第百四話 名前のない者にパンはない
麓の役所から役人が来たのは、山道の仮修復が始まった三日後だった。
名はフェルト。
濡れた靴のまま高台へ登り、崩れた小屋を見て顔色を変えた。
「ここに住民がいるとは、正式には聞いていません」
ロウが笑った。
「三度も申請したぞ」
俺は間に入らず、ロウが保存していた受付控えを並べた。
フェルトは日付を確かめ、眉を寄せた。
「申請は受け付けています。ただ、土地の帰属が確定していない。住民登録と土地の使用許可は別の手続きです」
「別なら、片方だけでも進められないのか」
フェルトは即答しなかった。
「名前のない者には、公的な食料を渡せないのか」
俺が尋ねると、フェルトは首を振った。
「名前がないからではありません。誰に何を渡したか分からなければ、同じ荷を二度請求されても防げない。以前、架空の集落への横流しがありました」
「なら、実際に十三人いることは、あなた自身の目で確かめられる」
「それだけでは継続の予算が付かないのです」
フェルトの手は冷えていた。
役所の都合を話す彼も、山道を歩いてきた一人だった。
俺は帳面を閉じた。
「横流しを防ぐ仕組みは必要です。でも確認の間に食事を止めたら、確認する人がいなくなります」
フェルトは二つの帳簿を出した。
住民登録簿と救援物資の受払簿。
通常は同じ番号で結ばれるという。
「この番号がないと、支出を説明できません」
カイトが言った。
「なら、仮の救援地点番号を付けては? 人の名前を外へ出さずに、配った数量と立会人を記録する」
フェルトは考え込んだ。
「それだけでは誰が受け取ったか分からない」
ロウが低く言った。
「俺が立ち会う。十三人を知っている。もう一人、あんたが数えろ」
役人はロウを見た。
「あなたは住民代表として署名できますか」
「土地を追われる署名ならしない」
「その不安を解かないまま、署名だけ求めるのは違いますね」
フェルトは初めて、役所の机ではなく目の前の老人に向かって答えた。
午後、俺たちは麓の詰所で話し合った。
医師、役人、番人、ロウ、カイト、そして山の住民からオルナが同席した。
提案は三つ。
緊急救援の受領記録は人数と数量を中心に残す。
本人の名前は診療や登録に必要な範囲だけで扱い、閲覧者を限定する。
土地の問題は別に審査し、救援を受けたことだけを理由に退去を決めない。
フェルトは慎重に言った。
「私の判断だけで恒久的な居住を認めることはできません。上司への照会が必要です」
「それでいい。できないことまで約束しないでください」
俺が言うと、ロウは不満そうだった。
「また待てってことか」
「待つ間の食料は止めません」
カイトが答えた。
最初の試験配給は、その日の夕方に行われた。
詰所の倉庫から出した豆と麦を、二人の立会人が量る。
カイトが出発時刻を記録し、山ではロウとオルナが受け取りを確かめた。
ところが戻った伝票には、一袋多い数字が書かれていた。
「やっぱりごまかしだ」
フェルトの同行者が声を荒らげた。
俺は袋の数を数え直した。
出発時に一袋を二つに分け、運び手が持ちやすくしていた。
重量は一致している。
「袋の数だけでは足りない。重さも必要ですね」
フェルトは誤りを消さず、訂正の理由を書き添えた。
「疑うことと、決めつけることは違う。私も間違えました」
ロウは初めて、その言葉を黙って聞いた。
夜、ロウが俺を呼び止めた。
「名前を書けば、また奪われると思ってた。洪水のあと、俺たちは家も畑も失った。書類だけが残った連中に、ここには住めないと言われた」
「怖いのは当然です」
「だが、あの役人は数字が違うとき、俺たちを盗人と決めつけなかった」
ロウは受付控えを握った。
「明日、セラの子のことを聞いてみる。生まれてから困るんじゃ遅い」
俺は頷いた。
「セラ本人の気持ちも聞いてください」
ロウは少し笑った。
「お前、前より口を出さなくなったな」
「口を出していいところと、本人が決めるところが違うと、やっと分かってきたんです」
フェルトは山へ来る前、役所の机で何度も申請書を見直していたという。
「申請を受け取った職員が、故意に隠したわけではありません。境界が未確定で、次の担当へ送るたびに止まっていました」
「止まっていることを、誰も本人へ伝えなかった?」
「はい。それは役所の落ち度です」
彼は言い訳をしなかった。
「ただ、私がここで許可を出せば、隣の領地との争いになります。勝手に決めて後で取り消されれば、もっと傷つける」
ロウは顔をしかめたが、最後まで聞いた。
「なら、いつまでに誰が答えるのか書け」
フェルトは日付と照会先を記した。
結果を保証するのではなく、返答の期限を明らかにする紙だった。
山の人々も一枚岩ではなかった。
若い男は言った。
「名前を出してもいい。ここを追われるなら、別の仕事を探す」
オルナは首を振った。
「足の悪い人や子供は、そう簡単に動けない」
ロウが二人を止めた。
「俺の怖さを、全員の決まりにしていたのかもしれん」
その言葉に、俺は驚いた。
「代表でも、みんなの代わりに決められないことはあります」
「分かってる。今から聞く」
ロウは一人ずつ意見を確かめた。
全員が同じ答えではない。
それでも、救援を受けながら土地の問題を別に争う方針には、誰も反対しなかった。
試験配給の伝票が訂正された後、フェルトは同行者に言った。
「数字が合わないとき、まず現物を見よう。疑いだけで相手を罪人にするな」
同行者は小さく頷いた。
俺はロウに尋ねた。
「今日、何が一番変わりましたか」
「食料が来たことじゃない。間違えた役人が、俺たちの前で間違えたと言ったことだ」
フェルトは聞こえないふりをしたが、耳が少し赤かった。
その夕方、ロウは古い受付控えを新しい封筒に入れ直した。
捨てるためではなく、次の審査で自分の言葉を裏付けるために。
夜の詰所で、フェルトの上司から急使が来た。
『暫定番号の発行を見合わせよ。
無登録地点への支出は担当者の責任とする』
フェルトは文面を読み、机に置いた。
同行者が声を落とした。
「ここで署名すれば、あなたの職を失うかもしれません。照会の返事を待ちましょう」
「待っている間、あの山の人たちは何を食べる」
「それは……」
フェルトは窓の外の灯りを見た。
そこには、彼自身が量り直した麦の袋が積まれている。
「架空の村へ渡したのではない。私は十三人を見た。数量も確認した。もし私の記録が間違いなら、私が説明する」
彼は一度筆を置き、ロウを呼んだ。
「救援地点の仮番号を申請します。ただし、土地の権利を認めたことにはできません。それでも進めますか」
ロウは紙を確かめた。
「子供が食べたことを理由に、追い出さないと書いてあるな」
「救援記録を退去の根拠にはしない。私の権限で保証できるのはそこまでです」
「なら、俺も署名する」
二人の署名が並んだ。
フェルトは筆先を紙から離しても、しばらく手を引けなかった。
フェルトは上司への報告に、自分が現地を確認した日時と、責任者としての名を省かず書いた。
翌朝まで返事がなければ、職を失う可能性は消えない。
それでも、責任を取る相手を曖昧にしたまま、十三人を待たせることはしなかった。
翌朝、フェルトから返答が届いた。
緊急救援地点としての暫定登録は認められた。
ただし土地の使用権については、境界の調査が終わるまで結論を出さない。
ロウは紙を読み、長く息を吐いた。
それからフェルトの前に、昨日まで隠していた受理控えをそっと置いた。
「あんたが書いた名前は、今度は消させない」
フェルトは控えを押し返した。
「それは、あなたが持っていてください。私は役所にも同じ記録を残します」
フェルトは自分の控えを一枚、ロウの前で書き直した。
十三人の存在を確認した日付と、現地で食料を受け取れること、土地の審査は別に続くこと。
ロウが震える指でその紙を受け取ると、フェルトは深く頭を下げた。
「受理しただけで、届いたつもりになっていました。次は返事が途切れたら、私のところへ知らせてください」
ロウはすぐには許さなかった。
ただ紙を折らず、胸元にしまった。
「全部は解決してないな」
「はい。でも今日の食料を受け取るために、明日の住まいを賭けなくて済みます」
そのときセラのいる小屋から、オルナの声がした。
「誰か、医師を呼んで!」
俺たちは走った。
手続きが一つ進んだ朝、別の命の時間が動き始めていた。




