第四十六話 食糧便の営業停止命令
監査官が現れたのは、船着き場の修理が始まった翌朝だった。
灰色の外套を着た男は、俺たちの帳簿を一冊ずつ積み上げた。
「民間輸送組織『谷の食糧便』許可なく広域で食料を流通させた疑いがある」
「許可が必要な区域では申請しています」
エナが答えた。
「それ以外も、運送の記録と受領証は残しています」
監査官は薄く笑った。
「記録があれば違反でないとでも?」
俺は言い返そうとして止まった。
感情的になれば相手の思うつぼだ。
「具体的に、どの規則に違反したのか教えてください」
監査官は紙を広げた。
王都の新しい通達。
広域食料輸送には統制局の特別許可が必要だとある。
「申請してから認可まで、通常三十日」
「病院の食料は三日分もありません」
「だから何だ。規則は例外を認めない」
サラが拳を握った。
「患者を見てから言ってください」
監査官が去ったあと、エナは帳簿の綴じ目を確認した。
赤い札を貼られた荷車の番号と、役人が記録した番号が一つ違っている。
「間違いを放置すれば、別の車まで押収される」
彼女は訂正を求めたが、役人は面倒そうに手を振った。
「些細なことだ」
エナは引かなかった。
「私たちには一台の荷車が、何十人分もの食事です」
ようやく役人は番号を書き直した。
農家の代表が集まったとき、全員が協力的だったわけではない。
ある農夫は、以前の救援で無償の食料を受け取ったことを持ち出されるのが嫌だと言った。
「恩返しを強制されるなら、あのとき受け取らなければよかった」
俺は慌てて首を振った。
「借りを返してほしいわけじゃありません。売ってくれるなら、正当な代金を払います」
農夫はしばらく俺を見て、ようやく席についた。
善意を理由に人を働かせてはいけない。
ハンスは新しい配送計画を作りながら、俺に小言を言った。
「お前はすぐ自分が運べばいいと思う」
俺は否定できなかった。
保存倉庫を使えば、少量なら簡単に届けられる。
しかし、俺が一人で運べる場所には限りがある。
「一人がいなくても動く便を作る」
ハンスはその言葉を何度も帳面に書かせた。
俺の能力を中心に置かないことが、結果としてもっと多くの人を救うのだ。
夕方、村の広場で荷車の出発を見送った。
御者は地元の青年で、行き先の施設を初めて訪れるという。
俺は道順を説明したあと、彼に尋ねた。
「帰りに何を運ぶ予定ですか」
青年は首をかしげた。
「空で帰る」
俺は市場の注文票を渡した。
帰路に塩と布を運べば、運賃を分け合える。
救援だけで終わらない仕事になれば、次の便も出しやすくなる。
青年は笑って手綱を握った。
監査官は目をそらした。
その日の午後、食糧便の荷車には赤い札が付けられた。
営業停止。
ハンスは怒りで顔を赤くした。
「三十日待てと言うのか。そんなことをしたら村が飢える!」
「俺たちの輸送だけ止めても、食料そのものを配ることまで禁じてはいない」
エナが言った。
「地元の農家が地元の施設に直接納めるなら、広域輸送には当たらない」
俺は地図を開いた。
直接納品の計画を作ると、思いがけない問題が見つかった。
農家によって袋の大きさが違い、同じ一袋でも重さが大きく異なるのだ。
俺は共通の秤を使うよう提案したが、古い慣習を変えることに反発する人もいた。
「うちの袋は祖父の代からこれだ」
エナは笑って答えた。
「袋を変える必要はありません。重さだけ一緒に量りましょう」
その一言で話が進んだ。
運賃をどう払うかでも議論になった。
距離だけで決めれば、山道を走る御者が損をする。
荷の重さだけなら、帰りが空の車は赤字になる。
ハンスは道の状態、待機時間、帰り荷の有無を表にした。
俺は聞き返しかけて、言葉を飲み込んだ。
「こんなに細かく決めるのか」
「続けるためには必要だ。善意の赤字を当たり前にするな」
俺はその言葉を胸に刻んだ。
翌朝、村の広場には小さな黒板が立った。
そこには今日の納品量と、次の便の予定が書かれている。
誰もが見られる場所に数字を置くことで、噂より確かな情報が広がった。
俺はこの板を、別の村にも置こうと考えた。
村の集会では、輸送停止を恐れて契約を断る農夫もいた。
俺は説得しなかった。
「危険だと思うなら断ってください」
すると別の農夫が立ち上がった。
「俺はやる。前にうちの娘が病気になったとき、食糧便が来てくれた」
俺は礼を言いながら、彼にも無理をしないよう伝えた。
感謝は強い力になるが、人を追い詰める力にもなり得る。
初めての直接納品が終わった夜、エナは売上と費用を照合した。
利益はわずかだった。
それでも赤字ではない。
次の便を出すための金が残っている。
俺たちは小さな数字を見て、ようやく少し笑った。
大きな奇跡より、続けられる一回の配達が欲しかった。
救援所の周辺には小さな畑がある。
収穫はまだ先だが、近隣の村には豆と乾燥野菜が残っている。
「買い取り契約を結んで、各村から直接納品してもらう」
「それでは谷の食糧便の仕事がなくなるぞ」
とハンス。
「今は名前を守るより、人を食べさせるほうが大事だ」
俺たちは農家の代表を集めた。
最初に立ち上がったのは、以前に救援を受けたベルクの農夫だった。
監査官の前で名乗り出た運送人は、家に病気の母親を残していた。
営業停止に従えば罰は避けられるが、薬と食事を買う金もなくなる。
俺は危険を隠さず伝えた。
「名前を書けば、あなたまで調べられる」
彼は少し黙り、それでも帽子をかぶり直した。
「俺の荷車は俺が動かす。あんたの罪にしないでくれ」
エナは証言を別紙に記録し、本人が読んでから署名できるようにした。
勇気を利用するのではなく、勇気を守る手順が必要だった。
「俺たちの麦を買ってくれるなら、運ぶのは俺たちの責任だ」
「でも道が封鎖されている」
と別の農夫。
「地元の市場で引き渡す。そこから施設へは自治体の車を使う」
エナは法令を確かめながら、取引の流れを紙に描いた。
誰が売り、誰が運び、誰が受け取るか。
全員の責任を明確にする。
運送人の男は処罰の可能性を聞いても署名した。
ただし最後に一行を付け加えた。
「家族には、俺が自分で選んだと伝えてくれ」
俺はその言葉を美談として記録せず、彼が明日も仕事を続けられるよう弁護人への連絡先を控えた。
翌日、監査官が再び現れた。
「なぜ荷車が動いている!」
「谷の食糧便の荷車は動いていません」
エナが帳簿を見せた。
「農家の直接納品です。禁止されている行為があれば条文を示してください」
監査官は紙を奪うように読んだ。
「抜け道を使ったな」
「食料を届ける道を、法律の範囲で探しただけです」
俺は静かに答えた。
監査官は何も言えずに去った。
だが、勝利ではなかった。
小規模な納品は高くつき、運び手も疲れていた。
継続できる仕組みが必要だ。
夕方、リディアが封書を持って訪れた。
「王都で、谷の食糧便を反逆組織として扱う案が出ている」
「反逆?」
「民衆を扇動し、統制局の権限を侵したという理由だ」
運送人が名乗り出ると、荷役の女も帽子を取った。
「荷を積んだのは私たちだ」
営業停止の札の前に人が並び、俺は一人で背負おうとしていた責任の重さを初めて測り直した。
俺は思わず笑いそうになった。
食料を運んだだけで、国の敵になる。
裏切り者という言葉を浴びせられても、俺は運送人たちの顔を見た。
俺の決断で罰せられるのが彼らなら、英雄ぶった返事などできなかった。
だが、笑える状況ではなかった。
運送人は営業停止の札を見つめた。
「今夜の便を止めたら、病院の炊き出しも止まる。でも俺が捕まれば、家の母親はどうなる」
俺は答えを押し付けず、地元の農家が直接納める便と、組合が弁護を引き受ける手順を示した。
男は家へ一度帰り、母親と相談してから戻った。
「明日の便は俺が走る。名前も、責任も隠さない」
俺はその署名の横に、危険手当と帰宅予定時刻を書いた。
翌朝、監査官はその便も止めようとした。
だが荷を出した農家が自分の名前で納入契約を示し、病院の調理長が受領を引き受けた。
「運送組織の営業ではなく、私たちの食事を作るための直接納入です」
監査官は荷を押収する根拠を示せず、上官への照会を命じた。
正式な許可が下りたわけではない。
監査官が引き返すと、調理長は安堵するより先に患者の食数を数えた。
俺たちは照会番号を控え、次の便を止められた場合の炊事計画まで病院に渡した。




