第三十二話 閉じた製粉所に灯る火
閉鎖された製粉所へ向かう道には、車輪の新しい跡が残っていた。
「廃業した建物にしては、よく使われているな」
とハンス。
俺たちは門を破らず、近くの農家に話を聞いた。
夜になると明かりがつき、荷車が川沿いから入るという。
「誰も近寄らないよ。商会の用心棒がいる」
ここで踏み込めば、俺たちのほうが盗人扱いされる。
クラウスに知らせ、領主の検査官と一緒に確認することにした。
だが、検査官が到着したときには建物は空だった。
「ほら、何もないじゃないか」
と商会の代理人。
床には小麦粉の白い筋があり、炉にはまだ温もりが残っている。
エナは窓枠に引っかかった麻糸を見つけた。
「ここで袋を詰め替えたんだと思う」
三番村の炊事場で、俺は配給された豆が硬いまま残っているのを見つけた。
薪が不足し、煮る時間を短くしたのだという。
村の老人は
「昔は干した豆を一晩水につけた」
と教えてくれた。
だが今は水を運ぶのも大仕事だ。
俺は井戸の位置と一日の汲み上げ量を確認した。
飲み水を減らしてまで豆を戻すわけにはいかない。
村の女性たちは相談し、夕方の洗い物に使う予定だった清潔な水を別に確保して、翌朝の調理を試すことにした。
結果、薪の使用量が少し減った。
食料を届けるだけでなく、調理の知恵を共有することにも意味がある。
俺はその方法を別の村へ伝えるよう頼んだ。
古い製粉所の所有者を探すと、町の役所に意外な記録があった。
建物は北門商会が借りているが、土地は川沿いの共同組合のものだった。
組合の代表は、賃料が半年払われていないと訴えた。
「契約を解除できないんですか」
「相手が大きな商会だから、役所が動かん」
俺はその話をクラウスに伝えた。
検査官は契約の写しを確認し、組合が正式な申し立てをできるよう手続きを案内した。
食料の横流しを証明する前に、土地の権利を持つ人々の声を聞く必要があった。
夜、エナが戻ってきた。
「荷船を見た子がいる」
河原で釣りをしていた少年は、船の帆に赤い鳥が描かれていたと話した。
ただし暗くて、顔までは見えなかったという。
俺は彼に何度も聞き直さなかった。
子供の記憶をこちらの都合に合わせて変えたくない。
「見たことだけでいい。ありがとう」
少年は安心したように笑い、帰り際に言った。
「あの船、空っぽじゃなかったよ。水面ぎりぎりまで沈んでた」
その一言で、上流へ向かった船が何かを大量に運んでいた可能性が高まった。
「証拠になるか?」
「これだけじゃ無理。でも運搬先は追えるかも」
川岸の船頭を訪ねると、昨夜、赤い鳥の帆を掲げた荷船が上流へ向かったと聞いた。
少年の見た船と同じかどうかは、まだ確かめられなかった。
荷船は水位が低い時期にしか通れない狭い支流へ入ったらしい。
俺は食糧便の配達記録を広げた。
上流には、三番村の避難所と、古い石切場がある。
鍋を貸してくれた鍛冶屋の名はガレンだった。
彼は煤だらけの手で、俺たちの配給表を眺めた。
「お前らは袋を数えているが、鍋を数えたことはあるか」
「ありませんでした」
「だったら今日から数えろ。鍋が割れた家は、豆があっても食えない」
彼は使い古した小鍋を三つ出した。
取っ手は曲がっていたが、底に穴はない。
「直してから持っていけ。代金は、次に鉱山町へ行く便で鉄くずを運んでくれればいい」
俺はその条件を帳面に記した。
善意に甘えるだけでは続かない。
何を受け取り、何を返すかを明確にすることが、長く助け合うために必要だった。
翌日、村の共同炊事場では、三つの鍋で別々の料理を作った。
固い豆を煮る鍋、子供向けに薄くした粥の鍋、病人に届ける温かな汁の鍋。
ひとつの鍋が増えるだけで、食べられる人が増える。
その事実に俺は驚いた。
「避難所に届いた記録はない」
とエナ。
石切場の調査を頼んだ検査官は、俺たちに同行する条件として、現場で勝手に袋を動かさないことを求めた。
「証拠が崩れたら、商会は何もなかったと言い張る」
俺は約束した。
配給を急ぎたい気持ちはあったが、今ここで不正を見逃せば、次の村でも同じことが起きる。
エナは証拠の位置を図面に記録するため、紙と炭筆を準備した。
ハンスは護衛の配置を考え、入口の外で待機することにした。
三人とも役割が違う。
俺だけではできない仕事が増えていた。
俺は製粉所で聞いた船の目撃時刻と、石切場へ続く道の轍を照らし合わせた。
赤い鳥の印が同じでも、運ばれた麦が五百袋の不足分と同一だとはまだ言えない。
石切場では袋の印と積荷の記録を別々に押さえようと、ハンスに念を押した。
閉じた製粉所の窓枠で採取した麻糸と、床に残る粉の跡を検査官に示した。
「この建物で袋を扱ったことは分かる。でも、船に積んだとまでは言えない」
とエナ。
俺は頷き、麻糸の採取場所と時刻を封筒に記した。
川を通った船の記録は、これから別に確かめなければならない。
そのとき炊事場から使いが来た。
豆はあるのに薪がなく、子供たちの夕飯が作れないという。
俺は製粉所の監視を検査官に任せ、鍛冶屋から借りた大鍋を運ぶことにした。
「犯人を追わなくていいの?」
と少年が聞いた。
「追う。けれど、お腹を空かせたまま待たせる理由にはならない」
火が戻り、豆粥を受け取った少年は、自分の分を隣の老人に半分渡した。
赤い鳥の印を追う理由が、俺には前よりはっきりした。
その晩、三番村の子供たちが磨いた鍋を返しに来た。
鍛冶屋ガレンは受け取りながら、村で共同購入する鍋の寸法を尋ねた。
「借り物がなくても、明日は温かいものを作れるようにしたいんだ」
と村長。
俺は調査の記録をエナへ渡した。
製粉所に残された麻糸と赤い鳥の印は、まだ不足する麦二百八十六袋の行方を証明しない。
次は川を通った船を確かめる必要がある。
翌朝、河原の少年が示した船の航路を確かめるため、俺たちは上流の渡し守を訪ねた。
渡し守は古い木札を取り出した。
「あの夜、重い船が二艘通った。通行料を払ったから記録がある」
木札には日付と船の印が刻まれていた。
赤い鳥の形だった。
「誰が船を出したか分かりますか」
「顔は隠していた。でも船頭は、この辺りの人間じゃない」
渡し守は首を振った。
「川を知らない奴が夜に通るのは危ない。誰かが道案内をしたはずだ」
俺たちは船を追うだけでなく、案内した人物を探すことにした。
証拠は少しずつつながっていた。
渡し守が教えた船の行き先は、上流の石切場だった。
検査官は渡し守の木札を受け取り、通行日と船印を公証人の前で照合した。
俺たちは石切場の管理者へ翌朝の立会いを求める正式な通知を出し、許可が届くまで現場へ踏み込まないことにした。
「また一晩待つのか」
とハンスが唇を噛む。
「待っているのは証拠だけだ。村の夕飯は止めない」
製粉所では交換用の歯車が届かず、粉を挽けないままだった。
鍛冶屋ガレンは村の少年たちに、火を消した炉のそばで歯車の欠けた部分を見せた。
「急いで回せば粉に鉄屑が混じる。明日のパンのために、今日止めるんだ」
少年は修理を待つ間、豆を煮る薪を運ぶと申し出た。
俺は検査官の立会い通知と、少年が書いた炊事当番の札を別々の鞄へしまった。
石切場を調べるための手続と、今日の食事を守る仕事。
どちらも明日へつながっていた。




