第三十七話 五百キロでは救えない
昼前、北区の配給所で小さな口論が起きた。
「昨日はうちの家族の分が少なかった」
と男が訴えた。
係の女性は帳簿を示した。
「世帯人数は三人と届けられています」
「昨日、避難してきた姉と赤ん坊が増えたんだ」
俺は二人の間に入った。
係が間違えたわけでも、男が嘘をついたわけでもない。
避難民の数が毎日変わるのに、名簿の更新が追いついていなかった。
「今日から追加の申告窓口を作りましょう。確認が終わるまでの緊急分も別に用意する」
「そんな余裕があるのか」
と係が尋ねた。
「余裕はありません。だから、どこに足りないかを正しく知る必要があるんです」
ミレイは子供と病人の優先配給を提案した。
ただし全員の最低量を先に決め、そのうえで必要な補助食を分ける方式にする。
俺は賛成した。
優先という言葉だけが独り歩きすれば、別の家族が見捨てられたと感じる。
その日の集計で、名簿に載っていなかった避難者が四十二人見つかった。
数字を増やすことは、食料不足を悪化させるようにも見える。
けれど、数えなかった人間は存在しないことにされる。
俺はその怖さを、帳簿の一行から思い知らされた。
地下水路の入口には、朝まで石工たちが集まっていた。
「崩れたのは古い支柱のところだ」
とオド。
「誰かが壊した可能性は?」
「分からん。調べる前に決めつけるな」
敵がいるからといって、すべての事故を陰謀にしてはいけない。
水路は当面使えない。
保存倉庫の五百キロは、目の前にある食料を運べても、城塞全体の不足を埋める量ではなかった。
俺は初めて、自分の能力の限界を数字で突きつけられた。
三万人が一日あたり穀物を三百グラムずつ食べるだけでも、九トン必要になる。
野菜も水も燃料も別だ。
「十八往復して、やっと一日分か」
とハンス。
「それも穀物だけの話だ」
俺たちは軍と市民の配給記録を照合した。
軍の備蓄には、まだ一定量の豆が残っている。
しかし北区の配給所には届いていない。
「兵士の食事を減らすわけにはいかない」
と軍の補給長。
配給の再計算では、軍の兵士たちにも事情を聞いた。
若い兵士は言った。
「俺たちだって満腹じゃない。夜番のあとに薄い粥だけの日もある」
市民が軍を憎み、軍が市民を疑う間に、両方が飢えていた。
俺は一人分の必要量を決めつけず、医師と炊事係の意見を聞いた。
重労働をする兵士、病人、子供、妊婦。
必要な食事は同じではない。
公平とは全員に同じ量を渡すことではないと、ようやく分かり始めた。
軍の倉庫で見つかった粉の袋には、湿気を吸ったものが混じっていた。
補給長は
「見た目は大丈夫だ」
と言ったが、窯師が首を振った。
「臭いが違う。混ぜたら全部だめになる」
俺たちは問題の袋を分け、衛生に詳しい担当者の判断を待った。
すぐに使えない食料が増えると、帳面の残量はさらに減った。
数字が減るのは怖い。
それでも、本当に食べられる量を知らなければ、正しい計画は立てられない。
夕方、ミレイは軍と市民の代表を集めた。
「明日から在庫を毎日公開します。ただし、配給の方法は皆で見直してほしい」
最初に手を上げたのは、北区のパン窯師だった。
「うちの窯は夜も動かせる。ただ、焼き手の交代が必要だ」
続いて兵士が言った。
「夜番明けなら、薪を運ぶ手伝いができる」
互いを敵だと思っていた人々が、同じ机で仕事を分け始めた。
俺はその様子を見て、初めて五百キロ以上の食料を運べる気がした。
運ぶのは俺一人ではない。
「守る人が倒れたら、町が終わる」
俺は否定しなかった。
「そのためにも、必要量を一緒に計算しましょう。市民の食事を全部軍に回しても、町は守れません」
補給長は不機嫌そうだったが、ミレイが席を外さずにいると、渋々帳面を出した。
そこで分かったのは、軍の倉庫に食料が眠っているだけではないことだった。
軍の補給長は監査の途中、机に拳を置いた。
「私が配給を止めたせいで、子供が飢えたんだな」
誰もすぐには答えなかった。
責任は消えない。
だが今ここで彼を罵倒しても、パンは増えない。
「まず残っている在庫を全部確認しましょう」
と俺は言った。
「それが終わったら、なぜ報告できなかったのか、制度を変えましょう」
補給長は目を伏せ、頷いた。
翌日から軍の倉庫には、市民代表が立ち会う時間が設けられた。
機密の武器庫まで公開するわけではない。
食料の数量と出入りだけを、双方が照合する。
最初は互いに睨み合っていた担当者たちも、三日目には同じ帳面へ数字を書き込むようになった。
信頼は演説では戻らない。
毎日、同じ数字を確かめることで少しずつ戻る。
補給長は、市民への配給を止めた理由を隠していた。
補給長との会議が終わったあと、若い兵士が俺に尋ねた。
「市民のために食料を出して、俺たちが戦えなくなったらどうするんですか」
俺は返事を探したが、すぐには言葉にならなかった。
「だから必要な分は残す。数字を一緒に確かめたい」
兵士は不安そうな顔をしたが、やがて頷いた。
彼の不安は身勝手ではない。
守るべき仲間がいるのだ。
配給所では、病人の家に食事を届ける班が新しく作られた。
最初の訪問先は、足の悪い老人の家だった。
老人は器を受け取ると、何度も礼を言った。
「列に並べないから、もう諦めていた」
エナは彼の家を地図に記し、翌日の担当者へ伝えた。
配給所へ来られない人を、存在しないことにしてはいけない。
「先週、配給所から粉が消えた。軍の責任にされたくなかった」
「盗難届は?」
「出していない」
俺は額を押さえた。
責任を恐れた沈黙が、別の場所で人を飢えさせている。
ミレイは補給長に言った。
「今から記録を出して。処分は後で決める。先に食事を届ける」
補給長が出した帳面には、兵士たちの食事を減らした記録もあった。
俺は初めて、軍が抱える不安の大きさを知った。
城壁を守る兵士が倒れれば、外からの襲撃に対応できない。
だが市民が飢えれば、守るべき町そのものが崩れる。
「どちらを優先するかじゃない」
とミレイは言った。
「両方を維持する方法を考えるの」
俺たちは食料の種類を見直し、重労働をする人には必要な量を確保しつつ、共同炊事で無駄を減らすことにした。
避難者の名簿から漏れた四十二人を前に、配給係が帳面を閉じかけた。
「記録にない人へ配れば、明日の分がなくなります」
「その通りです。だから今日の最低量と、追加で必要な量を分けて書きましょう」
俺は保存倉庫の五百キロをすべて出す案を取り消した。
明日の病人の食事まで空にすれば、危機を一日先送りするだけだ。
ミレイが窯師たちと共同炊事を整え、エナは歩けない人の家を訪ねた。
夕方、昨日は列に入れなかった母親が、赤ん坊を抱いて粥を受け取った。
「名前が載ったんですね」
母親は首を振った。
「名前だけじゃない。明日も来ていいと言ってもらえた」
それでも三万人の町を、俺の五百キロだけで養うことはできない。
岸辺で船頭の老人が、水の減った川を見つめていた。
「舟は積めても半分だ。だが、昔は水が少ないときも荷を運んだ」
老人は川沿いに残る古い杭を指した。
「馬で綱を引いたんだ。曳き道が生きていれば、舟を上らせられる」
俺は杭の先を追った。
崩れた土手の向こうに、細い道が続いている。
「通れるか確かめたい。荷を積まない舟で試せますか」
「俺が乗る」
と老人は言った。
「ただし馬も人も交代だ。無理をさせれば道は続かない」
配給係は避難者の名簿を持って川辺まで来た。
老人と御者たちは、次の便で最初に届ける病人の家を確かめた。
荷を運ぶ人数だけでなく、待つ人の住所も分からなければ、舟を動かしても食事は届かない。
曳き道を調べた御者が戻り、泥で汚れた靴を脱いだ。
「荷車は通れない。でも空舟なら人が引ける。浅瀬の向こうで袋を積み直せる」
船頭の老人はすぐに首を振った。
「まず足場を確かめろ。綱を引く者は交代だ」
御者たちは交代順を決め、エナは病人の家を先に記した配達札を作った。
赤ん坊を抱いた姉が札を見て言った。
「うちの分は、熱のある子のあとでいい」
俺は五百キロのうち今夜の病人用を残し、試験便に積む量だけを量った。
川を越える方法は見えた。
成功したと言えるのは、舟が向こう岸から戻ってきてからだ。




