第三十話 五つの村と一枚の地図
南の平原から届いた報告は、思っていたより深刻だった。
五つの村で麦の穂が黒く変色し、収穫量が大幅に落ちている。
原因はまだ分からない。
「病気か、霜か、土の問題か」
とエナ。
「専門家に見てもらおう。俺たちだけで決められない」
俺は谷の食糧便の代表を集めた。
ラトナ、ベルク、北の孤児院、鉱山町。
今では四つの地域が帳面を共有している。
机に広げた地図には、赤い印が五つ並んでいた。
「この五つを一度に助けるのは無理だ」
とハンス。
「うん。だから優先順位を決めるための情報がいる」
村ごとの人口、備蓄量、次の収穫までの日数、輸送経路、病人の数。
俺たちは聞き取り用の紙を作った。
「数字を聞かれた村は、食料を奪われると思うかもしれない」
とマルタ。
「それなら目的を最初に説明しよう。調査に答えない村を罰しないことも」
三組の調査隊が出発した。
俺は一番南の村へ向かった。
村の入り口には、畑を燃やした跡があった。
「病気が広がると思って焼いたんだ」
と村長。
「誰の判断ですか」
「旅の商人がそう言った」
俺は焼けた土を見つめた。
まだ原因も分からないのに、種に使える穂まで失われているかもしれない。
「ほかの畑は燃やさないでください。まず農業に詳しい人を呼びます」
村長は不安そうに頷いた。
調査を進めると、五つの村は同じ危機ではなかった。
一つは害虫による被害。
別の村は排水不良。
三つ目は収穫前の霜。
残る二つは、麦の病気が疑われた。
「全部同じ対策をしたら、かえって悪くなる」
エナが地図に色を塗った。
「食料の不足量も違うわ。人口の多い村が必ず一番危険というわけじゃない」
俺たちは、備蓄が三日分しかない小さな村を最優先にした。
次に、井戸が壊れて飲み水が不足している村。
食料の量だけでなく、水と調理できる環境も考慮する。
だが、最優先の村へ向かう途中、領主の兵士が道を塞いだ。
「救援物資は領主の倉庫へ納めろ」
「村へ直接届ける許可を持っています」
「命令が変わった」
兵士は新しい布告を見せた。
『南部五村の穀物は、領主による一括管理とする』
俺は息を呑んだ。
目の前で起きたことを、最後まで見届けなければならなかった。
食料を集めて配る制度は、正しく運用すれば助けになる。
しかし、どこへ何を配るかが見えなくなれば、飢えた村が後回しにされる危険もある。
「配給予定表を見せてもらえますか」
「そんなものは知らん」
「では、責任者と話したい」
兵士は槍を構えた。
「逆らう気か」
ハンスが一歩前へ出た。
俺は手で止めた。
「争うつもりはありません。ただ、荷を納めたあと、村へ届くか確認したいんです」
兵士は迷った末、領主の出張所へ案内した。
そこで俺たちを待っていたのは、若い役人クラウスだった。
「一括管理は飢饉への備えです」
と彼は説明した。
「必要なのは分かります。けれど、今夜食べるものがない村があります」
出張所の夜、クラウスは俺たちの地図を何度も見返した。
「領主の倉庫に千袋あると報告したのは、私の上司です」
「上司に確認できますか」
「明日にはできます。ただ、報告が間違いだと認めれば、私の職も危うい」
俺は答えを急がなかった。
「職を失うのが怖いのは分かります。でも、村の人は明日の食事を失うかもしれない」
クラウスは長く黙り、やがて帳簿を閉じた。
「まず現物を数え直します。私が責任者として署名します」
五つの村の代表が地図を囲むと、最も遠い村の女が声を震わせた。
「順番が最後なら、うちの子は待てません」
俺は距離だけで配達順を決めかけていた。
備蓄日数と病人の数を聞き直すと、その村は二日分しか残っていない。
俺たちは第一便を二つに分け、近い村には共同炊事の材料を、遠い村にはすぐ食べられる保存食を回した。
全員に同じ量を配るのが公平とは限らない。
女は地図に自分の村の名を書き込み、
「次は私も数を知らせる」
と言った。
翌朝、倉庫番を集め、袋の数と重さを一つずつ確認した。
帳簿には入庫済みとある袋のうち、実際には到着していないものがあった。
「入庫印だけ先に押したんです」
と若い倉庫番。
「誰に命じられた?」
「北門商会の担当者が、明日届くから問題ないって……」
クラウスは顔をしかめた。
「入庫前に印を押してはいけないと教えたはずだ」
倉庫番は俯いた。
俺は二人の間に入った。
「今は、届いていない袋の一覧を作りましょう。責任の調査はそのあとです」
数字を整理すると、足りない袋の大半は特定の三日間に集中していた。
エナが地図を指した。
「この三日間、北門商会の荷車は南へ向かっていたはずよね」
「どこへ運んだのか、記録を確認したい」
と俺。
クラウスは頷いた。
「正式な調査を申請する。だが、その間も配給は止めない」
彼は領主の倉庫の実在庫を公開し、五つの村の代表を招いて優先順位を協議すると決めた。
「皆が納得するとは限りません」
とエナ。
「それでも、隠した数字で決めるよりはいい」
クラウスは疲れた顔で笑った。
その日の午後、村の代表たちは初めて同じ机を囲んだ。
自分の村が一番苦しいと訴える声が飛び交う。
俺は地図の上に、赤い札と青い札を置いた。
赤は今夜の食料が足りない村、青は一週間以内に不足する村。
「今日の便は赤へ。明日の便は青へ。間違っているところがあれば教えてください」
一人の村長が静かに手を挙げた。
「うちは青になっているが、病人が増えた。赤にしてもらえないか」
俺はすぐに札を動かさず、事情を聞いた。
全員が地図の前で数字を確かめ直した。
その時間は長かった。
だが、誰か一人が勝手に決めるより、確かな一歩だった。
代表たちの会議が終わったあと、俺は地図に書き込まれた修正後の備蓄日数をクラウスへ渡した。
彼は眉をひそめた。
「この数字は誰が調べた」
「村人と一緒に確認しました。誤りがあれば訂正します」
「領主の倉庫には、十分な穀物があると報告されている」
「どの村に何日分配る予定ですか」
クラウスは答えられなかった。
俺は責めなかった。
彼も現場の数字を知らされていないのかもしれない。
「今夜の分だけ、最優先の村へ直接届けさせてください。数量と受領印は提出します」
クラウスは長く考え、条件付きで許可を出した。
「明日、正式な配給計画を持ってきてください。私も倉庫の数字を確認します」
「ありがとうございます」
俺たちは急いで村へ向かった。
到着したころには、日が暮れかけていた。
村人たちは広場に集まり、空の鍋を囲んでいた。
「食料だ!」
誰かが叫んだ。
だが俺は、すぐに袋を開かなかった。
村長と人数を確認し、調理できる水があるかを確かめる。
子供と体調の悪い人を優先し、残りは公平に分ける。
一時間後、広場に湯気が立ち上った。
村長は器を持ったまま、何度も頭を下げた。
「明日も来てくれるのか」
俺は即答しなかった。
「明日来られるように、今から手配します。でも、まだ確約はできません」
村長は少し悲しそうに笑った。
「嘘をつかないんだな」
「約束を破るほうが怖いんです」
地図の端に新しい村名を書いた子供は、赤い印の意味を尋ねた。
俺は
「食料が届いていない場所だ」
と答えた。
子供は黙って青い印を一つ描き足した。
「届いたら、こっちに変えて」
俺はその印を消さず、次の便の目標にした。
その夜、俺は出張所へ戻り、クラウスと配給計画を作った。
必要な穀物、運搬車両、出発時刻、受け取り担当。
村ごとに一枚の紙へまとめ、控えを三か所に残す。
地図の端に小さく書かれた村を、俺は見落としかけていた。
村の代表が指を置き、
「ここにも子供がいる」
と言った。
俺はその名を読み上げ、最初の便の確認先に加えた。
地図を完成させるのは線ではなく、待つ人の声だった。
夜明け前、五つの村の代表が一枚の地図を囲んだ。
最も遠い村の老人が言った。
「うちに先に運べば、隣村の子供が待つことになる。あちらは病人が多い。最初の便を譲る」
「譲る必要はない」
とハンスが答えた。
「道を二つに分ければ、両方へ少しずつ運べる」
荷車は足りない。
そこで川沿いの村が空の舟を出し、山際の村は荷を担ぐ若者を六人集めた。
焼けた畑を抱える村の村長は、残った井戸を休憩所として開放すると申し出た。
俺は地図に一本ずつ線を引いた。
線を引くたびに、誰かが自分の村のものを差し出した。
「うちも助けてもらう側なのに、出せるものがあるんだな」
老人が呟くと、隣の村長が頷いた。
「食料は少ない。でも道と手はある」
出発の合図が鳴り、最初の荷が二方向へ動いた。
地図の赤い印はまだ消えない。
それでも、五つの村を結ぶ道は、もう誰か一人のものではなかった。
明け方、領主の倉庫から第一便が出発した。
だが二台目の荷車は、倉庫の前で止まった。
「在庫がない?」
クラウスの顔が青ざめた。
帳簿には麦が千袋あると書かれていた。
実際にあるのは、その半分にも満たない。
「誰が数を偽ったんだ」
俺は空の棚を見つめた。
五つの村を救うための食料が、帳簿の中でだけ存在している。
そして倉庫の扉には、見覚えのある印が押されていた。
北門商会。
クラウスが低い声で言った。
「これは、単なる飢饉では済まないぞ」
俺は地図を畳んだ。
ハンスは故郷を後回しにして、病人の多い村を指さした。
これまで、俺たちは足りない食料を運んできた。
今度は、あるはずの食料がどこへ消えたのかを突き止めなければならない。
五つの村で、次の食事を待つ人たちがいる。
五つの村の名を並べると、どの名にも待っている顔が浮かんだ。
俺は最も遠い村の到着予定をもう一度確かめた。
俺は御者へ地図を渡した。




