第六十話 百万人の食卓
冬の最初の雪が降った日、俺は北方救援の集計表を受け取った。
各地の備蓄、農家からの買い取り、港からの輸送、訪問配達。
数字は何枚もの紙に分かれている。
「救援対象の町と村は、百三十七か所です」
とミラが言った。
「全部に届いた?」
「いいえ。山間部の九村は、まだ予定量の半分以下です」
俺は地図を見た。
九村へ続く街道は、雪で閉ざされ始めている。
「先に運べる分を運ぼう」
だが、運送組合長は首を振った。
「馬車では危険だ。峠で事故が起きれば御者まで失う」
俺は山道の案内人を呼び、徒歩と橇を組み合わせた小口輸送を検討した。
運べる量は少ない。
村ごとの人口と残りの食料を照らし、優先順位を決めなければならなかった。
「なぜうちの村が後なんだ!」
代表者が怒鳴った。
「今ある食料の残日数と、道路の危険度で決めています」
「うちの子供は待てない!」
俺は目をそらさなかった。
「その通りです。だから、後になる村にも先に少量の緊急便を出します。足りない分は、到着予定日を明記します」
誰も満足していなかった。
それでも、理由を隠して決めるよりはよかった。
最初の橇便が出発した朝、俺は保存倉庫に医師の指示で選んだ食料を詰めた。
容量は五百キロ。
持てるのはほんの一部だ。
峠の途中で吹雪が始まった。
案内人が足を止める。
「これ以上は危険だ。引き返そう」
俺は悔しさで拳を握った。
しかし、無理に進んで全員が倒れれば、次の便も出せなくなる。
「戻ろう。別の道を探す」
峠の村で、配給を受けた父親が俺に尋ねた。
「来年もここに住めるだろうか」
俺は簡単に大丈夫とは言えなかった。
雪解け後の畑の状態、道の修理、備蓄倉庫の設置。
まだ決めなければならないことが山ほどある。
村の女性たちは、届いた豆の一部を翌日の共同炊事に回した。
少ない食料を一軒ずつ燃料を使って煮るより、まとめて調理した方が薪を節約できる。
俺はその工夫を他の村にも伝えるよう、記録係に頼んだ。
王都の掲示板には、救援を受けた人の数だけでなく、届かなかった人の数も載せた。
見栄えは悪い。
それでも俺は消さなかった。
数字を隠せば、次の配達先が見えなくなる。
彼は空白の欄に、翌週の確認日を書き込んだ。
村へ戻った彼らを待っていたのは、責める声ではなく、地元の炭焼き職人だった。
「冬でも通れる谷筋がある。ただし橋が狭い。橇は一台ずつだ」
雪道へ向かう女性は、地図の丸を指でなぞった。
「帰ってこなかったら、この村を忘れないで」
俺はその言葉を受け取らず、引き返す時刻を二人で決めた。
救援を英雄の犠牲で成り立たせるのではなく、帰って次の便を運べる仕組みにしたかった。
翌日、案内人と職人の協力で小さな隊列が出発した。
危険な箇所には縄を張り、交代で荷を運んだ。
三日目の夕方、山間の村に最初の食料が届いた。
村長は袋を数え、静かに言った。
「これで春まで足りるわけじゃない」
「分かっています。次の便の日付をここに書きます。もし遅れたら、連絡を出します」
村長は受領書に印を押した。
「それなら、村でも残りの食料を計算し直そう」
雪の夜、村の集会所に湯気が立った。
子供たちは温かい豆の煮込みを食べ、大人たちは次の作付けについて話していた。
俺は窓の外を見た。
遠くの村にも、今夜同じように食卓があるだろう。
まだ届かない家もある。
その事実を忘れてはいけない。
王都へ戻ると、食糧便の掲示板に新しい集計が貼られていた。
救援を受けた地域の数、配達完了率、未達の村、残る必要量。
数字は改善していたが、ゼロにはなっていない。
ミラが言った。
「百万人を救った、って言っていいのかな」
俺は相手の目を見て、首を横に振った。
「まだだ。今冬を越せても、来年また飢えたら終わりじゃない」
「じゃあ、何を目標にする?」
「食料がなくなる前に知らせが届いて、足りないところへ誰かが運べる世界」
そのとき、南の国境から急使が到着した。
封筒には王国軍の印がある。
軍の印が押された書類について、俺は発行元と受取先を一つずつ確かめた。
見慣れた印でも、荷物を渡す根拠にはならなかった。
ミラは明朝の最初の便に、まだ食事を受け取っていない人の印を付けた。
印が残る村には、今日の食卓にまだ何も並んでいない家がある。
「食卓が空いたままの家を、完了の数字に隠したくないの」
とミラは言った。
俺は配られた椀の数と、列から離れた老人の背中を見比べた。
診療所へ届いた箱は、予定より一つ少なかった。
ミラは到着印を押さず、輸送途中で預けた場所へ使いを出した。
受け取ったことにしてしまえば、足りない薬を待つ患者の名前まで帳面から消えてしまう。
誰もが違う事情を抱えている。
運ぶ順番を変えるたび、遅れる家には伝言を託し、理由を記録に残した。
『敵国領内に大規模な飢餓。
民間人の越境を禁止する』
俺は手紙を読み終え、窓の向こうの雪を見た。
飢えた子供に国境は関係ない。
だが、食料を届ける道には、これまでで最も高い壁が立ちはだかろうとしていた。
百万人の食卓という言葉を聞いて、料理人は首を傾げた。
「同じ料理を百万人に出すのかい」
俺は答えられなかった。
乾燥した麦があっても、火を起こす薪がない地域がある。
塩が不足する村も、噛む力の弱い病人が多い避難所もある。
エナは各地の炊き出し担当者から調理方法を集め、食料の種類だけでなく必要な燃料と水の量を書き添えた。
ある村では麦を粉にせず粒のまま煮る方が燃料を節約できた。
別の町では共同窯を一度に熱し、複数の家族のパンを焼いた。
俺は地図の横に献立表を貼った。
食卓を増やすとは、袋の数を増やすだけではない。
食べられる形にするところまで届けることだった。
雪の中から戻った御者が、荷台に空の木箱を載せていた。
「食料は全部渡せた。でも村からこれを預かった」
箱の底には、受け取った人々の名前と、来春に返せるかもしれない作物の種が入っていた。
俺は返礼を断ろうとしたが、御者が止めた。
「これは代金じゃない。生き延びた証拠だそうだ」
ミラは百三十七か所の一覧に、到着した便と未到着の便を別の色で記した。
九村の不足はまだ消えない。
だが報告を遅らせていた峠の村が、隣村へ伝令を出す役目を自ら引き受けてくれた。
俺は集計表を閉じず、机の中央に置いた。
そこへ国境の向こうから届いた封書が重なった。
差出人の名はなく、ただ『子供が先に倒れている』と記されていた。
ミラは九村の欄を見つめた。
「届いた場所だけ数えて、終わったことにしたくない」
俺はその欄に翌日の担当者を書いた。
百万人分という目標を書いた紙の端に、今日届かなかった村の名を残した。
達成した数で、待ち続ける人の存在を消してはいけない。
雪の深さは変えられなくても、誰が確かめに行くかは決められた。
九村の欄を指したミラが、空欄の一つを丸で囲んだ。
「ここは私が行く」
俺は雪道の危険を伝え、同行者と引き返す条件を決めた。
届かなかった村の名を残すだけでは足りない。
そこへ向かう人を無事に帰す責任もある。
翌朝、ミラが向かった峠から最初の伝令が戻った。
九村のうち二村では、村人が古い狩猟道を通って隣村へ知らせを運んでいた。
ただし橇は通れず、一度に背負える食料にも限りがある。
「無理に進めば、運ぶ人が戻れません」
伝令の言葉に、俺は急がせる命令を書きかけた筆を止めた。
ミラは九村の残りの食料を確かめ、最も危険な家へ少量ずつ届ける案を出した。
ほかの袋は近くの倉庫で守り、天候を見て運ぶ。
「届いたことにしてしまわないでね」
と彼女は言った。
「もちろんだ」
夕刻、峠から小さな木札が届いた。
『今日の粥は食べられた。
明日は隣村の道を見に行く』
裏には、村人自身が決めた伝令当番の名前が刻まれていた。
俺は百万人の集計表の上に、その木札を置いた。
数字の端に、小さな村の食卓が一つ灯ったようだった。
まだ届かない七村がある。
机には国境の向こうから届いた『子供が先に倒れている』という封書も残っている。
「ここを忘れずに、向こうへも行くのね」
とミラが言った。
俺は頷いた。
雪の峠にも国境にも、待っている人がいる。
百万人の食卓は完成していない。
けれど今日、食べられた村の人が明日の伝令を引き受けた。
百万人分の食卓を語る席で、料理人は空の鍋を一つ差し出した。
「明日の分は?」
俺は祝杯より先に、翌朝の補給便の出発を確かめた。
次の伝令を引き受けた農家が、まだ食料の届かない七村の名を読み上げた。
俺は最後の村まで聞き、出発する彼に新しい地図を渡した。




