第百六話 救援が届かない理由
ラトナ村へ戻ると、ミリが新しい地図を広げて待っていた。
「山の十四人の話、カイトから聞いたよ」
「名前は必要な人だけが知るようにしてくれ」
「分かってる。だけど、同じような空白がほかにもあるの」
地図には小さな丸が六つ付いていた。
廃坑の脇、冬だけ使う漁師の小屋、川の中州。
いずれも配達経路のすぐそばなのに、正式な届け先になっていない。
「本当に人がいるかは分からないよ」
ミリは言った。
「だから勝手に人数を書かなかった」
ミリは地図の端を指した。
「でも昨日、行商人が通った道のそばで、小さな靴が片方だけ見つかったの。持ち主が分からないから、まだ印は付けてない」
ミリは拾った靴を布に包んでトトへ渡した。
「調査の途中で持ち主が見つかったら、これを見せて確かめて」
俺は頷いた。
疑わしい空白を全部救援先にすれば、今度は存在しない相手へ食料を送ることになる。
カイトが御者たちを集めた。
「調べるのはいい。でも定期便を減らすな。いつもの配達を守る人と、確認に行く人を分けよう」
トトが地図の上に小石を置いた。
「まず近い二か所だけ。道が危なければ引き返す」
「俺も行く」
と言いかけた俺に、ミリが首を振った。
「タクトが行く場所ばかりじゃ、次の空白を見つけられないよ」
その言葉は少し痛かった。
だが、正しかった。
俺は確認票の書き方を手伝うことにした。
見つけた人数、今すぐ必要なもの、危険な道、連絡できる人。
名前は本人の了解を得るまで書かない。
最初の調査から戻ったトトは、意外な報告を持ってきた。
「川の中州には誰も住んでなかった。漁の時期だけ使う小屋だったよ」
「空振りか」
「ううん。誰もいないって分かった。次に便を出すとき、無駄に食料を積まなくて済む」
ミリが記録した。
調べて何も見つからないことも、役に立つ。
二つ目の廃坑の脇には、四人の石工が暮らしていた。
仕事が途絶え、家賃を払えず移ってきたという。
「食料は買える。でも店が遠い」
石工の代表は言った。
「配給はいらない。月に一度、豆を売りに来てくれればいい」
必要なのは無償の救援ではなく、普通に買える道だった。
一方、北の漁師小屋では別の問題が起きた。
冬だけ戻る家族が、前の住民票を失っていたのだ。
「去年は隣の村から分けてもらった。でも今年はその村も余裕がない」
調査員の報告には、子供の人数だけが書かれていた。
俺はすぐに食料を送ろうとしたが、カイトが止めた。
「船が出せる潮を確かめる。食料を積んで浜に置いても、波にさらわれたら終わりだ」
漁師の一人が、浜から安全な受け渡し場所を提案した。
地元の知恵がなければ、地図上の最短距離は役に立たない。
調査の三日目、廃坑からの帰り道でトトたちの前に、空の荷箱を引く少年が現れた。
「この先に人がいるって聞いた。食べ物を分けてもらえる?」
少年は廃坑の石工ではなく、谷を移動する行商人の手伝いだった。
少年の片足には靴がなかった。
トトはミリから預かった靴を布から取り出し、少年が履いている靴と縫い目を見比べた。
形も大きさも揃っていたが、念のため少年に尋ねた。
「それ、僕のだ。もう片方は坂の上で脱げた。戻ったら道が分からなくなって……」
少年は喉を鳴らした。
水を欲しがるのに、立ったまま飲もうとして器を落とした。
トトは無理に歩かせず、近くの木陰に座らせた。
「荷主を探す前に、君が倒れないようにしよう」
少年は頷いたが、すぐ顔を上げた。
「荷主のおじさん、崖の下へ探しに行ったんだ。僕を待ってると思う」
トトは一人で崖へ向かおうとする仲間を止め、詰所へ使いを出した。
遠回りの道を知る農家と一緒に、二手で安全な道だけを確認する。
待つ間、少年は何度も立ち上がりかけた。
「僕が迷わなければ」
「探す人が増えるより、ここで知らせを待とう」
トトは靴のない足を布で包み、少年の隣に座り続けた。
昨日から荷主とはぐれ、食べ物を買う金も持っていない。
調査票には『居住者なし』と書かれかけていた場所だった。
トトは一度紙を伏せ、少年に水を渡した。
「住んでいない人でも、今ここで困ってるなら、確かめる必要がある」
ただし、知らない道へ少年を追って走ることはしなかった。
近くの農家に連絡を頼み、行商人の荷主を探す間、少年を日陰で休ませた。
夕方、荷主が見つかった。
崖へ向かった荷主も、詰所の番人に呼び戻されていた。
少年は迎えに来た大人に抱きつき、声を上げて泣いた。
帰ってきたトトは調査票に『定住者なし/一時滞在者を保護/連絡済み』と書き加えた。
「空白に人が住んでるかだけじゃ、足りなかった」
ミリはその行を見て、地図の余白に小さく『通る人』と記した。
救援地点は住所だけで決められない。
道の途中で助けが必要になる人もいるのだ。
数日で、六つの丸のうち二つは無人、一つは買い物便の必要な場所、二つは緊急救援を要する場所、一つは立ち入り自体が危険だと分かった。
ミリは丸の色を変えた。
「同じ空白でも、全部違うんだね」
「違うから、聞かないと分からない」
俺は言った。
そこへ王都の監査官から照会が届いた。
新しい救援地点が増える理由を説明せよ、という。
俺は反射的に腹を立てかけた。
だが、架空の届け先を使った横流しを防ぐのも、救援を守る仕事だ。
「調査票と確認者の記録を送ろう。ただし、個人名は必要な範囲だけにする」
監査官との会議では、意見が割れた。
「登録のない人を調べるために、登録のない人の名簿を作るのは危険です」
ミリが言った。
「でも人数も分からなければ、荷を用意できない」
監査官が返す。
トトが一枚の紙を差し出した。
「場所と必要量だけを配達用に。本人の確認は、現地の立会人と役所が別に持つ。両方を突き合わせるのは、必要なときだけにできませんか」
監査官はしばらく黙り、試験運用を認めた。
「問題が出たら直す。成功したからといって、他の土地へそのまま押しつけないこと」
俺たちは同意した。
調査票を作るとき、俺たちは一つ失敗しかけた。
最初の案には『住民の名前』と大きな欄があり、名前を書かなければ次へ進めない形になっていた。
「これじゃ、山の人たちはまた怖がる」
ミリが言った。
「でも確認するためには必要だろう」
俺が返すと、彼女は首を振った。
「必要なときと、最初に聞いていいときは違うよ」
俺は紙を作り直した。
本人が望む連絡方法、急ぐ必要のあること、次に訪ねてもよい日。
名前は本人の了解を得て、必要な担当者だけが扱う欄へ移した。
廃坑の石工たちから、後日小さな注文が届いた。
豆二袋と塩、そして釘を少し。
釘は食料ではないので、俺の倉庫には入らない。
「普通の荷車で運ぼう」
カイトが言った。
「ついでに壊れた道具も預かれるか聞いてみる」
「ついでで仕事を増やしすぎるなよ」
俺が言うと、彼は笑った。
「昔のタクトに言われたくない」
石工たちは代金を払った。
食料を届けたからといって、全員を救援対象にする必要はなかった。
危険な崖の先を調べたいという若い御者が現れた。
「俺なら登れます」
「登れることと、帰れることは違う」
カイトは地図を閉じた。
「そこに誰かがいるか分からない。だからこそ、調査する側の命も数えよう」
若者は不満そうだったが、次の晴れ間まで待つことに同意した。
その場にいたトトが言った。
「待ってる間に、麓の人へ昔の道を聞いておくよ」
何もしないで待つのではなく、安全にできる準備を進める。
俺が教えたつもりだったことを、彼らはもう自分の言葉で話していた。
夜、俺は最初のラトナ村の帳面を取り出した。
四十七人と書いたページには、擦れた指の跡が残っている。
あのとき俺は、四十七人を数えれば救えると思いかけた。
実際には、広場に来られない人を見落とした。
今度の地図も、完璧にはならないだろう。
だからこそ『未確認』という欄を残す。
「知らないことを認めるのって、難しいな」
俺が呟くと、ミリは筆を置いた。
「でも、知らないって書いてあれば、次の人が調べられるよ」
俺はその欄に、次回の確認日を書き込んだ。
その夜、ミリは新しい地図を壁に掛けた。
「前の地図は、道があるところに線を引いてた。今度は、道がないところも見えるようにしたい」
「どう描く?」
「分からない場所には、分からないって書く」
俺は笑った。
知らないことを隠さない。
それは最初のラトナ村で、足りない食料を正直に告げたときと同じだった。
翌朝、空白の一つに小さな注記が増えた。
『調査保留・崖崩れのため接近禁止』
食料を届けない判断にも、理由と次に確かめる日付が必要だ。
俺たちは、まだ知らない人々のために、知らないことから仕事を始めた。
預かっていた靴は本人に返し、落とした場所を危険箇所として帳面に残した。
靴が一つ見つかっただけで、持ち主が無事だと決めつけなくてよかった。




