人を優先すると決めた。
俺は真っ先に荷車を出そうとしたが、バルクが制した。
「再開は昼までの小口便だけだ。兵の移動が変われば止める」
俺たちは食料を小袋に分け、最初の便を病人のいる世帯へ送った。
エルザは追加避難民の三十二人を一人ずつ呼び、受け取った粥を飲み終えるまで待った。
最後の少年は熱い椀を両手で抱き、
「妹の分もある?」
と尋ねた。
炊事係が妹の椀を差し出すと、少年は初めて肩の力を抜いた。
これで当初の二百六十四人と追加四十八人、計三百十二人全員への初回配給が確認できた。
ただし三日間の閉鎖で食事を抜いた世帯への継続支援は別に残った。
エルザは村の備蓄から前借りした分を返す順番を決め、閉鎖中に食事を抜いた十一世帯を別の板に記した。
初回配給済みの三百十二人と混同しないためだ。
十一世帯には子供のいる家と歩けない老人の家があり、次便から戸別の継続支援を始めると決めた。
その夜、村の代表は
「次に門が閉まっても三日は持たせたい」
と共同備蓄を申し出た。
管理人を三人選ぶと、エルザは受領書と鍵をそれぞれ別の人に預けた。
誰かが不在でも、村の判断で配給できるようにするためだった。
軍の動きを監視しながら、民間人への小口輸送だけを行う。
対岸の列は短くなっていた。
避難した人もいれば、体調を崩して来られない人もいる。
俺は受領書の未確認欄を見つめた。
三日間の停止で、食事を抜いた世帯が十一あった。
「助かった、で終わりにはできないね」
とミラ。
「ああ。次に止まるときのために、村の中に備蓄を作ろう」
国境はまた開いた。
橋を渡る人々の列には、行き先を書いた札を持つ者と、何も持たない者がいた。
俺は食料の受領書とは別に、今夜の寝場所が決まっていない人を数える紙を用意した。
橋を渡った女性が娘を抱いたまま立ち尽くしていた。
「帰る家が、もうないんです」
エルザは村長と空き家を調べ、その夜の寝床を確保した。
三日後の受入会合の場所と時刻を札に書くと、女性は何度も文字を読み返した。
俺は食料の受領書とは別に、帰還先未定の欄へ二人の名前を記した。
娘は眠りかけながら橋の向こうを指した。
母親は何も言わず、その手を包んだ。
初回の食事が全員へ届いても、帰る場所まで戻ったわけではなかった。




