第三十四話 三万人の城塞都市
ヴァルデンの城壁は、平原から見ると灰色の山のようだった。
門前には荷車が長い列を作り、城壁の上では兵士が弓を構えている。
「検査のため入城は一日二十台まで」
列の最後尾には、昨日も門を通れなかった荷車がいた。
荷台の野菜は傷み始め、御者はその匂いを隠そうと布を掛けていた。
門番はそう告げた。
「中で食料が不足していると聞きました」
「だから検査を厳しくしている」
俺は列の後ろで待つ人々を見た。
野菜を積んだ荷車の荷台には日差しが当たり、葉が萎れている。
腐らせずに運ぶ能力があっても、町の門が開かなければ何もできない。
ヴァルデンには三万人が暮らしている。
備蓄は十日分と発表されていたが、実際の配給量は半分に減っているという。
町の外で待つ御者に聞くと、二日前から食料だけ検査が長引いているらしい。
「武器の荷は先に通してるのにな」
ハンスが顔をしかめた。
門の前で待つ荷車のうち、三台は牛乳を運んでいた。
朝のうちに届けなければ傷む。
御者は焦っていたが、門番は順番を変えようとしなかった。
俺は御者に事情を聞き、預かれる量を計算した。
保存倉庫にはまだ空きがある。
ただし食料以外は収納できないし、俺が町に入れなければ返却もできない。
「いったん預かります。町に入れる保証はありません」
と説明すると、御者は悩んだ末に一部を託した。
受領票には、保存前の状態と量、返却条件を書いた。
無償で便利な能力を使うほど、責任の所在を明確にしなければならない。
城塞の外で夜を明かす避難民には、毛布も十分になかった。
俺の能力で毛布を運ぶことはできない。
そこで荷車の御者たちに相談し、空の幌を風除けとして使わせてもらった。
代わりに、避難民の中で動ける人が荷車の見張りを担当する。
誰もが助けられるだけの存在ではない。
役割ができると、さっきまで俯いていた老人が背筋を伸ばした。
「昔は門番をしていた。夜の見張りなら任せろ」
俺は彼に灯りを渡し、交代時間を決めた。
深夜、城壁の向こうから歌が聞こえた。
北区の子供たちが、空腹を紛らわせるために歌っているらしい。
門の外にいた少女が、その歌に合わせて小さく口を動かした。
「お父さんが教えてくれた歌なの」
俺はその子に、明日もここで待つのかと尋ねた。
「ううん。お母さんと一緒に、できることを探す」
彼女は炊事場の水運びを手伝い始めた。
大きな城壁の前で、俺たちができることは小さかった。
それでも、その小さなことを数えずにはいられなかった。
俺たちは門の役人へ正式な申請書を出した。
谷の食糧便の記録と、南の五村の救援実績も添える。
「民間の配達人に何ができる」
門の責任者は鼻で笑った。
「三万人を食わせるなら、毎日何十台も必要だぞ」
「分かっています。だから現状の数字を教えてください」
門前の行列には、町へ野菜を届ける農家の夫婦がいた。
二人は昨日から荷車の上で寝ているという。
「中の娘に会いに来たんです」
と妻。
「北区の窯で働いているんですが、手紙が来なくなって」
俺は配達記録の余白に娘の名前を書いた。
だが城塞の中へ勝手に伝言を届けることはできない。
ミレイに会う機会があれば、消息確認を頼もうと決めた。
夫は荷台の萎れた葉を見て言った。
「こんなことなら畑に置いてくればよかった」
俺は保存倉庫の説明をし、腐りやすい野菜の一部だけを預かった。
受け取り票には重量と返却先、預かり期間を書いた。
能力が便利だからといって、他人の荷を自分のものにしてはいけない。
翌朝、夫婦は帳面を何度も読み返し、
「これなら娘に説明できる」
と言った。
返答はなかった。
夜の炊事場では、避難民の間で配給の順番をめぐる言い争いが起きた。
「先に並んでいたのは俺だ」
「子供が熱を出しているの」
俺は列を止め、代表者と相談した。
全員が同じ状況ではない。
体調の悪い人には先に食事を届け、動ける人には番号札を配る。
納得できない人もいたが、理由を説明すると少しずつ列が落ち着いた。
エナは札を渡すたび、受け取る人の目を見た。
「次の食事も、ここで配ります。ただし量はまだ決まっていません」
正直に伝えるのは勇気が要る。
それでも、明日の約束を軽く口にするよりよかった。
夜明け前、俺は城壁を見上げた。
石の向こうで三万人が眠り、あるいは空腹で眠れずにいる。
五百キロの倉庫が、初めてひどく小さく感じられた。
だが俺は、その小ささを理由に帰るつもりはなかった。
門前で牛乳を運ぶ御者が荷台の布をめくり、傷み始めた瓶を見せた。
俺の保存倉庫なら腐敗を止められる。
だが上限は五百キロで、荷車三台分すべては入らない。
「子供用の分から預かります。残りは門の外で日陰を作り、入城の順番を交渉しましょう」
俺は御者の了承を得て数量を記録し、門番には病院向けの荷だけ先に検査するよう頼んだ。
門番は断ったが、列の後ろにいた市民代表が声を上げた。
「軍の荷は通して、病人の食べ物は止めるのか」
俺はその言葉を利用して門を破ろうとはしなかった。
軍と市民の立会人を一人ずつ付け、検査を公開する案を出した。
最初の瓶が城内へ運ばれたとき、御者は深く頭を下げた。
俺は喜ぶより先に、井戸が濁ったという報告を聞いた。
食べ物を運んでも、水がなければパンは焼けない。
その夜、城壁の外に避難民が集まった。
町の中に家族がいる者もいる。
門が閉じていて戻れないのだ。
小さな女の子が母親の手を握り、門の隙間を見つめていた。
「お父さん、あっちにいるの」
俺は持ってきた食料を外の避難民に分ける許可を取り、炊事場を設けた。
倉庫の容量には限りがある。
まずは調理できる水と燃料を確認した。
夜更け、城壁の上から布切れが落ちてきた。
そこには短い文字が書かれていた。
城塞の周囲を調べると、南門の外に使われていない荷揚げ場があった。
石段は壊れ、舟を繋ぐ杭も抜けている。
「直せば川から運べるかもしれない」
とハンスは言った。
俺は地図に印をつけたが、すぐに工事を始めなかった。
水位、流れ、所有者、作業員の安全を確かめなければならない。
船頭に話を聞くと、春は流れが速く、今は浅すぎるという。
「どちらも厄介しかし、使えないわけじゃない」
その言葉を帳面に残した。
門前の避難民に食事を配るとき、俺は最初のラトナ村を思い出した。
あのときは食料があれば助けられると思っていた。
今は、食料を届けるために許可が要り、道が要り、炊事場が要る。
人が多くなれば、配る順番も争いになる。
エナが配給札を渡しながら言った。
「最初の村より、ずっと難しいね」
「でも、最初の村で覚えたことが役に立ってる」
嘘の約束をしないこと。
数を確かめること。
困っている人の声を聞くこと。
大きな城塞でも、始まりは同じだった。
『北区のパン窯が止まった。
粉はある。
水がない』
「水?」
俺は地図を見た。
町には三本の井戸があるはずだ。
城門の前で子供の手を握る女性は、配給列から外れようとした。
「押し合いになったら、この子が潰される」
俺は先頭の兵士に、子連れの待機場所を確保するよう頼んだ。
三万人に何袋必要か計算する前に、列に並べない人を数えなければならなかった。
翌朝、門番の一人が小声で教えてくれた。
「井戸の一つが濁った。もう一つは軍が押さえた。残りは南区だけだ」
三万人の危機は、麦だけの問題ではなかった。
「食料を運ぶ前に、町の中で食べられる状態を作らないと」
俺はエナに言った。
彼女は門の向こうを見つめて頷いた。
「でも、どうやって入るの?」
そのとき、城壁の鐘が三度鳴った。
城門の外には、配給を待つ人の列より長い、空の鍋の列があった。
三万人という数字は遠い。
だが目の前の鍋一つを満たせない現実は、逃げ場がなかった。
北区で配給を求める群衆が門を叩き始めたのだ。
門を叩く音が三度目の鐘をかき消した。
俺は群衆の先頭にいる女性が、子供の手を握っているのを見た。
三万人という数字より、その手を離させないことを優先しようと決めた。




