第二十六話 消えた荷車と十人の証人
北の農家から運ぶはずだった荷車が、予定の時刻を過ぎても現れなかった。
「道が崩れたのか?」
ハンスは地図を広げた。
「昨日の雨なら通れる。事故なら伝令が来るはずだ」
荷車には麦二百キロと豆百キロが積まれていた。
だが俺が最初に確かめたのは積み荷ではない。
御者のディルが最後に水を飲んだ場所だった。
孤児院と二つの集落の次の食事を支える分だ。
俺たちは道を分かれて探した。
ハンスは街道、セヴは山道、俺とエナは最後に荷車を見た農家へ向かった。
農家の長は青ざめていた。
「朝には出た。御者は若いディルだ。妻と子供が待ってる」
俺は帳面に出発時刻と荷の量を記した。
「馬の特徴は?」
「左の前脚に白い毛がある」
昼過ぎ、ハンスから伝令が来た。
『西の関所で荷車を見た者がいる』
西の関所は目的地とは逆方向だ。
「盗まれた?」
エナが呟く。
「まだ決めつけない。御者の無事が先だ」
関所に着くと、門番は知らないと答えた。
だが馬の足跡が、脇道へ続いている。
俺たちは足跡を追った。
夕方、古い製粉小屋の前で荷車を見つけた。
荷台は空だった。
御者のディルは縄で縛られ、口に布を詰められていた。
「大丈夫か!」
縄を解くと、彼は水を飲んで咳き込んだ。
「男が三人……関所で止められて、荷を移せと言われた。断ったら殴られた」
「顔は?」
「一人は商会の腕章をつけていた。でも、俺が見間違えたかもしれない」
俺は拳を握った。
今すぐ商会へ乗り込みたかった。
しかしディルは怪我をしている。
証拠もない。
「まず治療所へ行こう。荷は後で探す」
その晩、孤児院へ遅延の知らせを送った。
サラから返事が届く。
『二日分は残っています。
子供たちには予定変更を説明しました』
俺は安堵しながらも、二日しかないことを忘れなかった。
翌朝、製粉小屋を調べ直すと、床に小麦の粒が散っていた。
袋の縫い糸は青い。
俺たちの袋も青い糸で封じている。
「荷はここで積み替えられた」
エナが言った。
近くの住民を訪ねると、十人が荷車の音を聞いていた。
だが誰も正面からは見ていない。
「証言してもらえますか」
ディルの妻が治療所に駆け込んできたとき、彼は顔を隠した。
「ごめん。荷を守れなかった」
妻は答えず、彼の肩を抱いた。
「荷物はまた作れる。あなたが帰ってこなかったら、どうするつもりだったの」
その声に、俺は胸が痛んだ。
俺も荷を届けることばかり考え、運び手の家族のことを後回しにしていた。
翌朝、谷の食糧便の会議で、新しい規則を提案した。
「護衛を雇う予算はすぐにはない。でも、出発と到着の確認、危険な道の回避、怪我をした人の補償は決められる」
「補償って、誰が払う?」
とハンス。
「共同の輸送費から積み立てる。足りなければ、運ぶ量を減らしてでも先に確保する」
ガランが腕を組んだ。
「それじゃ利益が減るぞ」
出発前、ディルは家族に帰着予定の時刻を告げ、遅れた場合の連絡先も渡した。
以前なら必要ないと思っていた紙切れだ。
妻はその紙を丁寧に畳み、胸元へしまった。
俺は、無事に帰るという約束も配達の一部なのだと思った。
荷を奪われた日のことを聞くと、ディルは何度も言葉を詰まらせた。
俺は無理に続きを尋ねなかった。
「思い出すのが辛いなら、今日はここまでにしよう」
彼は首を振った。
「あの男、荷車を止めたとき、俺の子供の名前を言ったんだ」
背筋が冷えた。
偶然ではない。
誰かが運び手の家族まで調べている。
俺はその情報を役所へ追加で届け、御者の名簿を外部に出さないことを決めた。
配達の安全は、道や荷物だけでは守れない。
働く人が帰る家まで、考えなければならなかった。
「運び手が倒れたら、利益どころか次の便がなくなる」
沈黙のあと、ガランが頷いた。
「木箱の売上から少し出そう」
エナは新しい欄を作った。
事故の時刻、怪我の程度、治療費、休業中の補助。
個人の事情を公開しないよう、帳面を分けることも決めた。
夕方、ディルが事務所に来た。
「俺のせいで金を使わせたな」
「違う。今回のことがなければ、必要な備えに気づかなかった」
「次は逃げる。荷より先に」
「それでいい」
ディルは少し笑った。
ディルが戻ってきても、荷車の車輪には縄で強く縛られた跡が残っていた。
本人は
「道に迷っただけだ」
と言い張ったが、手のひらには縄傷があった。
俺は問い詰めず、今夜は家族のもとへ帰すと決めた。
翌朝、ディルは自分から役所へ来た。
「脅された。黙ればまた運べると思った」
十人の証人が見たのは荷車の行方で、彼が受けた恐怖ではない。
役人は証言を別に記録し、彼の次の便には仲間を付けた。
帰れる道を作って初めて、証人は声を出せる。
その夜、俺は盗まれた麦の数量を帳面から消さずに残した。
失敗した記録も、次に誰かを守るための材料になる。
成功だけを並べた帳面では、同じ危険を繰り返してしまう。
事故の報告をまとめるとき、俺は聞き取りで見落としたことに気づいた。
「商会に逆らったら商売できなくなる」
と老いた粉屋が言っていたのだ。
俺は証言を結論にせず、荷車が消えた時刻と目撃者の立ち位置を地図に書き込んだ。
「無理にとは言いません。ただ、時刻だけ教えてください」
追加の聞き取りで時刻を照合すると、荷車は製粉小屋から北門へ戻っていた。
途中、橋の修理人が二台の馬車を見たと話した。
「片方の馬は左前脚が白かった」
ディルの馬だ。
俺たちは役所に被害届を出した。
御者の診断書、袋の糸、住民の証言。
すべてを提出した。
役人は眉をひそめた。
「商会の名が出ているが、直接の証拠はない」
「分かっています。だから調べてほしいんです」
「時間がかかる」
「食料は急ぎです。捜査とは別に、次の便を通します」
俺は北の農家へ連絡し、別の経路を使うことにした。
荷車一台にまとめず、少量ずつ三つの便へ分ける。
どこか一つが止まっても、全部は失わない。
十人の証人のうち、老いた粉屋だけは口を閉ざしていた。
「商会に逆らえば、息子の店を潰される」
俺は無理に証言を迫らなかった。
ディルが襲われた場所と時刻を地図に書き、ほかの証人の話を一つずつ照らし合わせた。
その夜、粉屋が治療所を訪ねてきた。
包帯を巻いたディルの腕を見ると、帽子を握りしめた。
「北門へ戻る馬車を見た。左の前脚が白い馬だった。積み替えに使った小屋も知っている」
「どうして今、話してくれるんですか」
「孤児院の子が空の椀を抱えていた。あの子を見たら、黙っていられなかった」
役所の役人は、証言だけで商会の指示を断定できないと言った。
「分かっています。ですが袋が移される前に、小屋を調べてください」
粉屋が自分から一歩前へ出た。
「俺が案内する」
翌朝、小屋から押収された袋と積み替え記録が見つかった。
黒幕まで証明できたわけではない。
それでも消されかけた証拠は役所の手に渡った。
ディルは荷車を見つめた。
「もう一度運ばせてくれ」
「一つ条件がある。襲われたら麦を捨てて逃げること。君が戻るほうが大事だ」
ディルは荷車の傷を見た。
「それで子供が飢えたら?」
「次の荷は皆で探す。君の代わりは探せない」
彼はしばらく黙り、頷いた。
次の便は二人一組で、三つの経路に分けて運んだ。
孤児院へ着くと、子供たちが駆け寄ってきた。
「麦が来たぞ」
とディルが笑う。
小さな男の子は首を振った。
「違うよ。お兄ちゃんが帰ってきたから」
ディルは荷車の陰で顔を覆った。
証拠を見つけたときにも笑わなかった男が、初めて声を詰まらせた。
その夕方、エナが新たな知らせを持ってきた。
「北の集落で、配った麦を売った人がいるって」
空の荷車を見つけたとき、ディルは荷台より先に轍の横の足跡を追った。
荷を取り返しても、御者が帰らなければ妹には何も説明できない。
その判断を誰も止めなかった。
俺は空になった荷台を見た。
奪われた麦を取り戻すだけでは、飢えは終わらない。
「理由を聞きに行こう。決めつけるのは、そのあとだ」




