第五十一話 雨の降らない村から届いた土
ラトナ村の畑に種麦が芽吹いた朝、俺のところへ小さな木箱が届いた。
差出人の名はない。
箱の中には灰色に乾いた土と、一本の折れた麦の穂が入っていた。
「北の平原、セリオ村からです」
配達人の少年が言った。
「村長が、これを見れば分かるはずだって」
土を指で押すと、粉になって崩れた。
水分がほとんどない。
俺は箱の底に挟まった紙片を見つけた。
『井戸は七つとも枯れた。
残る麦は十二日分。
子供が四十三人』
「干ばつか」
箱の底には、もう一枚の小さな紙が張り付いていた。
『この土は、去年まで麦が育った場所のものです。
見捨てないでください』
俺は紙をミラに渡した。
救援を頼む数字は幾度も見てきた。
だが土そのものを送ってきた村は初めてだった。
「麦を届けるだけでは、来年も同じ手紙が来る」
「だからといって、今日の食事を後回しにはできないわ」
ミラの指が、地図の上で二つの村を行き来した。
俺は配達予定表に、食料と水源調査を別々の便として書き込んだ。
「北だけじゃありません」
食糧便の帳簿を持ってきたミラが地図を広げた。
「同じ平原の五村から、穀物の買い付けが途絶えています」
俺は保存倉庫の表示を開いた。
収納量四百二十六キロ。
うち百八十キロは城塞都市への定期便に充てられ、勝手には動かせない。
「今すぐ全部持っていけば?」
若い御者が言う。
「十二日後にまた飢えさせるだけだ。それに城塞都市の分を抜けば、向こうの病院の食事が止まる」
若い御者は地図から目を離した。
城塞都市の病院にも、セリオ村の子供にも、同じように食事を待つ人がいる。
俺は今夜の便と水源調査の便を分けて指示した。
食料を届ける仕事が大きくなったぶん、一つの善意が別の誰かを傷つけるようになっていた。
その日の午後、俺はセリオ村に向かった。
荷車には小麦だけでなく、空の樽と水量を測る縄を積んだ。
村に着くと、井戸の底に落とした桶が乾いた音を立てた。
「麦を持ってきてくれたのか!」
村長が駆け寄る。
「少しだけ。まず、水の残量と人数を調べたい」
村長の顔が曇った。
「調べている間に腹は減る」
村の診療所では、助産師が湯を沸かす薪さえ節約していた。
俺は食料だけでなく燃料の不足も聞き取り表に加えた。
乾いた麦わらを燃やせば畑へ戻す有機物が減る。
今夜の暖かさと来年の地力が、ここでも同じ秤に載っていた。
少年の母親は俺に礼を言いかけ、言葉を飲み込んだ。
「明日も来てくれると、期待してしまうから」
俺は安易に頷かず、次の便の日時を紙に書いた。
もし遅れた場合に知らせを運ぶ人の名も記した。
配給所では、体の弱った人に一度に大量の食事を渡さないよう、医師の助言を受けた。
誰にでも同じ量を渡すことが公平ではない。
年齢や状態を確認し、配り方まで工夫する必要があった。
「分かっています。だから今夜の分は配ります。でも、明日の分を決めるには数字が要る」
配給の列で、少年が自分の皿を妹に押しつけた。
妹は受け取らず、二人で黙って皿を見つめた。
俺は二人に同じ量の粥をよそった。
二人が食べ始めるまで待ち、村の倉庫へ向かった。
兄は最初の一口を飲み込むまで、妹の皿を見ていた。
誰かに食べ物を譲る癖がつくほど、ここでは飢えが長かったのだ。
倉庫には穀物袋が十六。
だが帳簿には二十三とある。
村長は慌てて説明した。
「七袋は、種に残した。畑の納屋にある」
「その七袋を見せてください」
納屋の床には空袋が積まれていた。
村長は肩を落とした。
「昨日、食べさせた。嘘をついた。種まで失ったと知られたら、村の者が希望をなくすと思った」
俺は怒鳴らなかった。
帳簿の数字を消し、実数を書き直した。
「嘘のままだと、必要な食料が届かない。今から一緒に正しい数字を作りましょう」
村長は空袋を一枚持ち上げた。
「明日、村の皆にも俺が説明する」
村長は以前の数字を消そうとして手を止めた。
「消したら、何を間違えたか分からなくなる」
訂正線を引き、元の数字も読めるように残した。
。
翌朝、北の村々へ使いを出した。
食料だけではない。
井戸の深さ、残る家畜、運べる人数、病人の数。
質問を一枚の紙にまとめた。
夕方、最初の返事が届いた。
セリオ村の北にある岩山の麓だけ、井戸に水が残っているという。
俺は地図に丸を付けた。
村長が身を乗り出す。
「そこから水を運ぶのか」
「それだけじゃ足りません。まず、その水が本当に分けられる量なのか確かめる」
俺は土の小瓶に採取地と日付を書き、藁を敷いた区画と敷かなかった区画の変化を記録するよう使者に頼んだ。
若い農夫は井戸の縁に印を刻み、昨日の水位と比べた。
指一本分だけ低い。
「こんな小さな差で騒ぐのか」
と誰かが言ったが、村長はその印を消さなかった。
翌日も同じ時刻に測るためだ。
俺は頷いた。
その日の夕方、隣村から水を求める使いが来た。
「こちらの井戸を使わせてほしい。代わりに麦の種を渡す」
村長は飛びつきかけたが、農夫が止めた。
「今の水位では、両方の家畜まで飲ませられません」
俺は井戸の使用量を一日ごとに分け、乳児のいる家への飲み水を先に確保した。
使いは不満そうだったが、種麦の取引とは別に、翌朝の水位を見てから分配量を決めることで折り合った。
約束したのは水の量ではなく、測定結果を隠さず知らせることだった。
夕食の席で、俺は今日出会った人の言葉を思い返した。
助かったと言う人も、怒る人も、黙ってうつむく人もいた。
誰もが違う事情を抱えている。
配給の順番を変えるなら、後回しになる人へ理由を伝える必要があった。
翌朝の聞き取りにはミラも同行し、帳面の数字と暮らしの様子を照らし合わせた。
若い配達人が
「失敗したらどうするんですか」
と尋ねた。
俺は答えた。
「失敗を隠さない。誰が困ったかを確かめて、直せるところから直す」
勇者のような立派な答えではなかった。
それでも、その言葉を聞いた配達人は、自分の帳簿をもう一度開いた。
夜明け前、荷車の車輪を点検する音がした。
御者たちは雨の日も雪の日も、決められた時間に食料を届けようとしている。
俺は食料を受け取った家と、まだ訪ねていない家を分けて書いた。
誰か一人の奇跡ではなく、数えきれない人の仕事がつながって、初めて食卓に湯気が立つのだ。
乾いた土を見せた子供は
「これ、畑に戻していい?」
と聞いた。
俺は頷き、井戸の水位を測る印を子供と一緒に付けた。
雨が降るまで待つだけではない。
変化があれば、村の誰もが気づけるようにする。
井戸から上がった桶には、底が見えるほどしか水がなかった。
村長は隣村への分配を取り消そうとした。
「うちの畑さえ守れないのに、よそへ渡せるか」
若い農夫が言い返した。
「向こうには乳飲み子がいる。畑と同じに数えるな」
俺は二人を止め、水を飲用と家畜用、畑用に分けて必要量を書き出した。
畑への散水を止めれば、乳児のいる家へ回す分は残る。
「俺の苗はどうなる」
農夫の声が震えた。
ハンナは枯れかけた苗の根元にしゃがみ込んだ。
「日陰を作ってみる。助かる保証はない。でも全部抜くのはまだ早い」
そのとき、村長が倉庫から空の種袋を運んできた。
「みんなに話すことがある」
彼は扉に『種の残量はゼロ』と書いた札を掛けた。
「春に蒔くはずの麦を、飢えた子供に食べさせた。帳面には残っていると嘘を書いた」
人々がざわめき、一人の母親が叫んだ。
「うちの子が食べた粥も、その種だったの?」
「そうだ。決めたのは私だ。責任は私が負う」
村長は古い帳簿を差し出した。
破ることも、数字を塗り潰すこともしなかった。
俺は隣村に融通を頼める種の種類と輸送日数を説明した。
「今すぐ種が手に入るとは言えません。ですが、足りないと分かった今なら、探せます」
母親はしばらく村長を見つめ、それから子供の手を握った。
「私は、あの粥を食べさせてもらってよかった。でも来年の畑も諦めたくない」
若い農夫が測り縄を持ち上げた。
「明日の井戸は俺が測る。数字は全員に見せる」
その夜、子供たちは粥を食べた。
俺は乾いた土の入った箱を閉じた。
父親が使者に名乗り出ると、息子は畑の土を小さな布に包んで渡した。
「帰ってきたら、ここに種をまこう」
父親は返事をせず、その布を胸元にしまった。
雨はまだ降らない。
それでも、誰か一人が嘘を抱えて耐える村ではなくなった。
翌朝、村の入口に二枚の札が並んだ。
片方には井戸の水位、もう片方には種麦の残量が書かれている。
どちらも都合の悪い数字だった。
村長は札を外そうとする若者を止めた。
「これを隠したまま隣村に種を頼めば、また同じ嘘をつくことになる」
俺たちは隣村へ送る依頼書に、必要な種の量だけでなく、返せる見込みのない年もあると記した。
使者に名乗り出たのは、種麦を食べた子の父親だった。
「責められても、俺が説明する。食べたのは俺の子だ」
夕刻、隣村から返事が届いた。
すぐに渡せる種は少ない。
それでも、雨が戻ったときに畑を共同で耕す約束ならできるという。
父親は返書を読み終えると、乾いた土の上に膝をついた。
雨は降らなかった。
父親は息子から預かった乾いた土を握り、井戸の水位を示す札の前で足を止めた。
「ゼロならゼロと書こう。明日、何を残せるかはそこから決める」
村長は札を外さず、父親に測り縄を渡した。
来春を守る最初の仕事は、希望の数字を作ることではなかった。




