第四十一話 期限を過ぎた救援要請
北方の救援所から届いた手紙は、十二日も役所に留め置かれていた。
『病院と孤児院の食料が、あと五日で尽きる』
手紙を書いた人間が想定した期限は、もう一週間前に過ぎている。
「生きていてくれ」
俺は夜明け前から荷を量った。
保存倉庫の上限は五百キロ。
パンを入れれば豆を減らす必要がある。
乾燥豆と麦、塩、病人向けの柔らかい食事を作るための粉を選び、余った容量には清潔な飲み水を入れた。
「待て、タクト」
ハンスが馬車の轅を握っていた。
「北の橋は増水で危険だ。東の石橋を回る」
「半日遅れる」
「落ちたら一生届かない」
俺は言い返せなかった。
焦りで判断を誤れば、俺だけでなく馬も仲間も失う。
エナは地図に赤い印をつけた。
「途中の農村に使いを出した。救援所の最新情報を集めながら進もう。手紙の古さに、私たちまで縛られないで」
出発して間もなく、道端に食器を積んだ荷車が停まっていた。
女が二人、鍋を抱えて泣いている。
北方救援所で働いていた炊事係だという。
「病院はまだ開いているのか」
「開いています。でも、病人の分を残すため、職員は二日前から食べていません」
「孤児院は?」
女は目を伏せた。
「院長先生が子供たちを近隣の家に預けました。引き取った家にも食べ物はないのに」
俺は保存倉庫から豆を出しかけた。
今ここで分ければ、救援所に届ける量が減る。
「この人たちは南へ向かっている。ヴァルデンの炊き出し所まで同行させよう」
ハンスの提案に従い、食料を少量だけ渡して護送の手配をした。
目の前の人を見捨てず、目的地の食料も守る。
そんな当たり前の判断さえ難しかった。
道中、俺はエナに、救援所の手紙が止まっていた十二日間の経路を聞いた。
封書は北方の駅逓から石橋の役所を通り、ヴァルデンに届けられるはずだった。
ところが役所の受付簿には到着日が記されず、封蝋だけが割られていたという。
単なる紛失なら、封を開く必要はない。
誰かが内容を読んで、止めると決めたのだ。
エナはそのことを声高に責めなかった。
「今は犯人探しをしている時間がない。でも証拠は残しておく」
彼女は手紙の写しと受領日を帳面に貼り付けた。
途中の農家で馬を休ませると、家主の老人が水を出してくれた。
代金を払おうとすると、老人は首を振った。
「息子がヴァルデンの病院で世話になった。あそこへ行くなら、水くらい持っていけ」
彼の家にも余裕はなかった。
台所の棚には豆がひと握りしかない。
俺は無料で食料を置いていくべきか迷った。
老人は俺の目線に気づき、
「それは明日の種だ」
と笑った。
食料の不足は、いつも目に見える飢えだけではない。
来年の畑まで食べてしまえば、もっと大きな危機が来る。
エナは近くの村の備蓄量を尋ね、老人の家の種を勝手に使わずに済むよう、村の共同食堂へ相談の手紙を書いた。
俺は小麦袋をひとつ倉庫から取り出したが、老人に押し付けなかった。
「共同食堂に買い取ってもらう形にできますか」
老人は少し考え、頷いた。
誰かを助けるとき、誇りまで取り上げる必要はない。
小さな取引を終え、俺たちは馬車を進めた。
夕刻、空が曇り始めた。
ハンスは手綱を緩め、馬の呼吸を確かめた。
俺は早く着きたい気持ちを抑えて、後輪の留め金を点検する。
一本の金具が緩んでいた。
もし急いで石橋の坂を下っていたら、荷車が横転していたかもしれない。
ハンスは工具で締め直しながら言った。
「急ぐときほど、止まる理由を見つけろ」
その言葉を俺は帳面の余白に書き込んだ。
石橋の手前で、俺たちは一台の空荷の荷車とすれ違った。
御者は北方から戻ったばかりで、救援所の近くでは通行税が急に上がったと話した。
「払えない車は引き返した。食料を積んだ車もあった」
俺は税額と徴収した役人の服装を尋ね、エナに記録してもらった。
誰が意図的に止めたのか、まだ断定はできない。
それでも、どの場所で道が細くなったかは分かる。
休憩の間、ハンスは馬の脚を洗い、蹄に詰まった小石を取り除いた。
「お前は人の飯ばかり気にして、馬の飯を忘れるなよ」
俺は笑いかけて、真顔に戻った。
俺の倉庫には人間用の食料しか入っていないわけではないが、飼料を積めばその分だけ病院へ届ける食料が減る。
俺たちは途中の厩舎で馬の餌を購入することにした。
荷の重量だけでは配送計画にならない。
走る人と動物が無事に帰るところまでが輸送だ。
日が暮れる前、エナは救援所へ先触れを走らせた。
到着時刻と積荷の種類を知らせ、受け入れの準備を頼むためだ。
俺は一刻も早く門へ駆け込みたかったが、知らせずに大量の食料を持ち込めば、受け渡しで混乱する。
救援所には必要な量を決める人がいる。
その人の仕事を奪わないことも大切だった。
坂道を上ると、村の小さな祠に麦の穂が一本供えられていた。
誰かが祈るために残したのだろう。
俺は立ち止まらなかった。
ただ、あの穂が来年には何百本にも増える世界にしたいと思った。
今はまだ、そのための道を一本ずつ確かめるしかない。
東の石橋に着くと、通行人の列ができていた。
橋番は北方へ向かう荷車を止め、許可証を求めていた。
「救援物資です」
「北方行きの輸送は領主命令で停止した」
差し出された紙には印章があった。
しかし日付は三日前。
救援所の手紙が遅れた理由と、何かがつながった。
「命令書の控えを見せてください」
「通すわけにはいかん」
橋番は目をそらした。
エナが帳面を開く。
「では停止の根拠と、命令を伝えた役人の名前を記録します。後で領主府に照会します」
橋番の顔色が変わった。
「……待て。病院向けの食料だけなら例外がある」
「その例外は誰が決めたんですか」
「俺は知らない。そう言われただけだ」
彼は通行を認めたが、別の荷車は止めたままだった。
俺たちだけ通れればいい話ではない。
「後続の救援便も同じ条件で通せるよう、例外規定を書面にしてください」
橋番は渋々、控えを作った。
夕方、丘の向こうに救援所の煙突が見えた。
煙は細い。
大鍋を焚く薪さえ節約しているのだろう。
門を叩くと、痩せた看護師が現れた。
「食料です。谷の食糧便から来ました」
彼女は一瞬、何を言われたか分からない顔をした。
やがて壁に手をつき、膝を折った。
「……間に合った」
看護師の手は震え、俺が差し出した荷札をなかなか受け取れなかった。
俺はその言葉に安堵しかけた。
しかし、看護師は顔を上げた。
「病院には間に合いました。でも、孤児院の子が二人、今朝から見つからないんです」
食料を運ぶだけでは終わらない。
俺はハンスに荷下ろしを任せ、看護師に二人が最後に見られた場所を尋ねた。
寝台には毛布が残り、窓際には小さな靴が片方だけ置かれていた。
「食べ物を探しに出たのかもしれません」
と看護師が言った。
「なら、二人が戻る場所に食事を残してください。俺たちは足跡を追います」
病院の門に残った小さな靴を、看護師は捨てずに持っていた。
俺は食料の受領を仲間に任せ、子供が最後に歩いた道を一緒にたどった。
捜索に出る者の水筒を満たし、門番に帰還時の連絡を頼んだ。
門番が見張り所へ走ると、看護師は小さな靴を胸に抱いた。
病院の灯りは消さない。
靴の持ち主が戻ったとき、迷わずここへ来られるように。




