第百二話 食料を受け取れない人々
地鳴りはすぐに収まった。
だがロウは小屋の裏へ走り、斜面を見上げた。
「昨夜の雨で土が緩んでる。あの音は嫌な音だ」
カイトが地面に膝をつき、道の亀裂を確かめる。
俺はセラを小屋の椅子へ座らせた。
彼女は腹を押さえながら、首を振った。
「まだ生まれないと思う。昨日から張るだけ」
俺は医者ではない。
勝手に大丈夫だと決めつけず、麓の診療所へ知らせることにした。
「ここには十三人。大人が九人、子供が四人だ」
ロウがようやく人数を教えてくれた。
「名簿には書くなよ」
「今は人数だけ控えます。名前を記録する前に、使い道を説明します」
その約束を聞いても、ロウの肩は下がらなかった。
小屋の中の食料を確認すると、乾燥した根菜がわずかに残っていた。
山菜は採れるが、食べられるものを知る老人が熱を出している。
薪も少ない。
「食べ物を届けても、ここで調理できなければ意味がない」
俺は持参した柔らかいパンと飲み水を示した。
ロウは手を伸ばさない。
「受領の印を押したら、役所に居場所が分かる。前に別の集落がそうなった」
「では、今夜の食事として渡します。これは俺の手持ちで、配給の正式な受領にはしません。ただし、あとで帳簿には私費として残す。救援物資の数をごまかしたくない」
カイトも頷いた。
「定期便の荷を勝手に減らすことはしない」
ロウはようやく一つの器を受け取った。
四人の子供のうち、最も小さなニノはパンを半分だけ食べ、残りを袖に隠した。
「明日の分?」
俺が尋ねると、ニノは頷いた。
「明日も誰か来るって、前に言った人がいた。でも来なかった」
その人を責めるのは簡単だ。
だが山道が崩れれば、善意だけで人は越えられない。
「明日、俺が来ると約束する前に、道を調べる。来られないときは、麓から知らせを上げる方法を決めよう」
「知らせを聞いたら、お腹がいっぱいになる?」
「ならない。でも、いつ来るか分からず待つよりはいい」
ニノはパンを見つめたまま言った。
「じゃあ、来ない日も教えて」
俺はその言葉を帳面に書いた。
カイトは村の男たちと山道を見に行った。
戻ってきたとき、靴は泥だらけだった。
「西側は斜面が割れてる。荷を運ぶなら東の尾根だ。ただ、日暮れに歩く道じゃない」
ロウが古い地図を出した。
かつて炭を運んだ道が、岩陰を通って東へ延びている。
「ここに水場があったはずだ」
「今も使えるか、明日確かめる」
カイトは即答した。
俺が先回りして決める必要はなかった。
セラの母親代わりをしている女性、オルナが言った。
「道が見つかっても、役人が来たらどうするの」
その問いに答えられないまま食料を積み続ければ、恐怖まで運ぶことになる。
俺はロウと一緒に、これまでの役所とのやり取りを整理した。
最初の相談は洪水の直後。
二度目は冬の前。
三度目は去年の収穫期。
いずれも土地の所有を証明できず、申請を受け取ってもらえなかった。
「誰かが書類を捨てたのか?」
「分からん。控えはある」
ロウは布に包んだ紙を出した。
泥で汚れていたが、受付日付と担当者の署名が読めた。
「捨てられたわけじゃない。返答がないまま止まっている」
俺は勝手に役所を悪者にしないと決めた。
食料を配る責任と土地を認める責任は別なのだろう。
ただし、別だからといって命を待たせていい理由にはならない。
昼の食事が終わると、オルナが俺に古い鍋を見せた。
底に小さな穴があり、粥を煮ると水が少しずつ漏れる。
「火を強くすれば焦げる。弱くすれば煮える前に水がなくなる」
俺は倉庫から鍋を取り出そうとして、そこで止まった。
保存倉庫に入るのは食料と飲み水だけだ。
鍋は入らない。
「直せる人はいますか」
「昔はロウが直した。今は手が震える」
カイトが鍋の底を見て、麓の鍛冶屋へ修理を頼むと約束した。
約束したのは持ち帰ることだけで、いつ直るかは店に聞いてから知らせる。
ロウは子供たちの前で、救援の話をしたがらなかった。
「一度、パンが来ると教えてしまった。三日待っても来なかった。ニノは毎朝、道の角で座ってた」
「そのとき、誰も理由を知らせなかったんですね」
「そうだ。後から橋が壊れたと聞いた。でも子供には、約束を破られたことしか残らなかった」
俺は紙を一枚取り出した。
到着予定日と、来られない場合の連絡方法を書く欄を作る。
「食料がない日もあるかもしれない。だからこそ、分からないまま待たせないようにしたい」
ロウは紙を見て言った。
「字を読めない者もいる」
「なら、合図も必要ですね」
夕方、子供たちと小屋の外で合図を考えた。
危険なときは赤い布、安全なときは白い布。
だが霧が出れば色は見えない。
声が届く距離も限られる。
「煙なら見える?」
ニノが尋ねた。
「風向きで変わるし、火を使うなら安全も確かめないと」
カイトが答えた。
結局、その日は合図を決めきれなかった。
俺はそれを失敗だと思わなかった。
決まっていないことを決まったふりで運用する方が危ない。
「明日、麓の番人にも聞こう」
ニノは頷いた。
「ちゃんと聞いてから決めるんだね」
「そうだよ」
小さな約束だったが、今夜は守れる約束だった。
オルナはニノの靴を縫い直した。
糸は短く、何度も結び目を作る必要があった。
『これで明日も歩けるね』とニノが笑う。
食料のほかにも、暮らしをつなぐ仕事がある。
俺はその手つきを忘れないよう見ていた。
カイトは道の石を一つずつ確かめた。
急ぐためではなく、帰るときに迷わないためだった。
翌朝、カイトが東の尾根へ向かう前、セラが俺を呼び止めた。
「赤ん坊が生まれたら、この子はどこの子になるの?」
「あなたの子です」
「そういう意味じゃないの」
セラは苦笑した。
俺も自分の答えが足りないと分かった。
「この子の名前を、どこへ届ければいいの」
俺は返事ができなかった。
ロウが戸口に立っていた。
「十三人でいるうちは、見つからずに済む。十四人になったら、隠しきれないかもしれん」
夕方、麓の見張りが荷札を持って小屋へ上がってきた。
「配給記録に住所を書いてください。次の便を組めません」
ロウは差し出された鉛筆を受け取らず、戸を閉めかけた。
奥でニノが小さく咳をした。
オルナの手が、扉の留め金を握り締めた。
昨冬、配給の名簿を見せた家が立ち退きを告げられたことを、彼女はまだ忘れていなかった。
オルナは戸口に置かれた麦袋を見て、迷った末にそれを押し戻した。
「これを受け取って、今夜の寝床を失うくらいなら」
俺は袋を押し返さず、荷札を受け取った。
「住所の欄を空白にしたまま、詰所の受領番号で管理できるか確認します。今夜の食事は、俺が持ってきた分を先に使ってください」
見張りは困った顔をしたが、帳面を閉じた。
ニノがオルナの袖を引く。
「ぼく、食べていいの? 食べたら、ここを出ていくの?」
その一言に、オルナは目を伏せた。
彼女はパンを半分に割り、片方をニノへ渡そうとして、戸口の荷札を見て手を止めた。
俺は荷札を伏せて置いた。
「今ここで食べる分と、役所に出す記録は分けます」
オルナはようやくパンを渡した。
ニノは一口かじると、残りを背中に隠した。
「どうしてしまうの?」
「明日、追い出されたら持っていくから」
オルナは泣きそうな顔で、その小さな手を包んだ。
「今日は全部食べていい。明日のことは、大人が考える」
そう言い切った直後、彼女は俺を見た。
自分が守れるか分からない約束を、子供にしてしまったのだ。
俺は次の便が通れないときの連絡先を荷札の裏に書き、詰所の番人に渡した。
今夜の食事と明日の保証は別だ。
それでも、明日何が起きたか知らせる責任から逃げるつもりはなかった。
食料を拒むのは意地ではない。
子供に食べさせたい気持ちと、住まいを守りたい気持ちが、同じ手を反対に引いていた。
山風が戸を揺らした。
十三人が食料を拒んだ理由は、腹が減っていないからではない。
食べたことを知られると、帰る場所を失うかもしれないからだ。
俺はセラに言った。
「名前を届ける方法を探します。あなたたちがここで暮らせるかどうかとは、分けて考えられるように」
できると断言はしなかった。
だが調べるべきことは、ようやくはっきりした。




