第五十四話 百万人という数字
北の平原から戻った俺を、王都から来た役人が待っていた。
「救援会議に出席してほしい」
差し出された公文書には、見慣れない数字が並んでいた。
被害地域十二領、推定人口百二十万人。
今季の収穫予測は平年の三割。
俺は最初、桁を読み間違えたと思った。
「百二十万人……?」
「全員が飢えているわけではない。だが冬までに穀物が不足する」
役人の声は落ち着いていた。
それがかえって恐ろしかった。
会議室には貴族、商人、軍の補給担当者が集まっていた。
机の上の地図には赤い印が広がっている。
「食糧便の倉庫能力はどれほどだ」
と貴族が尋ねた。
「私個人の保存倉庫は五百キロです」
「五百? そんな量で何ができる」
笑いが起きた。
俺は地図から目を離さなかった。
「私の倉庫で百万人は養えません。必要なのは、各地の備蓄と輸送を結ぶことです」
「それは王国の仕事だ」
「なら、王国の数字を見せてください」
部屋が静まった。
出された帳簿には、領ごとの穀物保有量が書かれていた。
しかし計測日がばらばらで、同じ倉庫が二つの領の数字に重複している。
「これでは実際に何袋あるか分かりません」
軍の担当者が眉をひそめた。
「我々の記録が間違っていると言うのか」
「間違いがある可能性を、今ここで確かめたいんです」
俺は重複した倉庫番号を指さした。
担当者が顔色を変える。
調査隊の若い書記官は、領主の前で数字の誤りを指摘することを恐れていた。
俺は
「誰が間違えたか」
ではなく
「どの袋を二度数えたか」
を先に確認するよう頼んだ。
責任追及は必要でも、調査の入口で人を黙らせれば、肝心の数字が集まらない。
運送組合の馬車には、同じ日に二つの村へ到着する予定が書かれていた。
距離を測ると不可能だった。
御者は
「役所の都合でそう書けと言われた」
と打ち明けた。
俺は無理な日程を直し、遅延の理由を公開した。
見栄えのいい予定表より、守れる約束が必要だった。
会議を終えた役人は、廊下で小さく礼を言った。
「数字を疑ってくれて助かった。私もおかしいと思っていたが、言い出せなかった」
俺は役人に、地図に載っていない村の調査方法を尋ねた。
「次は俺が間違えるかもしれません。そのときは、遠慮なく指摘してください」
会議は紛糾した。
貴族たちは責任の押しつけ合いを始め、商人は価格保証を要求した。
俺は黒板に三つの欄を書いた。
『確実にある食料』『運べる食料』『まだ確認できない食料』
「同じ袋を二度数えたら、人が死にます。まずここを分けてください」
その日の夕方、会議は暫定の調査隊を設けることで終わった。
だが調査には時間がかかる。
帰り道、ミラは言葉を選んで言った。
「百万人なんて、想像できない」
「俺もだ」
俺は正直に答えた。
夜明け前、倉庫の前で二人の御者が口論していた。
どちらも先に出発しなければ、待つ村の食料が尽きるという。
俺は片方を黙らせる代わりに、道の途中で荷を積み替える案を出した。
だが橋の幅では荷車を並べられない。
結局、二人は橋の手前で荷を降ろし、村の若者が手渡しで運んだ。
遠回りを選ばなかった分だけ、人手を借りた責任が残った。
「だから、一日分の食事に直して考える。誰に、何を、いつ届けるか」
食糧便の事務所では、御者たちが通常便の予定を組んでいた。
ラトナ村、ベルク集落、城塞都市。
今まで守ってきた便を止めるわけにはいかない。
「新しい仕事を引き受けたら、今の約束が破れるかもしれない」
とミラ。
「そうならない人数で始めよう。俺たちだけで全部やろうとしない」
名簿の空欄に名前を書き入れた女性は、ペンを離せずにいた。
「この人が生きているかは、まだ分からない」
俺は勝手に救助済みの印を付けず、捜索を依頼した日付を書いた。
百万人という数字を減らすことより、一人の行方を曖昧にしないことが先だった。
翌朝、俺は近隣の運送組合に協力を求めた。
食糧便の看板を掲げる必要はない。
各社が自分の荷車で運び、到着記録を共通の帳簿に残す。
「利益はどうなる」
と組合長。
「運賃は払います。救援だから無料で働けとは言いません」
組合長は意外そうに目を上げた。
「金の出どころは?」
「王国の予算と寄付金です。両方の帳簿を公開します」
夕方までに六つの運送組合が参加を申し出た。
それでも、必要量のほんの一部だった。
俺は百万人という推計の横に、算出に使った地域と未確認の村を書き添えた。
数字の大きさより、数字から漏れた人を恐れた。
夜、俺は地図の赤い印を数えた。
救えるかどうか分からない地域が、まだいくつもある。
そこへ一通の速報が届いた。
『北方の穀倉地帯、収穫前の麦畑で大規模な火災』
百万人という数字は、明日にはさらに重くなるかもしれなかった。
百万人という数字を読み上げた役人は、最後の桁で声を詰まらせた。
机上の地図には赤い点が無数に打たれ、どれも食料不足を示している。
俺は一つの点を指し、
「ここには何人いますか」
と尋ねた。
役人は答えられなかった。
人口調査は三年前のもので、干ばつによる移住者を含んでいないのだ。
会議では巨大な数字だけが独り歩きし、現場に必要な袋数が決まらなかった。
そこでエナは地図を地区ごとに分け、各地の代表に現在の人数と食料の残量を記入させた。
最初の報告には空欄が多かったが、空欄を推測で埋めないことにした。
数字が分からない場所には、まず調査員と少量の緊急食を送る。
百万人を救う計画は、ひとり分を正しく数える仕事から始まった。
調査員を送るだけでは、最初の食事に間に合わない村がある。
俺は報告の空欄に、先遣隊が携える保存食の最低量を追記した。
俺は診療所の戸口で、順番を待つ親子の靴を見た。
母親の靴底には穴が開いている。
薬を渡すだけでは帰り道を歩けないと気づき、ミラに荷車の帰路へ一人分の席を作ってもらった。
会議の帰り道、俺は役人と、先遣隊をどの道へ向かわせるか確認した。
そのとき、廊下に座っていた少女が俺の袖を引いた。
「百万人って、何人?」
「とても大勢だよ」
「じゃあ、私のお母さんも入ってる?」
少女の母親は干ばつで村を離れ、途中の診療所に運ばれたという。
だが少女が覚えている村の名は、地図の赤い印のどこにもなかった。
俺は役人を呼び止めた。
「この村の人数は?」
「調査中です」
会議の翌朝、役人が救援地図を抱えて戻ってきた。
「報告のない集落が、さらに三つ見つかりました。加えれば必要量が増えます」
「加えましょう」
と俺は答えた。
「数字を小さくしても、空腹の人は消えません」
昨日、母親の知らせを待っていた少女が診療所の前にいた。
母はまだ起き上がれないが、薄い粥を半椀食べられたという。
少女は皺だらけの手紙を広げた。
『明日は一緒に食べたい』たった一行だった。
俺は会議で決まった配達順を変えた。
危険な山道に無理に荷車を入れるのではなく、診療所を中継点にし、近隣の三集落へは土地を知る人と医師が同行する。
帰着時刻を決め、連絡が途切れた場合の捜索担当も置いた。
役人は地図の隅に少女の母親の名前を書いた。
「ここから始めるのですか」
「ここだけで終わらせないためにです」
少女は役人が抱えた地図を見上げた。
「まだ名前のない村にも、行ってくれる?」
役人は赤い印のない山裾を指し、そこへ向かう道を教えてほしいと少女に頼んだ。
役人は地図を畳み、初めて自分から訪問先を申し出た。
「私が行きます。名前を聞いて、帰って報告します」
少女は役人の外套の裾をそっと引いた。
「お母さんみたいに、待ってる人がいるから」
役人はしゃがんで目を合わせ、
「必ず探しに行く」
と答えた。
大きな数字の書かれた地図を畳み、少女に見送られて廊下を歩き出した。




