第三十九話 帰らなかった四艘目
セルムの舟が予定時刻を過ぎても現れなかった。
俺たちは川沿いを探した。
暗くなってから無理に舟を出すのは危険だ。
捜索隊は岸から灯りを掲げ、足場の良い場所を選んで進んだ。
「この曲がり角で綱が切れたのかもしれん」
とハンス。
岸には引きずられた綱の跡があり、途中で途切れていた。
しばらくすると、川下から声がした。
「こっちだ!」
セルムは浅瀬に舟を寄せ、荷を守るために待っていた。
馬が驚いて綱を引きちぎり、舟が流されたのだという。
「無事でよかった」
俺が言うと、老人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「麦を濡らしちまった」
袋の半分は水を吸っていた。
俺は保存倉庫に入れようとしたが、収納しても濡れた状態のまま保存される。
元には戻せない。
「乾かして安全を確認できる分だけ使おう。傷んだものは配らない」
セルムを見つけたあと、俺たちは濡れた麦袋を川岸に並べた。
朝の光の中で見ると、袋の底には泥が付いている。
エナは数量を書き分け、ハンスは乾いた場所へ運んだ。
セルムは手伝おうとしたが、足を痛めていた。
俺は座って休むよう言った。
「船頭が座ってちゃ格好がつかん」
「次の便を出すために休んでください」
老人は不満そうに笑ったが、ようやく腰を下ろした。
損失の計算を始めると、予定の配給量を大きく下回ることが分かった。
俺は息を吐き、目の前の仕事に意識を戻した。
助かった命を喜ぶ気持ちと、食料を失った焦りが胸の中でぶつかった。
翌朝、セルムの舟を曳き戻した。
水を吸った麦は、袋ごとに状態を調べる。
使えると確かめられないものを、飢えた人に配るわけにはいかなかった。
失った分を差し引くと、城塞の配給予定は足りない。
「北区の病人を先にするなら、東区はどうなる」
配給所へ集まった住民が尋ねた。
俺は配給表を広げ、区ごとの残量と、まだ到着していない便を示した。
「北区を優先する理由は病人の数です。ただし東区の分をゼロにはしません。足りない世帯を見落としているかもしれないので、代表を出してください」
東区の女性が腕を組んだ。
「数字を並べられても読めない人はどうするの」
エナが木札を並べ、一袋を何世帯で分けるか絵で示した。
女性は何度も見比べてから、自分の区で寝込んでいる老人の名を挙げた。
「この人は帳面にいない」
ミレイがその場で調査員を向かわせた。
俺たちは受け取り量だけでなく、受け取れなかった人の申告先も掲示した。
反対した住民が敵なのではない。
間違いを見つけてくれる人なのだ。
しかし、会議の間も俺の目は川へ向いていた。
セルムの舟は戻った。
戻っていないのは、別の四艘目だった。
最後に見た船頭は、青い帆が下流の曲がり角へ消えたと言った。
そこから先には、支流と古い運河がある。
「夜の川へ出るな」
俺は焦る御者を止めた。
「待っていたら荷が腐る!」
「人が帰らなければ、次の便も出せない」
言い返す声が震えた。
セルムを見つけた安心が、もう一艘の不安を消してくれるわけではなかった。
岸の見張りを増やし、下流の渡し場へ伝令を出した。
暗闇に舟を出す代わりに、翌朝の捜索範囲を決める。
足を痛めたセルムは詰所で休んでいた。
俺が航路図を持っていくと、彼は支流の一つを指した。
「俺の舟が流された場所とは違う。四艘目が避難するなら、ここの浅瀬だ」
「通れるのか」
「満潮のときだけな。今夜は潮が合わない」
彼の話を聞いた若い船頭が、川面を見つめた。
「明るくなったら、俺が岸から探します。舟は安全を確かめてから出す」
セルムは切れた綱を渡した。
「この傷を見ろ。無理に引いたら同じことになる」
若い船頭は綱を握り、頷いた。
夕方、東区の代表が詰所へ来た。
「うちの区の者で、下流の運河を知っている人がいる。捜索に加えてくれないか」
昨日は配給をめぐって怒鳴っていた人たちだ。
「危険なところへ無理に行かせられません」
「岸の道なら分かる。どこに灯りを置けば舟から見えるかも」
俺は礼を言い、見張りと一緒に行動してもらうことにした。
夜、遠くの川面に小さな明かりが揺れた。
見張りが合図を返す。
だが、相手からの返事はなかった。
「四艘目かもしれない」
ハンスが呟いた。
「まだ決めつけない。朝まで灯りを絶やさないでくれ」
配給所の人々も、交代で薪を運んできた。
待っているのは麦だけではない。
舟に乗った人たちだった。
翌朝の捜索には、川岸を知る人を二組に分けて出すことになった。
見張りは互いの位置を合図板で知らせ、危険な流れには近づかない。
誰かが先走れば、助ける人まで危険にさらす。
俺は四艘目の積み荷の一覧を見直した。
そこには麦だけでなく、船頭が家族へ届けるつもりだった手紙もあるという。
船頭の妻は、配給所で俺を見つけて尋ねた。
「帰ってきますか」
俺は確かな返事を持っていなかった。
「必ず探します。でも、無理な出航で誰かを失うことはしません」
彼女は長く黙り、それから
「灯りだけは消さないで」
と言った。
俺たちは岸に薪を積み、交代の見張りを決めた。
昼には、川下の渡し場から使いが戻った。
青い帆の舟は見なかったが、流木の溜まる場所に新しい綱の切れ端があったという。
セルムはそれを手に取り、指で撚り目を確かめた。
「俺の舟の綱とは違う。だが四艘目のものとも、まだ言い切れない」
俺は綱を布に包み、見つけた場所と時刻を書いて見張りへ渡した。
証拠を見つけたつもりになって、捜索の方向を一つに決めてしまうのが怖かった。
東区の代表は別の岸道を調べる役を引き受け、北区の若者は配給所の手伝いを申し出た。
待つ時間を、ただ不安に耐えるだけの時間にしないためだった。
夕暮れ、船頭の妻が温かい粥を見張りたちへ運んできた。
「食べて。倒れたら、あの人が帰る場所がなくなる」
俺は器を受け取った。
見張りの交代を確かめてから、一口だけ飲んだ。
誰も舟の姿を見ていない。
言葉を返せないまま、川の向こうの暗がりを見つめた。
夜明け前、下流の見張りから三度の合図が届いた。
四艘目の合図と決められた回数だった。
俺は思わず舟を出しかけた船頭を止め、岸の二組に発信場所の確認を頼んだ。
暗い流れへ飛び込めば、助ける側まで帰れなくなる。
セルムは詰所から杖をついて出てきた。
「俺が戻った浅瀬より下だ。潮が引けば岸から行ける」
やがて対岸で、もう一度三つの灯りが揺れた。
誰の灯りかはまだ分からない。
だが、探す場所は初めて一つに絞れた。




