第三十三話 石切場の地下に眠る麦
前日に送った立会い通知への返事は、夜明けまで届かなかった。
石切場の鉄柵の前で、クラウスは領主の地籍図と北門商会の賃借契約を並べた。
「所有者は領主、使用者は商会。勝手に扉を開ければ、見つけた麦を取り戻す手続まで争われる」
柵の向こうから袋を引きずる音がした。
ハンスが前へ出かける。
俺はその袖を掴んだ。
「中の人が逃げる前に」
とハンス。
「誰が働かされているかも分からない。まず検査官を待とう」
門番の少年がこちらを見ていた。
唇は乾き、朝食を取った様子もない。
俺は麦を運んだ者を全員敵だと思いかけていた。
エナが地図を指した。
「昔の排水路は村の共有地です。ここから中の様子を確認できるかもしれません」
俺たちは共有地側の入口を調べた。
人が通れるほど広くはないが、奥の明かりが見える。
床に袋が積まれているのは分かった。
しかし印も数も読めない。
「見えたものだけ記録しよう」
とエナ。
俺は見つけた袋を、まだ五村から消えた麦だとは呼ばなかった。
昼前、検査官が到着した。
立会い通知の受領記録はあるのに、商会の管理者から返事がないという。
「通知を無視しているなら、領主府へ緊急の保全許可を求めます。だが今は柵を越えないでください」
検査官は公証人に時刻を記してもらい、急使を領主府へ走らせた。
その間にも柵の向こうで荷車が軋んだ。
「待っているうちに全部運ばれるぞ」
ハンスの声が荒くなる。
俺も同じ不安を抱えていたが、柵を壊せば商会に証拠を否定する口実を与える。
「出口を見張ろう。袋を運び出すなら、誰が何時に出たかだけでも残せる」
門の外には村の代表と二人の立会人を置いた。
門番の少年には水と豆粥を渡した。
話を聞くための報酬ではない。
少年は椀を受け取ると、こちらを見ずに呟いた。
「朝から働いてる人が、まだ中にいます」
その言葉を検査官へ伝えた。
荷の保全だけでなく、働く人の安全も許可申請に書き加えてもらった。
夕刻、領主府の許可を持った兵士が到着した。
検査官と公証人、村の代表が揃ったところで、ようやく鉄柵が開かれた。
中から出てきたのは武装した用心棒ではなく、痩せた荷運びの若者たちだった。
「俺たちは雇われただけです」
と一人が震える。
「食事は必要な人に出す。証言の見返りにはしない」
俺が言うと、若者は温かな豆粥を受け取り、二口目を食べるまで何度も息を整えた。
検査官は彼らの名前と未払いの賃金を記録した。
「三日働いて、まだ一銅貨ももらってない」
若者の手には綱で擦れた傷があった。
ハンスは最初、彼らを疑った。
「倉庫の場所を知っている。情報を流すかもしれん」
「証拠の管理は検査官が行う。若者には立会人の前で、必要な仕事だけ頼もう」
疑わないことと、確認を怠ることは違う。
検査官は入口から奥までの袋を仮に数え、二百九十袋と記録した。
五村の倉庫から不足した麦は二百八十六袋。
四袋多いからといって、余りをそのまま五村の麦とは扱えない。
しかも袋には同じ印があっても、中身の品質が違った。
湿気を吸った麦、虫の混じった麦、乾燥したままの麦。
俺は無作為に選んだ袋の見本を取り、封をして記録を残すよう提案した。
「全部を今夜調べるのは無理だ」
と検査官。
エナが危険度に応じた表を作った。
「配れると確認できたものだけ、先に分けましょう」
急いで全部を配りたい村長が声を上げた。
「目の前に麦があるのに、なぜ待たせる」
「傷んだ袋を混ぜたら、食べた人が病気になります。それに、この麦が全部村のものだとまだ証明できていません」
村長は唇を噛んだが、検査官と村の女性たちによる確認に立ち会った。
若者の一人が目盛りを読み上げる役を引き受けた。
「この袋、印が違います」
彼が指した袋は別の領地の印だった。
検査官はその場で別の列に移し、持ち主が分かるまで出荷を止めた。
エナはその数字を消さず、
「出所未確認」
と記した。
作業を終える前に、奥の区画から封印された帳簿箱が見つかった。
検査官が封を記録して開けると、取引先の略号、書き換えられた日付、同じ袋を別名で数えた記録が出てきた。
「入ってきた量、出ていった量、代金の流れを別々に見よう」
エナは紙を三枚に分けた。
製粉所の搬入日、渡し守の木札、石切場の袋の印を照らし合わせる。
赤い鳥の印を持つ者が関わったことは見えてきたが、誰が命じたのかは別の証拠が必要だった。
帳簿には、五村の麦を別の名目で高値で売り直した疑いも残っている。
クラウスは役人の署名を見つめて黙った。
「この人には、以前助けてもらったことがある」
「だからこそ、本人に説明の機会を与えましょう」
と俺は答えた。
検査官は原本を封じ、村の代表と領主府に受領記録付きの写しを渡した。
クラウスは署名の癖を説明したが、筆跡の照合は別の担当者へ任せた。
夜、荷運びの若者レントが出口で足を止めた。
「証言したら、明日から働けない」
クラウスは安全な寝場所と別の仕事を探すと約束したが、すぐには用意できなかった。
「今日、話すと決めなくていい。確認できたことだけ記録に残そう」
俺が言うと、レントは首を縦に振った。
彼は傷んだ袋を一つ脇へ寄せた。
「これは配れない。私が見た」
その判断なら、今夜から役に立つ。
用心棒の隊長が低い声で告げた。
「お前らが相手にしているのは商会だけじゃない。城塞都市の食料を握る連中だ」
三万人が暮らす城塞都市ヴァルデン。
俺は帳簿の写しにその名を記した。
翌朝、検査官と村の代表が出所と品質を確認し、引き渡しを認めた袋だけを救援便へ積み込んだ。
傷んだ麦は分けて保管し、所有権が確認できない袋は検査官の管理下に置いた。
村の代表には配達予定時刻を示し、遠い村の分も次便で運ぶと約束した。
レントは自分から検量の手伝いを申し出た。
「母ちゃんに、ちゃんと働いてるって書きたい」
ハンスはレントに綱の結び方を教え、賃金と休みを雇用帳に書いた。
「今度は誰かから奪う荷じゃないんだな」
「ああ。届け先の名前も残す」
俺は答えた。
すべての麦が戻ったわけではない。
命令した者も分からない。
だが救援の荷車は、検査官の記録と村人の受領票を携えて出発した。
レントは見送る途中で、初めて顔を上げた。
遠くの村へ届くまで、俺たちの仕事も終わらない。




