第二章① 五人組
翌朝。船体を叩く微かな波音とともに、ルキフェルは目を覚ました。
夜明け前の薄明かりが船室の壁を青く照らしている。昨夜の酒はすでに抜け、頭は澄み切っていた。寝台から起き上がると、彼は静かに身支度を始めた。顔を洗い、髪をざっと梳かし、いつも通り長めの前髪で傷の顔を隠す。袖をまくり、しなやかな動きでシャツの裾を整えると、腰元でひときわ目立つ赤い布へと手を伸ばした。それは遠くから見れば赤いサッシュを巻いた海賊に見える、彼のための正装でもあった。ルキフェルはそれを解いて指先で布を滑らせながら広げ、最後にひと振りして机の上に放り投げた。
「……今日は必要ない」
布は柔らかな音を立てて机に沈む。その瞬間、ルキフェルの雰囲気は一般的な船乗りを装いつつも海賊団の頭脳へと切り替わった。ブーツの紐を結び直し、彼は船室の扉を押し開けた。
甲板に出ると、冷たい朝の風が肌を刺す。ユー島の入り江には濃い朝靄が垂れこめ、海面は鏡のように静まり返っていた。船員たちの気配がゆるりと動き始め、甲板では帆を下ろすための索が軋む音が響く。ルキフェルは船員の動きをすぐに見渡すと、声を張った。
「全員、持ち場につけ! 出航準備!」
甲板に緊張が走り、船員たちが次々と動き出す。
「錨、上げ! ……よし、帆を半分まで上げろ。風を掴め!」
クォーターマスターとしての声は朝靄の中で強く響いた。艫の方で錨鎖が揚がる音、帆布が広がる乾いた音、木材が軋む低音が積み重なり、やがて船がゆっくりと前へ滑り出す。追跡船が靄の中を割るようにして先にユー島を出ていった。彼らが囮となり、海軍の警戒を東へ引きつける。ルキフェルは片手で額をかざし、先を行く船影を見送った。
「さて、こっちはこっちで普通の船に見てもらわないとな」
フランソワと自分たちの乗るガレオン船を含め、残りの三隻は一定の距離をとりながら、ゆったりと入江から離れていく。漁船にも商船にも見える、目立たない速さ。朝靄の中で、まるで海面に溶けていくように。陽が昇り始めるころ、一隻のフリゲート船と三隻のガレオン船はユー島の湾を完全に離れ、それぞれが指定された航路へ散っていった。
それからの日々は静かで淡々としていて、恐ろしく効率的だった。フランソワ海賊団は、ユー島の入り組んだ海域を抜けると同時にひたすら海軍船を探し、見つけ次第、襲撃した。海面に白い船影が見えれば、そこからは仕事である。帆がはためき、潮風が甲板を走り抜ける中、フランソワの声が鋭く通る。
「マテオ、右舷、三度上げろ! 距離、四百五十!」
「了解、船長!」
マテオは普段の料理人の顔を捨てていた。砲手長としての彼は冷静で無表情で、迅速だ。
「一番砲、仰角そのまま。二番砲、気持ち落とせ……よし、そこで固定!」
彼の声に合わせ、砲手たちが一糸乱れず動く。
「合図で撃て……三、二、一!」
——豪ッ。空気が震え、黒煙が砲門から噴き出す。数呼吸後、海軍船の船腹に正確に砲弾がめり込み、白木片が爆発した。
「命中! 二番も直撃です!」
「当然だ。オレが狙ったんだから、外れるわけがない」
船員が叫ぶ横でマテオは淡々と答えた。狙えば必ず当てる。この男の異名は銃の腕前だけでなく、砲手長としての技量にもそのまま通用していた。
「続けて左へ回り込む! ニール、潮の流れは!」
「南寄り! 速度落とさず行けます!」
ニールは甲板の端で地図と海図儀を同時に操りながら手早く算出する。
「了解! ジャスパー、舵切るぞ!」
「任せとけ!!」
フランソワの叫びに応えてジャスパーが操舵輪を強く回すと、ガレオン船の巨体が嘘のように滑らかに横へ切れ込む。海軍船の砲撃が飛び交う中、船体はするりと死角へ潜り込み、敵の射線は空を裂くだけに終わった。フランソワは望遠鏡を覗いたままマテオに指示を出す。
「今だ、マテオ! 船尾へ撃ち込め!」
「了解!」
再び砲声が海を割った。船尾の舵輪付近に砲弾が突き刺さり、海軍船は操舵不能に陥る。そこまで来れば、もう仕留めるだけだった。数分後、相手の船は大きく傾き、波に飲まれ始める。フランソワは帽子を押さえ、風を切りながら淡々と告げた。
「よし、撤収。次を探す」
勝利の高揚も、血の匂いへの興奮もない。日課を終えた者のような、乾いた響きだった。こうしてまた一隻、海軍船が海の底へ沈む。そしてまた別の日。別の海域。別の海軍船。フランソワの判断は正確で、マテオの砲撃は外れず、ニールの航路判断は狂わず、ジャスパーの操舵は常に期待を上回った。熟練した船員たちの連携は、もはや海賊団というより精密な戦闘機械のようだった。フランソワ海賊団は、今日もまた海軍を海の底へ沈め続けていく。
昼の日差しが海面に反射し、甲板を白く染めていた。砲声が止んだばかりの空気には、まだ火薬と焦げ木の匂いが重たく残っている。ルキフェルは外套の裾を押さえながら、ゆっくりと甲板へ出た。周囲では船員たちが戦闘後の後処理に追われ、興奮冷めやらぬまま怒号と笑い声を飛び交わしている。その喧騒を横目に、ルキフェルは船尾へ向かった。舵輪のすぐ側。そこには、ニールとジャスパーが二人で座り込んでいた。二人とも背中を船壁に預け、ぐったりと肩を落としている。
「お疲れ」
ルキフェルが声をかけると、まずジャスパーが顔を上げた。
「ルキフェル~~……死ぬかと思った……。いや、マジで……。あの距離で砲撃すんの、心臓に悪いだろ……」
寝起きの犬のような声である。対してニールは、髪についた火薬の灰を払いながら小さく笑った。
「ジャスパーが暴れたから敵の舵が外れたんでしょうに。ほら、さっきフランソワ船長も褒めてたよ。今日もよく避けたって」
「今日“も”は余計だろ……。あれ毎回やってたら寿命が縮むんだぞ」
「はいはい。縮んだ分はマテオのご飯で伸ばしてください」
軽口を叩き合う二人に、ルキフェルはふっと笑みを漏らした。戦闘の余熱の中で、こういう瞬間だけは日常だった。
「今日もよくやったよ、お前ら」
ルキフェルが腰を下ろすと、ジャスパーが自慢気に胸を張った。
「だろ!? あんな海軍船、ちょろいちょろい。おれとニールがいれば絶対沈むもんな!」
「沈めるのはマテオの砲撃でしょ。僕らは避けてるだけだって」
「でもニール。お前の舵指示がなかったら、おれら沈んでたろ? 今日の潮の読み、なんかすげー冴えてたし」
「……まあ、あれは運がよかっただけだよ」
少し照れたようにニールが肩をすくめた。ルキフェルが空を見上げると、漂う硝煙の向こうに青がいくらか戻り始めている。
「こうして話してると、戦ってるのが嘘みたいだな」
「ほんとそれ……おれ、戦闘中の記憶あんまりねえわ。気付いたら舵輪回して、気付いたらフランソワに『当たるぞ』って怒鳴られて、気付いたら終わってた……」
「フランソワが怒鳴った覚えはないと思うけどなあ」
「いや言った! 『ジャスパー死ぬ気か!!』って!」
「ああ……それは俺も聞いたな。ジャスパー、本当に死ぬ走り方するから」
「してねえよ!!」
ジャスパーの抗議に、ニールが肩を震わせて笑う。甲板の騒音の中、その三人の声だけが妙に穏やかで、波の音に溶けていった時、甲板の向こうから重い足音が近づいてきた。火薬の匂いがまだ残る海風を割って、マテオが義手の左腕を大きく回しながら姿を見せる。
「おう、ずいぶん呑気じゃねえか、お前ら。オレはもう戦いたくねえってのに」
雑に言いながらも、どこか安堵したような声音だ。義手の関節をほぐす癖は、マテオが無事であることの証のようでもある。彼の一歩後ろにはコリンがいた。目を伏せたまま、持っていたバケツとブラシを片手ずつ握り、マテオの横をすり抜けると、黙って船尾デッキの汚れ落としを始めた。火薬の煤、血しぶき、焦げ跡。まだ十五の少年にはきつい作業だが、彼は弱音ひとつ吐かない。声をかけるべきか、ルキフェルは逡巡した。喉元まで言葉が込み上げてきたが、結局それを押し返すように唇を閉じる。今のコリンは静かに働きたいのだと思えたから。彼は少年の小さく固い背中を見つめるだけに留めた。
「……まあいい」
ルキフェルは視線を戻し、マテオに向き直る。
「安心しろ。ここから先は襲撃を控える。しばらく海軍の出没も減るはずだ。これから船はル・パレへ戻る。お前の役目は、司厨主だけ」
マテオは眉を上げ、鼻を鳴らした。
「ハッ、それを先に言えよ。オレは料理だけして生きていきてえんだ。砲を撃つのは性に合わねえ」
「嘘つけ。今日も一番楽しそうに砲撃してただろ」
ジャスパーの茶化すような声に、ニールまで苦笑いを漏らした。
「うるせえ。あれは仕事としてやってんだよ。好きでやってんじゃねえ」
マテオはそう言いながらも、どこか誇らしげに義手をもう一度回した。コリンのブラシが甲板を擦る音だけが規則的に響く。ニールがジャスパーとマテオの茶化し合いに手を止めさせ、両手を広げながら「まあまあ、落ち着いて」と宥めるとルキフェルに目を向けた。
「で、ル・パレに着いたらどうする?」
ルキフェルは一瞬考え、息を吐きながら「俺は船にいる」と答えかけたが、彼の声を遮るように、ジャスパーが弾んだ声で言った。
「呑みだ! たまには庶民の振りして酒場に行こう。港の奴らがおれたちをどう噂してるか、気になるだろ?」
マテオが腕を組んで口を挟む。
「だったらその赤髪、ちゃんと隠せよ」
ニールは眉をひそめ、口元に笑みを浮かべながら言った。
「いや、マテオに言われたくないでしょ。ちゃんと義手隠してよね」
ジャスパーは軽く肩をすくめて喚いた。
「わーってるよ! ニール、ちゃんと頭隠せよ」
ニールはゆっくりと腕組みを直し、やや得意げに言った。
「いや僕はむしろヨーロピアンとしては普通でしょ。金髪の人なんてどこにでもいるし」
マテオはにやりと笑い、肩を揺らしながらルキフェルに向かって言った。
「なあ、ルカもたまには行こうぜ」
ルキフェルは少し眉を寄せ、苦笑まじりに答える。
「俺はこの顔だからダメだ。目立つ」
ジャスパーが手をひらひらさせ、甲板上の海風に髪を揺らしながら言った。
「帽子とかその前髪で隠せばいいだろう。それと、夜に行けばいい。たまには羽目を外そうぜ」
ルキフェルはふと以前にも同じような誘いを受けたことを思い返した。心の片隅で少しだけ懐かしさがこみ上げるが、仲間の頼みは断りづらい。肩の力を抜いて「わかったよ」と一言返した。その流れで、マテオは掃除に精を出すコリンに視線を向けて手招きする。
「コリンも行くか?」
ルキフェルは思わず口を挟もうとした。
「いや、やめておいた方が——」
コリンは掃除の手を止めて背筋を伸ばし、ルキフェルを真っ直ぐ見据えて言った。
「行く」
ルキフェルは少しだけ息を飲んだ。普段は無言で黙々と働くコリンが、自らの意思で口を開いた瞬間、甲板上の空気がほんの少しだけ変わったように感じられた。
夜の港町は灯りがまばらに揺れ、石畳に反射する橙色の街灯が湿った空気をほんのり照らしている。五人組は人目を避けるように背を丸め、庶民の服装で通りを歩いた。ルキフェルは黒い外套を深く肩までかけ、帽子で顔を隠して静かに前髪で目元を覆い、いつもと違う庶民的な雰囲気を演出している。酒場の扉を押すと、木の床を踏む足音と、ざわめき、笑い声が混ざった空気が流れ込んできた。中には港町の漁師、荷役人、倉庫番たちが酒を片手に談笑している。その中に、フランソワの名が飛び交う声がいくつも混じっていた。
「聞いたか、あの大海賊フランソワがまた海軍を沈めたってさ!」
「こないだも俺らの近くで船をひっくり返したって話だ」
「まったく、海の上じゃ手も足も出ないんだな」
ルキフェルは酒場の隅に座り、耳をすませるだけで民衆の恐れと興奮が同時に混じる空気を感じた。コリンは黙々とジョッキを手に取り、二人の間で背筋を伸ばす。ジャスパーは思わず笑みを漏らして小声で言った。
「やっぱりみんなフランソワのこと、大海賊って呼ぶだけあるな」
ルキフェルはその光景をじっと見つめていた。噂に煽られ、民衆が勝手に恐怖と興奮を膨らませる。これが自分たちの狙いであり、手腕の証明でもあると心の中で確認する。マテオが肩をすくめて呟いた。
「海軍の上層部も黙ってられないだろうな」
ニールは無言で頷き、ジョッキを軽く揺らす。ルキフェルは目を細め、周囲の視線を避けつつ思った。これが、フランソワ海賊団の影響力だ。大海賊の名は、民衆の心にまで届いている。ルキフェルたちのテーブルに、店主が追加の酒瓶を二本抱えてやってきた。木製のトレイの上で瓶が軽く鳴る音が、ざわめきの中でもはっきりと響く。店主は五人を見下ろしながら粗野に笑った。
「あんたら見ない顔だけど、船乗りさんかい?」
ルキフェルは帽子のつばを少し下げ、表情をほとんど変えずに頷く。ジャスパーとマテオは軽く笑い、コリンは黙ってジョッキを押さえたまま目だけで店主を見返すと、ニールが爽やかに応じた。
「そうだよ。ただ近頃はフランソワが暴れてるので、なかなか船を出しづらくてね」
店主は「なるほど」と納得した様子で頷き、酒瓶をテーブルに置いた。民衆の会話はすぐに波紋のように広がり、酒場内の誰もがフランソワの噂を重ね合わせ、時に眉をひそめ、時に興奮して声を張り上げる。「あいつを捕まえろ!」と叫ぶ者もいれば、「いや、逃げられるさ」と息を弾ませて話す者もいる。
「聞いたか? フランソワがまた一隻、海軍の船を沈めたらしいぞ」
「沈めたって……ほんとかい? 聞いた話じゃ、もう三隻目だって」
「三隻どころじゃないってさ。噂じゃ五隻目だとか」
「いやいや、もっとすごいらしいぞ。海軍の旗まで全部剥ぎ取ったって」
真偽はともかく誰もが互いの話に耳を傾け、口を重ねるごとに数字は増え、内容はより鮮烈に変化していく。
「それにしても、あの赤髪の船長だろ? 噂じゃ、夜でも一人で船を操れるとか」
「いやいや、あの船団の奴らはみんな手練れだってさ。帆の操作も砲撃も完璧で、海軍が追いつけないんだって」
海賊の残虐さや勝利譚、勇猛さに関する話がまるで伝説のように混ざり合い、真実とはかけ離れた物語にまで変化していた。
「聞いたか? フランソワの船には義手の砲手がいるってさ。撃ったら絶対当たるんだって!」
「義手!? そんな……そいつ、もう人間じゃねぇな」
「いやいや。さらに噂じゃ、赤髪の船長は夜でも一人で敵を翻弄できるらしいぞ」
酒場の窓から漏れた声は通りへと響き渡る。外に出れば通りを行き交う人々は既に酒場の噂を耳にし、口々に言葉を反芻しながら、噂はより誇張され、曲解されて広がっていく。ルキフェルは静かに唇を噛んで呟いた。
「……まずいな」
マテオがすぐ隣で同意するように頷き、ジャスパーが少し戸惑いながら口を開いた。
「赤髪って、おれのことだよな?」
ニールは眉をひそめながら答える。
「うん。断片的だし噂もめちゃくちゃだけど、マテオの義手まで知られてるなんて」
コリンは「帰ろう」とだけ言った。ルキフェルは肩を落とし、頷く。
「そうだな。もうここにはいられない」
大人四人はそれぞれ手にしたジョッキに酒を均等に注ぎ、一気に煽ってから机に置くと音を立てずに立ち上がった。酒場の喧騒を背に五人組は勘定を済ませると、そそくさと通りを抜けて自分たちの船へと戻っていく。




