第六十七話 敵国の子供に夕飯を
国境で再開された最初の便には、パンではなく豆と麦が積まれていた。
俺が選んだのは、長く保存でき、現地の薪で調理しやすい食料だった。
水と燃料が不足する地域には、調理の手間も命取りになる。
バルクは袋の口を調べながら言った。
「軍用に転用されれば即時停止だ」
「分かっています。今日は村の共同炊事場まで確認します」
許可を得たのは俺ではなく、エルザたち帝国側の配達人だった。
俺は中州で受領記録を渡し、川のこちらから見守る。
その日、対岸の村では大きな鍋が三つ並んだ。
子供たちが列を作り、老人が薪を割る。
レムの母親も、ようやく妹を連れて姿を見せた。
「お兄ちゃん!」
レムは対岸へ向かって叫んだ。
妹が手を振る。
川を渡ることはまだ許されない。
少年は両手を握りしめたまま立ち尽くした。
俺はその肩に手を置いた。
「会える日を作ろう」
共同炊事場では、器の大きさがばらばらだった。
大きな器を持つ人が多く受け取ったと誤解され、列で口論が起きた。
エルザは木の柄杓を一つ決め、年齢と体調に応じた配分を記した。
公平さは同じ器に同じ量を入れることだけではない。
しかし共同炊事場で問題が起きた。
列の最後にいた子供たちの器が空になったのだ。
配給担当者は鍋の底を見せた。
「人数を間違えた。避難民が昨日から増えている」
エルザは顔を青くした。
当初の救援対象は二百六十四人だったが、避難民が増え、実際には三百人を超えていた。
エルザは古い名簿を消さず、追加で来た人を別の欄に記した。
俺は追加の食料を出そうとして、倉庫の残量を確かめた。
五百キロの容量は変わらない。
しかも次便は二日後だ。
今日すべて出せば、明日の緊急便がなくなる。
炊事場の前には、食事を受け取った人が小さな木片を箱へ入れる仕組みができた。
文字が読めない人でも、配給済みかどうか分かる。
ミラは
「数を合わせるためだけなら、もっと簡単な方法もある」
と言ったが、エルザは
「本人が受け取ったことを確かめたい」
と答えた。
俺は二人の意見を聞き、木片と記録を照合する方法にした。
避難民の中には、昨日まで別の村にいた人もいた。
名簿が重複し、配給を二度受け取ったと疑われた女性が泣き出した。
調べると、同じ名前の別人だった。
俺は謝り、家族構成と避難元を確認する欄を加えた。
疑いを向けられた女性は
「食べ物を盗んだと思われるのが一番つらい」
と言った。
レムが対岸を見つめている間、バルクは足元の小さな足跡を見た。
俺は
「早く帰してやりたいですね」
と尋ねた。
隊長は鼻を鳴らした。
「だからこそ手続きは省けん。送り先を間違えたら取り返しがつかない」
その晩、彼は少年が使う毛布を畳み、身元確認の書類をもう一度揃えた。
「残っている量は?」
とミラ。
対岸から届いた新しい名簿には、避難民の名前が増えていた。
俺は一人ずつ数え、前日の数字を消さずに残した。
明日も同じ人数とは限らない。
だから計画は完成品ではなく、毎日書き直すものだった。
翌日の配給表には、避難してきたばかりの家族の欄が増えていた。
エルザは
「明日も増えるかもしれない」
と言い、俺は輸送予定に余裕を設けた。
ぴったりの量を運ぶだけでは、新しく来た人を助けられない。
余裕を作るには費用がかかるが、待っている子供の器を空にするよりはいい。
村の炊事係は、鍋の底に残った豆を見て
「明日はもっと上手に分けられる」
と言った。
エルザは笑って
「今日も十分頑張ったよ」
と返した。
俺はその会話を聞き、失敗を隠さず翌日の工夫に変えられる場所なら、救援は続いていくと思った。
人々が自分たちの食卓を取り戻し始めていた。
レムの帰還手続きは、予想以上に時間がかかった。
王国側では保護された子供として記録され、帝国側では行方不明者になっていた。
生年月日の書き方も違う。
バルクは二枚の書類を並べ、
「同じ子だと誰が証明する」
と尋ねた。
レムは母親が縫ってくれた袖口の刺繍を見せた。
エルザが対岸で母親に同じ模様を描いてもらい、照合した。
共同炊事場では、食料を配る順番を巡って意見が割れた。
子供から先にするべきだという声と、働く大人が食べなければ薪も水も運べないという声。
エルザは医師と炊事係を交え、必要量を確保したうえで役割に応じた配分を決めた。
俺はその決定を尊重した。
現地の人が納得して続けられる方法でなければ、翌日には崩れてしまう。
対岸から母親の声が届いた瞬間、ミラは帳簿を閉じた。
いつもなら到着時刻を記すところしかし、今は数字を見たくなかった。
俺も黙っていた。
川の上を風が通り、子供の笑い声が聞こえる。
これまでの失敗も、届かなかった袋も消えない。
それでも、家族が再び同じ食卓につける日が近づいている。
その事実だけは、胸を張っていいと思えた。
「百二十キロ。でも全部は使えない」
二人は急いで対岸と連絡を取り、今夜の食事を確保するための調整を始めた。
村に残っていた乾燥野菜と豆を合わせ、鍋の水分を増やすだけでは栄養が足りない。
子供と病人へ先に適切な分量を配り、大人の分は明朝の追加便で補うことにした。
「大人だって腹が減ってる!」
と一人の男が叫んだ。
エルザは頭を下げた。
「その通り。だから私たち配達係も同じ量にします。あなたたちだけ我慢させない」
男はしばらく黙り、薪を一本、火にくべた。
レムの帰還に備え、バルクは少年に小さな木札を渡した。
保護記録を照合するための札で、王国の紋章が焼き付けられていた。
「二度と必要にならん方がいい」
と隊長は言った。
レムは大切そうに胸へしまい、渡河許可が下りる日を待った。
夜になっても食堂の灯りは消えなかった。
遅れて来た避難民の人数を確認し、翌日の必要量を計算するためだ。
そのとき、レムの妹が小さな紙を川向こうへ掲げた。
文字は書けないらしく、絵だけだった。
丸い鍋と、三人が並んで座る絵。
「お母さんと、妹と、僕だ。早くこうなりたい」
レムは涙を拭いた。
「三人で食べたい」
レムの描いた鍋の絵は、炊事場の入口に貼られた。
通りかかった妹が、それを見つけて兄に手を振った。
翌朝、バルクが例外的な家族再会の手続きを進めた。
少年が対岸へ戻るには帝国側の身元確認と、王国側の保護解除が必要だった。
二日後、両国の担当者が立ち会う中、レムは中州を渡った。
橋代わりの板に足をかけたところで、レムは振り返った。
「七粒の豆、返せた?」
俺は対岸のエルザに預けた封筒を指さした。
母親はそれを受け取り、妹の手に一粒だけ載せた。
残りは春に蒔くのだという。
「全部食べたら、来年がなくなるから」
とレム。
俺は何も言えなかった。
今夜の鍋を満たす仕事と、来春の畑を残す仕事は、同じ家族の中でつながっていた。
母親は彼を抱きしめ、何度も名前を呼んだ。
俺は目をそらした。
自分が届けたのは食料だけではない。
しかし家族が再会できたのは、書類を整えたバルクと、受け入れたエルザ、そして待ち続けた母親のおかげだ。
夕食のあと、レムは空になった椀を洗おうとして、母親に止められた。
「今日はもう休んで」
レムは首を振った。
「明日はまだ食べてない人が来るから」
エルザは幼い手から椀を受け取り、明日の配達先を一緒に確かめた。
レムが寝台に戻ると、その名前を大人の当番表に書き移した。
夜、エルザから受領書が届いた。
先に確認できていた六十九人と今回食事を受けた百九十五人で、最初の二百六十四人全員への初回配給が済んだ。
新たに流入した四十八人には十六人まで届けられたが、三十二人がまだ待っている。
俺はその三十二人の名簿を次便の御者へ渡した。
受領書の隅には、レムの小さな字で
「きょう、みんなで夕飯を食べました」
とあった。
エルザはその紙を妹に見せ、二人は並んで眠ったという。




