第二十九話 塩の道を開け
鉱山町グラドでは、食料が腐り始めていた。
町の食堂主ダンは、貯蔵室の扉を開けて俺に見せた。
「肉はある。野菜も届いた。でも塩が足りない」
樽の中には、傷みかけた肉が並んでいる。
俺は顔をしかめた。
「これは食べないほうがいい。医師か衛生に詳しい人に確認してもらおう」
「捨てたら冬を越せんぞ」
「食べて病気になったら、もっと大変だ」
ダンは拳を握り、やがて頷いた。
塩の採掘場へ通じる山道は、落石で塞がれていた。
道を開くには人手と道具が必要だが、鉱夫たちは採掘を止められない。
「誰が金を出すんだ」
と町長。
「塩を必要としている人たちで、費用を分担できませんか」
俺は提案した。
「食堂、保存食の工房、農家、鉱山。みんなが使う道です」
町長は難しい顔をした。
「皆、自分のことで精いっぱいだ」
俺は引き下がらなかった。
「では、費用を数字にしましょう。道を直さなければ失う食料の量と、直すための費用を比べたい」
エナが帳面を開き、ダンと工房の職人から聞き取りを始めた。
傷みそうな肉の量、塩がないために止まった加工品、冬に必要な保存食。
集めた数字は予想より大きかった。
「修理費のほうが安い……」
町長が呟いた。
「ただし、道を直せば必ず塩が届くわけじゃありません」
と俺。
「採掘場の人が働けるか、先に確認が必要です」
ハンスとセヴが山へ向かった。
夕方、戻った二人は厳しい顔をしていた。
「採掘場は無事だ。でも、向こうも食料が足りない」
採掘場の住民は三十人。
落石で町からの食料が途絶え、塩は採れても食べるものがないという。
「なら、食料を届ければ塩を運び出せる」
とダン。
「まず道を開かなきゃ」
とエナ。
問題は輪になっていた。
道がないから食料が届かない。
食料がないから採掘場が働けない。
塩がないから町の保存食が作れない。
俺は地図を見つめた。
「人が通れる道はある?」
セヴが頷いた。
「崖沿いの細い山羊道なら。ただし荷車は無理だ」
「俺の保存倉庫なら、荷車なしで運べる」
「危険だぞ」
工事の三日目、斜面から小石が落ちてきた。
作業隊長が笛を吹き、全員を退避させる。
「あと少しで道が開くのに!」
若い鉱夫が叫んだ。
隊長は首を振った。
「あと少しで命を落とすところだった。今日は終わりだ」
隊長は自分の名を作業中止の札に書いた。
坑夫の一人が
「今夜の賃金がなくなる」
と抗議した。
隊長は自分の手当から最低限の休業分を出すと申し出たが、全員分には足りない。
町の代表を呼び、翌朝の作業と補償を話し合うことにした。
「町長に責められたら、俺が答える」
俺は鉱夫の肩に手を置いた。
「急いでいるのは分かる。でも、誰かが怪我をしたら塩も運べなくなる」
鉱夫は唇を噛み、道具を下ろした。
その晩、オルガ親方が工事費の計算を持ってきた。
「町側の負担が多すぎる。採掘場も払う」
「塩の売上が戻るまでは厳しいでしょう」
「だから、支払いを分けてくれ。払わずに助けてもらうだけじゃ、次の修理を頼めなくなる」
俺はエナと相談し、工事費を町と採掘場で分担する案を作った。
収入の少ない月は負担を軽くし、収支を公開する。
道の開通を待っていたのは塩の買い手だけではなかった。
足を痛めた老鉱夫は、診療所へ行くための荷車を手配してほしいと町長に頼んでいた。
「初荷より先に人を運ぼう」
とオルガが決めた。
ダンは樽の中で傷む肉を思い浮かべ、唇を噛んだ。
「今夜の仕込みは諦める。それでも老人を先に運んでくれ」
誰かの損失を黙って引き受けさせるのではなく、当人が選んだ決断だった。
俺は塩の数量ばかり気にしていた自分を恥じた。
落石を取り除いた直後、若い鉱夫が道の縁へ踏み出そうとした。
足元の土が崩れ、荷袋が谷へ落ちた。
俺は塩を拾うなと叫び、全員を下がらせた。
最初の便を遅らせれば町の保存食が傷む。
それでも人を失ってまで運ぶ塩はない。
オルガが別の岩場へ縄を張り、鉱夫たちは一袋ずつ手渡しで運んだ。
夕方、ダンの食堂に届いた塩は予定より少なかったが、誰も欠けていなかった。
ダンは塩を量りながら
「明日も運べる」
と笑った。
夕方、作業を終えた人々の前で、ミラが余った麦の重さを読み上げた。
皆が喜びかけたとき、帳簿の端に小さな数字が残っているのを俺は見つけた。
運搬中に破れた袋の分だった。
失った量を消せば収支は美しく見える。
だが翌月の食料は増えない。
ミラは数字を消さず、破損を減らすための布袋を試す費用を横に書き加えた。
初荷の前夜、オルガは若い鉱夫たちを坑口へ集めた。
岩の割れ目には白い石灰で印が付けられ、危険な場所には縄が張られていた。
「塩が売れたら、真っ先にこの道を直す金を残す。分かったね」
若者の一人が不満を漏らした。
「腹が減ってる家もあるのに?」
「だからこそだ。道が塞がれば来週も同じ腹の減り方をする」
その言葉に、誰もすぐには答えなかった。
俺は食料の配分表を広げ、今夜の分と修理費を分けて記した。
どちらか一方を隠しても、問題は消えない。
町側の大工は、雨のたびに土が流れる箇所を示した。
オルガは鉱夫たちの仕事を交代制にし、採掘を止めずに道を点検する時間を作った。
足を痛めた老鉱夫は
「運べないなら、危ない場所を教える」
と言って、昔の崩落地点を地図に書き込んだ。
俺はその地図を見て気づいた。
救援の荷を一度通すだけなら、俺の能力でもできる。
だがこの道を来月も使うためには、毎日ここで暮らす人の知恵が要る。
道が開いて最初に町へ下りたのは、塩袋ではなく、足を痛めた老鉱夫を乗せた荷車だった。
「医者に診てもらえる」
と老人が笑うと、オルガは黙ってその背に毛布を掛けた。
五日目の朝、塩の初荷がダンの食堂へ着いた。
ダンは樽を抱きしめ、鍋を火にかけた。
長く保存食を作れなかった町で、初めて冬支度の仕込みが再開した。
「塩を届けてくれてありがとう」
「先に麦を運んでくれたのは、あんたたちだろう」
とオルガ。
だが若い鉱夫が、道の斜面に残る亀裂を指した。
「次の雨でまた塞がるかもしれない」
オルガは最初の売上から修理費を取り分けた。
町長も同額を出すと約束した。
老人を運んだ御者が、次の点検日を板に刻んだ。
俺の倉庫が運んだ麦は、最初の一便だけだ。
そのあとを支えたのは、岩を削った手と、明日の道を守ろうとする人々だった。
老鉱夫が診療所から戻ると、足には新しい添え木が巻かれていた。
「働けるまで休めと言われたよ」
と照れくさそうに笑う。
若い鉱夫が
「なら、道の点検表を頼む」
と板を差し出した。
老人は塩の袋より慎重にその板を受け取った。
道が開いたことで、働けない間にも町を支える役目が生まれた。
夜、ダンの食堂で鉱夫たちが熱いスープを飲んでいると、旅人が入ってきた。
「南の平原で麦が枯れた。少なくとも五つの村だ」
匙を持つ俺の手が止まった。
道が一本開いた喜びの向こうで、今度は畑そのものが失われようとしていた。




