第二十五話 飢えを売る商人の笑顔
「うちから麦を買えば、村の子供には無料で配ってやる」
北門商会の支配人バルグは、広場に集まった人々へそう宣言した。
公開審理から五日。
商会は罰を受けるどころか、無料配給の看板を掲げていた。
ハンスが看板を睨む。
「善人の真似か」
「無料でもらえるなら助かる人はいる」
と俺は言った。
「お前、あいつをかばうのか」
「違う。配給を受ける人に罪はない」
問題は条件だった。
商会の配給札を受け取るには、次の収穫を商会へ優先的に売る契約に署名しなければならない。
字を読めない農家には、説明もされていない。
俺は広場で怒鳴りたくなった。
だが、その場で騒げば配給を止められるかもしれない。
「まず契約書の写しを集めよう」
エナが頷いた。
だが列の先頭で、乳児を抱えた母親が膝をついた。
俺は紙を集める手を止め、サラに合図した。
食堂の温かい粥を一椀、先に運んでもらう。
「署名しないと食べられないんじゃないの?」
「ここで食べるのに署名はいりません」
母親が椀を受け取ると、後ろの人々が初めて商会の列から目を離した。
夕方、農家の女が一枚の紙を持ってきた。
「麦をもらった。だけど、この印が何か分からない」
紙には『収穫物の優先購入権』と書かれていた。
しかも価格は商会が一方的に決める条件だ。
「これを説明された?」
「子供が食べられると言われただけ」
女は俯いた。
「私が悪いの?」
「違います。契約の説明を求める権利があります」
俺は女の手元から紙を奪わず、読み上げて確認した。
翌日、農家たちが集まった。
契約した者も、断った者もいる。
「どうすればいい」
と尋ねられ、俺は返事を探したが、すぐには言葉にならなかった。
商会は実際に麦を配っている。
契約が不利でも、今日の夕食が必要な人はいる。
「選べる状態を作りたい」
と俺は言った。
「ほかの買い手がいれば、契約を断れる。今すぐ食べる分も別に確保する」
俺たちは村の共同倉庫に緊急用の麦を集めた。
すべて無料では続かない。
働ける人には配達や加工の仕事を頼み、賃金を払い、その金で食料を買ってもらう。
働けない人には無条件で支援する。
初日、十人が集まった。
二日目には三十人。
だが三日目、商会が俺たちの買い付け先に圧力をかけ始めた。
「お前たちに売ったら、うちとは取引しないそうだ」
農家の長が苦しそうに言った。
「家族がいる。悪いが今回は断らせてくれ」
「責めません。ほかの道を探します」
帰り道、ハンスが拳を握った。
「向こうは人の弱みばかり狙う」
「だから、俺たちまで弱みにつけ込んじゃいけない」
バルグが持ちかけた買収話を断って事務所に戻っても、金貨の光だけが目に焼きついていた。
あれだけあれば、今の孤児院に何か月も食料を届けられる。
「迷った?」
とエナ。
「迷った。受け取ってから裏切ればいいんじゃないかって、一瞬思った」
「でも、そうしたら?」
「倉庫に入れる麦は、誰かから買い占めたものになる。値段を上げるために食料を眠らせることになる」
俺は証言を急いでまとめず、荷車が通った時刻を一つずつ聞き直した。
「救うための能力を、飢えを作るために使いたくない」
エナは金貨が置かれていた机を拭いた。
「じゃあ、明日の買い付けの金をどうするか考えよう」
現実は容赦がない。
立派な言葉だけでは馬の飼葉も買えない。
俺たちは収入と支出を分けて書いた。
寄付は緊急救援へ、加工品の売上は賃金と輸送費へ。
赤字が続けば、仕事を縮小しなければならない。
夜の会議では、能力を公表するかどうかでも意見が割れた。
ハンスは
「隠してもいつか知られる」
と言い、エナは
「誰でも使えると思われたら危険」
と反論した。
俺は両方の言い分を聞いた。
結局、倉庫の容量と制約は代表者に共有し、外部には救援に必要な範囲だけ説明することにした。
能力を秘密兵器にして仲間を不安にさせるのも、すべてを公開して無用な危険を招くのも違う。
掲示板の前で、一人の老人が商会の配給札を握りつぶした。
「今日の麦がなければ孫が倒れる。だが来年の畑まで渡したくない」
俺は札を捨てろとは言えなかった。
エナは条件のない緊急配給の残量を確認し、ハンスは老人の家へ直接運ぶと申し出た。
商会の配給を受ける人を責めず、署名しない選択肢を作る。
老人は麦袋を受け取ると、掲示板に自分の名を記した。
「字の読めない者には、俺が声を掛ける」
その言葉が、バルグの宣伝より遠くまで届いた。
翌日、運び手には普通の荷車で運べる量を基準に計画を立ててもらった。
俺の倉庫は、最後に足りない部分を補うために使う。
「無料で配る量を減らすの?」
ハンスの声が硬くなる。
「命に関わる支援は優先する。その代わり、急がない配送はまとめる。空荷で戻る馬車も減らしたい」
「帰り荷か」
とガラン。
「木工品なら、町へ運んでもらえる」
「そうだ。行きに食料、帰りに村の商品を積めば、運賃を分けられる」
その場で商談が始まった。
ガランの木箱、マルタの乾燥香草、農家の豆。
小さな品ばかりだが、空荷よりはずっといい。
翌朝、最初の共同便が出た。
帰りの荷台に商品が載っているのを見て、ハンスが笑った。
「ようやく、商売らしくなってきたな」
「商売が続かなければ、救援も続かない」
俺はそう答えた。
商会と戦うために必要なのは、怒りよりも、次の月にも荷車を動かせる仕組みだった。
翌朝、孤児院のサラから手紙が届いた。
『子供たちが乾燥野菜を作りたいと言っています。
安全な作業なら、手伝わせてください』
俺は思わず笑った。
リーネたちが、自分たちにできる仕事を探していた。
ただし、子供を働かせて支援の対価にするわけにはいかない。
俺は返事に、作業は学習の範囲に限ること、危険な刃物や長時間労働はさせないことを書いた。
その日の午後、バルグ本人が谷の食糧便の仮事務所に現れた。
「面白いことをしているそうだな」
「何の用ですか」
「商売の話だ。お前の保存倉庫を使わせろ」
俺は息を止めた。
能力のことは、仲間以外には詳しく話していないはずだった。
「どうして知っているんです」
「王宮には情報を売る者がいる。召喚された役立たずが、腐らない倉庫を持っているとな」
バルグは机に金貨を置いた。
「私の麦を好きなだけ保存しろ。収穫期に買い占め、冬に高く売る。お前にも取り分をやる」
「断ります」
「金貨を見てから答えろ」
「見ました」
バルグは笑顔のまま金貨を指で弾いた。
「善意で人は食えんぞ」
「知っています。だから代金を払って買っている」
「ならば、お前の倉庫を使わせないために、王宮へ訴えてもいい」
背筋が冷たくなった。
王宮は俺を追放した。
守ってくれる保証はない。
「好きにしてください」
声が震えたのは悔しかった。
バルグが去ったあと、エナが扉を閉めた。
「怖かった?」
「正直、怖い」
「なら、今夜はみんなで相談しましょう」
バルグが去ったその夜、谷の食糧便の代表たちが改めて集まった。
俺は能力を隠し続けることの限界を話した。
倉庫に頼りすぎれば、俺が捕まっただけで配達が止まる。
「食料の保存は助かる。でも、運ぶ道は俺たちで守れる」
とハンス。
「乾燥や塩漬けの設備も増やそう」
とマルタ。
「帳面は複数の村で持つ」
とエナ。
一人の秘密を守るより、みんなが続けられる仕事を増やす。
それが俺たちの答えになった。
翌朝、商会の無料配給所に長い列ができていた。
その向かいに、俺たちは小さな掲示板を立てた。
『契約書を一緒に読みます。
代金は取りません』
掲示板の前で立ち止まった女性は、無料配給の契約書を握っていた。
「読めないところがある」
と小さく言う。
俺は代わりに署名せず、収穫の値段を商会が決める一行を指さした。
女性は最後の欄で首を振り、紙を畳んだ。
商会の笑顔が消えた理由を、俺はその手の動きで理解した。
バルグは笑顔を消したが、すぐに配給の人数を制限した。
『本日限り、先着五十世帯』列の後ろで乳児を抱えた母親が泣き出した。
俺は札を破らなかった。
代わりにサラと相談し、契約を断った家族にも今日の夕食が届くよう、食堂の空いた鍋と共同倉庫の豆を割り振った。
無料配給を断る自由は、断った後に食べられる道があって初めて本物になる。
広場の端で、配給札を持つ若い農夫が声を上げた。
「俺は昨日署名した。取り消せないなら、せめて家族だけでもここで食べさせてくれ」
俺は契約を破棄できるとは言わなかった。
マルタは鍋を二つに分け、署名した人と断った人を同じ列へ案内した。
「食事を受け取ったことと、来年の麦を売ることは別だよ」
若い農夫は商会の配給札を懐にしまい、まず子供の椀を受け取った。
列の最後尾で、字の読めない老人が契約書を差し出した。
マルタは一行ずつ読み、来年の収穫を商会の指定価格で売る条項で指を止めた。
老人は署名をせず、隣の母親にも紙を見せた。
バルグが配給を五十世帯で打ち切ると告げると、俺は予備費を数え直した。
明日の豆を買えば、別の村への便が減る。
それを隠さず代表たちへ伝えると、荷運びの男が自分の夕食分を一杯減らすと申し出た。
「その代わり、明日は荷車を一台増やしてくれ」
俺たちは今夜の鍋を守りながら、明日の不足も帳面から消さなかった。




