第十一話 南の谷から来た空の荷車
南の谷へ向かう朝、荷車は空だった。
食料を運ぶためではない。
まず道を確かめるためだ。
「食べ物を持たずに行くのか」
ハンスは不満そうだった。
「百二十人が何日食べていないかも、どの道が通れるかも分からない。積めるだけ積んで谷底に落ちたら、誰も助けられません」
俺は帳面を開き、聞いた数字をその場で記した。
ラトナ村の共同倉庫に残る小麦は四十六キロ。
豆が十八キロ。
種麦は別に封印してある。
次の街への定期便まで五日。
今ここで全部持ち出せば、ラトナの子供が再び飢える。
「救いに行って、別の村を飢えさせるわけにはいかない」
村長が頷いた。
エナは少量の乾パンと水筒を荷車に積んだ。
トトは行き先を書いた札を抱えていた。
ミリが書いた『南の谷へ』という文字が、雨で少し滲んでいる。
「ぼくも行く。道の記録ができる」
「崩れた道を見たら戻る。約束できるか」
「できる」
谷の入口までは、乾いた丘が続いていた。
だが山腹に入ると、雨でえぐられた車輪の跡が途切れた。
巨大な土砂が街道を塞いでいる。
脇には壊れた荷車の車輪が埋まっていた。
ハンスが土を踏むと、細かい石がぱらぱらと崩れた。
「上を越えるのは無理だ」
「下は?」
「川が増水している。馬も渡れん」
そのとき山肌から石が転がり落ち、俺たちの背後の道を塞いだ。
引き返すにも、荷車を一台ずつ動かす幅しかない。
ハンスはトトを抱き寄せ、崩れかけた斜面から離れさせた。
そこで、向こう側からかすかな鈴の音がした。
一台の荷車が、泥だらけになって現れた。
引いているのは馬ではない。
痩せた男が一人、綱を肩にかけていた。
荷台には袋が一つもない。
「街へ行くのか」
俺が声をかけると、男はその場に膝をついた。
「麦を……売ってくれるところを知らないか」
「名前は?」
「セヴ。谷の奥のベルク集落の者だ」
「集落には何人いる?」
「百二十人。今朝、ひとり減った」
セヴは荷車の取っ手から手を離さなかった。
指の皮が裂け、乾いた血が木目に染み込んでいる。
「死んだ人の名前は?」
「アド爺さんだ。俺が昨日ここへ出ていれば、粥を一杯飲ませられたかもしれない」
ハンスが差し出しかけた乾パンを引っ込めた。
セヴはその動きを見て、自分のためではなく谷に残した子供のために、もう一度立ち上がろうとした。
俺は荷車の空いた荷台を叩いた。
「今日は荷を積まず、通れる道を探す。明日の食料はラトナの子供の分を残したうえで、北の街からも調達する。届かなければ、俺が谷へ行って理由を伝える」
トトが息を呑んだ。
俺は水を渡した。
男は慌てて飲もうとしたが、手が震えて水をこぼした。
セヴは濡れた袖で口元を拭い、谷に残る家族の数を指折り数えてから言った。
「村長は、明日の朝までに食べ物が来なければ、山の木の皮を煮ると言っている」
ハンスが荷車を見た。
「こいつを引いて帰るだけでも一日かかる」
「なら、今日は運ばない。先に人が通れる道を探します」
俺たちは崩落地の西側へ回った。
山羊が使う古い段々道があるとセヴが教えてくれた。
幅は人一人分。
車輪は通らない。
「俺の倉庫なら、背負わずに運べる」
「五百キロだろ。百二十人には足りんぞ」
「だから最初の一回で終わらせないんです」
日が傾く前に、俺たちは引き返した。
セヴを一人で帰すことはできなかったので、ラトナへ連れて戻った。
広場で事情を話すと、村人たちの表情が変わった。
自分たちも昨日まで同じ場所にいたからだ。
だが、誰も軽々しく
「全部持っていけ」
とは言わなかった。
エナが帳面を指した。
「ラトナの明日も守りながら、ベルクの今日を救う。それができる量を決めよう」
セヴは車輪の鉄輪を指で弾いた。
ひびの入った箇所から乾いた音が返る。
「谷の道でまた割れたら、今度は誰も戻れない」
ハンスは予備の楔を二本、荷台の底に結び付けた。
俺は道具の重さも帳面に足した。
食料を一袋増やすより、その袋を確実に届けるための重さだった。
ハンスはしばらく黙り、やがて
「じゃあ、俺が先に道を見てくる」
と答えた。
俺たちの仕事は、誰か一人が頑張れば続くものではない。
疲れたら休めること、間違えたら別の人が気づけること。
俺は次の便の出発日を空欄にせず、確認する相手の名前を書き込んだ。
帳面の数字を数え直すと、予定の便に載せられない袋が見つかった。
食料の量だけでなく、運び手の人数、移動にかかった時間、次の便までに必要な費用。
セヴが帰路を迷わないよう、危険な分岐点を地図に赤く記した。
帰村した午後、俺たちは村長に谷の崩落を報告した。
ラトナに残す小麦と、明朝ベルクへ運ぶ分を、エナが別の紙に書き分けた。
「子供が三十七人いる。大人は食事を譲っている」
とセヴが言う。
村長は種麦の封印を確かめ、北の街から追加で買う費用を承認した。
その間にハンスは大工を呼び、割れかけた車輪の鉄輪を外した。
「補強だけじゃ足りん。荷を載せる前に交換する」
セヴは自分の空の荷車を見て、唇を噛んだ。
「俺が運べなかったから、谷では一人死んだ」
「明日も運べないようにするな」
とハンスは言った。
トトは崩落地点と山羊道の分岐を木札に描き、字を読めない人にも分かるよう赤い線を引いた。
俺はその札をセヴに見せた。
「明日の道案内は、あなたにしかできない。休んで、朝一緒に出よう」
セヴは札を握り、ようやく椅子に座った。
その夜、セヴは共同窯のそばで眠った。
眠りに落ちる直前、彼は俺の袖をつかんだ。
「帰れるんだよな」
「帰る道を探します。食料を届けるまで、途中で諦めません」
約束を口にした瞬間、その重さが胸に残った。
夜明け前、修理を終えた荷車の前にセヴが立った。
「荷を積む前に、話さなきゃならない」
彼は谷の病人の薬代を作るため、預かった麦を途中で売ったと告白した。
ハンスの拳が震えた。
「その麦を待っていた子もいたんだぞ」
「分かってる。だから谷へ戻れないと思った」
セヴは皺だらけの領収書を差し出した。
薬を受け取った病人の名前が、裏に小さく書かれていた。
俺は領収書と帳面を見比べた。
売られた分を無かったことにはできない。
ラトナの種麦を崩して穴埋めすることもできない。
「谷へ行く。ただし、ここに残る人の食料は動かさない。足りない分は北の街へ注文する」
エナが注文書を差し出した。
「ヨルンに渡しておいた。返事が来るまで追加の持ち出しは認めないよ」
セヴはうなずいたが、荷車の手綱には触れなかった。
「俺に案内を任せるのか」
ハンスは新しい車輪を一度だけ蹴って確かめた。
「お前が道を知ってる。だが荷の数は俺が数える。二人で運べ」
トトが昨日描いた分岐の札を掲げた。
「ぼくも道を覚えた。帰りは間違えない」
セヴはようやく手綱を握った。
空だった荷台に袋が載る。
重みで車輪が沈み、馬が一歩踏み出した。
セヴが谷へ戻る前、俺は彼に食料の到着予定を二通書いて渡した。
一通はマルタへ、もう一通は谷の広場へ掲げるためだ。
「明日必ず」
と書こうとして、手が止まる。
崩落した道をまだ完全には通していない。
俺は
「明朝、山羊道の安全を確認したあと出発。遅れたら使いを出す」
と書き直した。
セヴは紙を読んで唇を噛んだ。
「待つ奴らは怒るぞ」
「怒っていい。でも届かない約束で眠らせたくない」
彼は二通を懐に入れ、先行して山羊道を確認する仲間に、まず子供のいる家へ知らせるよう頼んだ。
セヴは荷車の底に残った空の麻袋を一枚拾った。
「これを持って帰ったら、また空かと怒鳴られる」
俺は袋に谷の家々の名を書き、何袋必要かを一軒ずつ確かめる欄を作った。
怒られるのが怖いから隠すのではなく、届かない理由と次の手順を持ち帰ってもらう。
谷で待つ母親が空袋を見たときの顔を、セヴは忘れられないと言った。
俺は袋の名簿を握る彼の手を見て、謝罪だけで終わらせず、次便の担当を自分で選んでもらった。
その紙を受け取ったセヴは、ようやく袋を荷台へ戻した。
「谷で待ってる子に、何て言えばいい」
俺は答えた。
「遅くなった理由を隠さずに話そう。それから、食べてもらおう」
坂を下る途中、セヴが小さく言った。
「次に困ったら、売る前に相談する」
山羊道の入口で、ハンスが荷車を止めた。
先へは車輪が通らない。
俺は荷台から、谷の病人と子供に先に渡すための少量の乾パンを取り出した。
ラトナ村の明日の分を減らさないよう、エナが別に用意したものだ。
セヴが一人で進もうとすると、トトが木札を差し出した。
赤い線の先には、落石の印がある。
俺とセヴは歩いて道を確かめ、危険な場所を避けて谷の入口まで降りた。
そこにいた三人の子供は、俺たちの空いた手を見て顔を伏せた。
「荷車はまだ通れない。でも、これは先に届けに来た」
俺が乾パンを差し出すと、一番年上の子は自分では食べず、小さな弟の手に載せた。
弟は欠片を口に入れ、何度も噛んでから兄の手へ半分を戻した。
セヴは二人の前にしゃがみ、
「遅れてごめん」
と言った。
子供たちは答えず、残ったパンを病気の母親へ持っていくため、布に包んだ。
谷の百二十人に必要な食料は、まだ向こう側にある。
明日の荷車のため、ハンスとセヴが山羊道の足場を確かめに戻った。
俺は子供たちに、母親の家まで付き添うか尋ねた。
兄は首を振った。
「僕が持っていく。弟が食べたって、母ちゃんに話すんだ」
弟は布の上の乾パンを落とさないよう両手で支えた。
兄弟は何度も振り返りながら谷の家並みへ走っていった。
セヴが足を止めた。
「空の荷車で帰ったときは、あの子たちの顔を見られなかった」
今日は、二人ともこちらを見て手を振っていた。




