第四十話 開いた門と届かなかった手紙
西門が開いた朝、ヴァルデンの人々は歓声を上げなかった。
門の外には、食料を積んだ荷車が並んでいた。
しかし誰も、もう安全だとは信じていなかった。
「本当に通れるのか」
と御者。
「今は通れます。でも道中の安全は別に確認しましょう」
俺は曖昧な安心を売りたくなかった。
ミレイは街道に検問所を設け、通行記録を公開した。
軍は傭兵隊の撤収を確認し、村の代表が荷の受け渡しに立ち会った。
それでも食料不足が終わったわけではない。
三万人が暮らす城塞には、毎日大量の食料が必要だ。
周辺の五村もまだ回復していない。
俺たちは曳き道と西門を併用し、運べる量を増やした。
倉庫の数字は毎日更新され、パン窯の稼働日も公開された。
数日後、北区の少年が俺を呼び止めた。
「お母さん、今日は自分でパンを食べられたよ」
俺は思わず笑った。
「それはよかった」
「それでね、今度は僕が運ぶ仕事をしたいんだ」
「もう少し大きくなってからな。今は学校へ行って、計算を覚えてくれ」
少年は真剣に頷いた。
城塞を離れる準備の間、ミレイは北門商会の審理記録をもう一度確認した。
「誰がどこまで関わっていたか、まだ分からない。急いで断罪すれば、別の不正を見落とす」
商会が嫌いだからといって、証拠を曲げていいわけではない。
「村の人たちには、今分かっていることと、まだ調べていることを分けて伝えてください」
彼女は約束した。
城塞の門が開いても、信頼を取り戻す仕事は続く。
出発する前夜、俺は北区のパン窯を訪ねた。
窯師の老女が焼きたての小さなパンを渡してくれた。
「これは代金を払ってもらうよ」
俺は笑って銅貨を出した。
無料の配給とは違う、普通の売買が戻ってきたのだ。
「店を再開できたんですね」
「まだ週に二日だけさ。でも、客が来てくれる」
老女はパンを紙に包んだ。
「あんたがいなくなっても焼くよ。うちの町のパンだからね」
その言葉が何より嬉しかった。
翌朝、谷の食糧便の仲間が城塞の外に集まった。
エナは新しい帳面を持ち、ハンスは御者たちの安全確認をしている。
俺は北方への地図を開いた。
救援所までの道は長く、途中には橋が二つある。
手紙の日付を思い出すたび、胸が締めつけられた。
「急ぎましょう」
とエナ。
「でも、無理はしない」
とハンス。
俺は二人を見て頷いた。
焦って事故を起こせば、待っている人たちの食事がさらに遠ざかる。
俺たちは荷を量り、出発時刻を書き、最後に互いの顔を確認した。
誰も置いていかないための出発だった。
開いた門から入った最後の荷車を見て、俺は安堵しかけた。
だが手紙を待つ母親が
「北の村にも届きますか」
と尋ねた。
俺は確約せず、使者が戻る時刻を伝えた。
門を開けた勝利の先に、まだ名前の分からない待ち人がいる。
その日の午後、領主府で北門商会の帳簿について審理が開かれた。
石切場で押収された記録と、倉庫の受領票を照合する。
商会の代理人は横流しを否定した。
「私たちは契約に従って運んだだけです」
俺は怒りを抑えた。
「なら、誰の命令で五村の麦を移したのか、契約書を出してください」
代理人は答えなかった。
クラウスが別の帳面を示した。
役人の署名がある。
領主府の内部にも協力者がいたのだ。
出発前、俺はラトナ村へ短い手紙を書いた。
最初にパンを渡した少年は元気だろうか。
ベルクの集落では、次の種まきが始ま
西門が開いても、北区の母親はすぐには列へ戻らなかった。
「また閉まったら、子供にどう説明すればいいの」
俺は門が二度と閉まらないとは言えなかった。
代わりに、曳き道と西門の両方から届く荷の予定を示した。
ミレイは市民と軍の代表に、入庫量と配給量を毎日公開する約束を取り付けた。
「明日は誰が決めるの?」
と母親。
「俺だけじゃありません。ここにいる人たちが決めます」
その日の夕方、北区の少年が自分で歩けるようになった母親を連れてきた。
「今度は僕も運びたい」
「まずは学校だ」
と俺は笑った。
そこへ十二日前の救援要請が届いた。
病院と孤児院の食料は、手紙を書いた時点であと五日分だったという。
俺は西門の成功を祝う言葉を飲み込み、北方へ向かう班の準備を始めた。
っただろうか。
忙しさに追われ、救った人々のその後を聞く余裕を失っていた。
エナが手紙を覗き込む。
「心配なら、連絡係を決めようよ。毎回タクトが全部聞いてたら倒れちゃう」
その通りだった。
谷の食糧便は、俺がいなくても動く組織にならなければならない。
俺たちは各地域に一人ずつ連絡担当を置き、食料の残量だけでなく、病人の増減や畑の様子も報告してもらうことにした。
救援は一度届けて終わりではない。
誰かの明日が続いているかを確かめる仕事なのだ。
審理は継続となり、倉庫の管理権は一時的に公的な監督下へ移された。
すぐに全員が裁かれたわけではない。
それでも、隠された麦を再び勝手に動かすことは難しくなった。
北区の窯師から、明日以降の粉の使用予定が届いた。
橋の修理が終わるまでは一度に運べる量が少ない。
俺たちは必要な粉を三日分ずつ分け、届け先と受領者を帳簿に書いた。
「次の便を出せるのはいつだ?」
とハンスが尋ねる。
「北区の在庫が二日分を切ったら、連絡係が知らせてくれる。俺たちの判断を待つ必要はない」
ミレイは窯師の署名を確認し、城塞の配給係にも同じ帳簿を渡した。
門を開けた喜びが、次の週の食事まで続くようにするためだった。
その日の夕方、俺は空になった荷車の車軸を点検した。
荷を積んだままでは気づかなかった亀裂があった。
ハンスは新しい金具を手配し、翌朝の出発前に直すと決めた。
「急ぐなら、なおさら壊れた車では行けないな」
俺は頷いた。
北区の子供たちに別れを告げるのは、無事に次の便を送り出せると確かめてからだ。
夜、ミレイが城塞の屋上へ俺を呼んだ。
「あなたが来なければ、北区の窯は止まったままだった」
「僕一人じゃ何もできませんでした。石工も船頭も、窯師も、あなたもいたからです」
「そうね」
彼女は遠くの平原を見つめた。
「でも、あなたには次の町へ行ってもらわなければならない」
ミレイが差し出したのは、封蝋の割れた手紙だった。
差出人は北方の救援所。
宛先はヴァルデンの領主府。
北方の救援所へ向かう道を調べると、橋の一つは増水で通れない可能性があった。
俺は地図に迂回路を書き込み、途中の村へ通行状況を尋ねる使者を出した。
手紙が十二日も止められていた以上、情報の遅れは命に関わる。
「急いで出たい」
と俺が言うと、ハンスが首を振った。
「急いで準備しろ。急いで事故を起こすな」
その言葉に、俺は深く息を吐いた。
正しかった。
出発前、ミレイは城塞の配給責任者たちを集め、今後の連絡方法を確認した。
食料の残量、輸送の遅れ、病人の増減。
どれか一つでも異常があれば、谷の食糧便へ知らせる。
俺が戻るまで待たなくていい。
「この町は、あなたがいなくても回るようにする」
とミレイは言った。
俺は頷いた。
それこそ、最初から目指していたことだった。
『穀物の輸送路が途絶えた。
病院と孤児院の食料があと五日で尽きる。
至急、救援を求む』
日付は十二日前だった。
「どうして今まで届かなかったんですか」
「誰かが役所の郵便を止めていた」
門が開いたとき、北区の子供たちはパンを持って荷車を見送っていた。
俺はその姿を思い出し、手紙の日付をもう一度読んだ。
「この十二日間、向こうの人たちは何度も門を見たんでしょうね」
ミレイは答えなかった。
封蝋の割れ目に指を添え、やがて小さく言った。
「私たちが門を開けるのに使った時間が、誰かの最後の五日だったかもしれない」
外では西門の鐘が鳴った。
昨日なら勝利の音に聞こえただろう。
今は、間に合わなかった人の名を知らないまま鳴っているように聞こえた。
開いた門を喜ぶことと、届かなかった手紙を忘れないことは、両立させなければならなかった。
手紙を運んだ少年は
「もっと早く走れば」
と俯いた。
ミレイは少年の前に膝をついた。
「門を閉じたのはあなたじゃない」
少年は泣かなかった。
ただ封筒の折り目を指でなぞり、
「次は返事を持って行きたい」
と言った。
俺たちは届けられなかった家の名を消さず、救援の順番を決める地図に書き加えた。
俺は手紙を握りしめた。
五日どころではない。
もう期限を過ぎている。
「今から行きます」
ミレイが首を振った。
「夜の道は危険よ。明朝、護衛と地図を用意する」
俺は頷き、食糧便の仲間へ使者を走らせた。
窓の外には、開いた西門から最後の荷車が入ってくるのが見えた。
一つの門が開いても、別の場所では誰かがまだ食事を待っている。
俺たちの配達は、終わらない。
翌朝の荷を積む少年は、手紙の宛先を声に出して確かめた。
返事を届けたいという願いを、今度は道の確認と護衛の手配に変えていた。
少年は封筒を胸に入れず、宛先が読めるよう荷札の横へ置いた。
悲しみを抱えたままでも、届ける仕事はできる。




