第六十二話 敵国へ渡す一枚の受領書
王都の軍務院は、俺の申請を却下した。
理由は明快だった。
救援物資が帝国軍に奪われれば、王国の兵士を危険にさらす。
「それは正しい懸念です」
と俺は相手の目を見て言った。
「だから渡す相手と受領の方法を決めたい」
軍務官は眉を上げた。
「敵国に受領書を書かせるつもりか」
「書ける人がいなければ、目の前で配ります。人数と配布量を両側から確認します」
「理想論だ」
軍務官は戦死者の名簿を机に置いた。
「去年、帝国軍に奪われた補給で、うちの兵が何人死んだと思う」
俺は反論できなかった。
だからこそ軍へ流れない方法を示す責任がある。
会議室を出たミラは壁に背をつけた。
「また十日かかる?」
「十日待てない。けれど勝手に渡れば、次の百台が止まる」
俺は関所へ戻り、渡し守の老人に尋ねた。
川の中州はどちらの領土なのか。
老人は笑った。
「増水すれば沈む。誰も欲しがらん石ころだ」
国境線は川の中央に引かれている。
中州の半分ずつを双方が主張していた。
俺はそこを共同受け渡し所にする案を考えた。
中州の水位は昼と夕方で膝ほど変わった。
渡し守は石の位置を教え、
「荷を置く場所を間違えれば全部流れる」
と注意した。
俺は木箱を二段重ねにして食料を載せ、箱の脚に縄を結んだ。
受領書だけでなく、実際に濡らさず渡す工夫も必要だった。
バルクは地図を見て首を振った。
「敵兵が混ざれば終わりだ」
「武器を持ち込ませません。最初は十人分だけ。こちらからも医師を一人、監視役を二人」
「帝国側が応じる根拠は?」
その問いに答えたのはレムだった。
少年は紙に一つの印を描いた。
三本の麦穂を束ねた印。
「村長さんの旗。あの旗の人なら、お話を聞いてくれる」
ミラは受領書の端に日付を二種類書いた。
王国の暦と帝国の暦では月の区切りが違う。
あとで照合するとき、同じ日を別の日と勘違いしないためだ。
小さな修正しかし、国境を越える仕事には、こうした違いが幾つも潜んでいた。
中州の受け渡しを見ていた兵士の一人が、俺へ小声で尋ねた。
「本当に敵国の子供が食べると信じてるのか」
俺は即答しなかった。
「信じたいから、確かめる方法を作るんです」
兵士は受領書を覗き込み、印の数を数えた。
数字を読み終えると、彼は自分の署名も書き加えた。
目撃者が一人増えた。
エルザは十人の名前を口にした。
足を痛めた老人、子を抱えた母親、兄弟で暮らす少年たち。
俺は名前を覚えようとしたが、帝国の発音は難しかった。
何度も聞き直すと、エルザは少し笑った。
「あなた、英雄というより不器用な帳簿係ね」
俺も笑った。
英雄と呼ばれるより、名前を間違えない方が大切だった。
夕暮れ、渡し守は箱を岸へ戻し、縄を干した。
次の便があるなら、同じ縄を使うことになる。
俺は傷んだ箇所に印を付け、交換を頼んだ。
小さな仕事が積み重なって、ようやく一袋が届く。
川を渡った十人分の食料は、決して奇跡で運ばれたわけではなかった。
俺は軍務院へ提出した申請書の写しに、最初の十人への受領印と、まだ配れない二百五十四人の人数を添えた。
名簿の原本はエルザが村で保管し、こちらへ渡す写しからは、兵に知られれば危険な名前を伏せる。
次便の食料は軍への補給ではなく住民への配給と明記し、受け渡しの場所、立会人、残量の確認方法も記した。
許可が出るまでは運べない。
それでも許可が下りた瞬間に動けるよう、渡し守には箱の修理を、ミラには調達先への連絡を頼んだ。
村の女性が受領順の紙を掲げると、最後尾の老人が手を挙げた。
「字が読めない者はどうする」
俺は彼女と相談し、順番を声でも伝える係を決めた。
紙を公開するだけでは、紙を読めない人を救えない。
翌日、渡し守が川の中央へ白布を掲げ、こちらの提案を書いた板を流した。
帝国側から矢が飛んできた。
板は岸に届かず沈んだ。
最初の試験配給に向けて、ミラは二種類の帳簿を作った。
一冊には総量と搬入時刻、もう一冊には村側の受領と配布先を記す。
俺は
「片方が失われても照合できるようにしよう」
と言った。
エルザはその話を聞き、
「村の記録係にも読める字で書いて」
と頼んだ。
二つの国で使う数字の形が違うため、袋の番号だけは共通の記号を採用した。
誰もが面倒そうな顔をしたが、翌日にはその工夫が役立つことになる。
中州の石に白い粉で線を引き、両側の人がそこから先へ進まないようにした。
誰かが怖がって逃げ出しても、追いかけない。
最初の受け渡しは、食料の量よりも互いの安全を守る約束が大切だった。
エルザは線の向こうで立ち止まり、
「これなら明日も来られる」
と言った。
俺はその言葉を、受領書の余白に書き留めた。
渡し守が試しに箱を中州へ運んだとき、底の板が一枚外れた。
袋が水に落ちかけ、俺は慌てて縄を引いた。
濡れた食料をそのまま渡せば、村で腐るかもしれない。
倉庫に入れれば腐敗を止められるが、収納する前に傷んだものは元に戻らない。
俺は箱を修理し、袋を一つずつ油布で包んだ。
「そんな手間をかけるのか」
と兵士が言う。
「たった十人分でも、待っている十人には全部です」
兵士は黙って釘を打つのを手伝った。
受け渡しが終わる頃、エルザは小さな紙片を差し出した。
村の子供が描いたらしい、丸いパンの絵だった。
「この国では、パンを丸く焼くの」
と彼女は言った。
俺は自分が用意した硬い麦粒を見て、食べ慣れた料理の違いに思い至った。
次の便では、現地で普段使う豆と穀物の割合を確かめることにした。
食料は重さだけ合っていればいいわけではない。
帰り支度を始めたエルザが、川岸で立ち止まった。
「十人には届いた。でも村には二百六十四人いる。残りの二百五十四人は、今夜も空腹のままなの」
その声に、受領書を拒んだ老人が振り返った。
老人は自分の袋を抱え直し、エルザに尋ねた。
「隣の家の子にも分けてやりたい。俺が受け取った分を半分にしていいか」
エルザは老人の痩せた手を見た。
「分けるなら、あなたが食べる分も残して。明日、あなたが倒れたら誰が子供を連れてくるの」
老人は袋を二つに分け、片方を胸に抱いた。
対岸の兵は槍を下ろさなかったが、老人が中州を離れる間、誰も矢を放たなかった。
俺はミラに頼み、受領書の控えに人数だけを記した。
十人へ渡した量、受け取れなかった二百五十四人、そして次に必要な食料。
名前を公表すれば危険な人の欄は空けた。
「次の便を必ず出すと、約束してくれる?」
とエルザ。
「出すための許可を取りに行く。でも今日、出せない便を出せるとは言わない」
エルザは悔しそうに唇を噛んだあと、頷いた。
「だったら私も、明日の受け取り場所を確かめておく」
軍務官は荷車を指さした。
「兵に奪われたら、救援が敵の補給になる」
俺は否定しなかった。
「だから受取人と数量を双方で確かめる。危険を隠して通すつもりはありません」
彼女は渡し守と中州の水位を確かめ、村へ戻っていった。
白い旗の向こうで、老人が隣家へ向かう姿が小さくなった。
十人の食事を守れた。
それでも二百五十四人が待っている。
村側の名簿には、初回に食べた十人と、まだ一度も受け取っていない二百五十四人を別々に記した。
次便の到着後は、袋数だけでなく実際に食べた人数をエルザが確認し、俺の控えと照合することにした。
翌日以降の便は、許可が下りた分だけ順次渡す。
十人への初回配給と、まだ配れない二百五十四人を混同しないよう、俺は受領書を次便の申請書に重ね、軍務院への早馬に託した。
ミラは次の荷を集め、エルザは村で受け取り場所を確かめる。
明日すぐに全員へ届けられる保証はない。
だからこそ、次の一袋が誰の手に渡るかまで、二つの岸で見届けなければならなかった。




