第一章⑤ ルキフェル
ガスコーニュ湾、ユー島の入り組んだ入江。
その静かな水面に、四つの船影が揺れていた。灯りがともる甲板の上で、船の存在に気づく者は地元の漁師ですらまずいないだろう。フランソワ海賊団は、トルチュ島に帰還するたびに船を取り替えている。特定の船を持たず、来るたびに別の船で現れる、まさに敵の目を欺く術を心得た者たちの流儀である。甲板上では柔らかなランタンの光に照らされ、六つの影が輪を作っていた。ジョッキを手に、互いの杯をぶつけ合う音が波のさざめきに溶けて広がる。
「乾杯」
声の主はフランソワ・ノワール船長。鋭い目に笑みを湛え、今日の襲撃の成功を仲間たちと分かち合っていた。船長の隣には、クォーターマスターのルキフェルが控え、指示を出す緊張感を脱ぎ捨てた表情で自由に笑っている。
その周囲には、頼れる仲間たち。ジャスパーは軽口を叩きながらジョッキを煽り、マテオは片手で甲板の手すりに寄りかかり、風に髪を揺らしながら笑い声を上げる。ニールは静かに笑みを湛えて勝利の余韻に浸っていた。そして、コリン。彼の手元には、一風変わった飲み物が注がれたジョッキ。普段は冷静沈着な彼だが、ジョッキにはザウアークラフトを飲み物に変えた船団独自の一杯が入っていた。味はともかく仲間たちと肩を並べる姿が、今は誰よりも楽しげだった。甲板の端で、夜風が海面の匂いを運ぶ。波の揺れに合わせて船がゆらりと揺れ、ランタンの光が波紋を描く。
まるでこの世界は、今だけ海賊たちのため息を潜めているかのようだった。
フランソワはジョッキを掲げ、皆の顔を順に見渡す。
「今日もよくやった。俺たちは海の王者だ!」
仲間たちは一斉に笑い声を上げ、ジョッキを高く突き上げる。乾杯の音は波に反響し、夜の海に溶けていった。ルキフェルはジョッキを半分ほど空けたところで、ふとコリンの方へ視線を向ける。
「コリン。さっき言ってた帆の修繕、そろそろやってくれよ。明日の進路変更で必要になる」
コリンは、ぼんやりと海風の方を向いたまま返す。
「とっくに終わらせた」
コリンの声に刺々しさはないが、距離だけがあった。彼は視線すら向けず、手の中のジョッキを持ち直すと、琥珀色の液体——正確には液化したザウアークラフト——をちびちびと飲み始める。ルキフェルはほんの一瞬だけ言葉を失った。無視されたわけではない。怒っているわけでもない。それでも、どこか壁のようなものを感じる。
——また、そっけない。
ルキフェルの胸の奥に小さな寂しさが沈んだ。以前のコリンはもっと喋った。もっと目を合わせた。もっと笑った。今だって仲間であることに変わりはないのだろうが、仲間と心の距離が必ずしも同じではないことを、ルキフェルは意識せざるを得なかった。ジャスパーやニールの笑い声は遠く、マテオがどこかで椅子をきしませる音だけが甲板に響く。宴の温かさが、ほんの少しだけ遠のいた気がした。
「あー……眠い……」
ジャスパーが大きな欠伸をしながらジョッキを置いたのを合図に、自然と宴はお開きとなった。マテオが立ち上がり、軽く手を叩いてまとめる。
「ニール、コリン。酒瓶とジョッキ、全部ギャレーに運んでくれ。割るなよ」
「はーいっと」
「……了解」
ニールは少しふらつきながらも明るく返事をし、コリンは相変わらず素っ気ない返答だけ残して、二人で階段を降りていった。続いてマテオは、椅子にもたれかかって舟を漕ぎ始めたジャスパーの肩をつつく。
「おい、寝るなら下で寝ろ。どれだけ酔っても甲板で寝たら船長に怒られるぞ」
「へいへい……分かったよ……」
ジャスパーはふらふらと立ち上がり、マテオに半ば支えられながら階段を降りてゆく。ルキフェルは肘を膝に置いたまま深く顔を伏せていた。彼の背に誰かが影を落とす。
「……浮かない顔だな」
ルキフェルが顔を上げると、フランソワが無言で隣に腰を下ろしてきた。酒瓶を片手に持ち、もう片方の肘を軽く木箱につく。いつもの飄々とした笑みではなく、年長者らしい目つきをしていた。
「……別に」
「はは。見れば分かるさ」
フランソワは夜の海に視線を向け、短く言った。
「コリンのことだろう」
ルキフェルの喉が一瞬だけわずかに動く。否定しようとした彼の気配を察したように、フランソワは続けた。
「気に病むことはない。あの年頃の子にはよくあることだ」
フランソワは笑い、ルキフェルの肩を指先で軽く叩く。
「ルキフェル。お前もそんな時期あっただろう?」
揶揄いでも叱責でもなく、長く一緒に航海してきた親が子にかけるような柔らかさ。ルキフェルはほろ酔いの余韻と共に吐息をこぼした。フランソワは彼の横顔を一瞥し、酒瓶を軽く振って中身がもう残っていないことを確認すると肩をすくめる。
「なんというか……今ならフランソワの気持ちが分かるな」
ぽつりと零れたルキフェルの声は、夜風に溶けてしまいそうなほど弱かった。フランソワは片眉を上げる。
「ほう? 珍しいじゃないか。お前が俺に共感の言葉なんて」
「いや、本当に……」
ルキフェルは苦笑し、天に広がる闇を見上げた。
「今まで無邪気だった奴に冷たい態度を取られると……あいつと同じ歳の頃、俺も同じようなことしてたなって。思えば、フランソワとヨシマサにだいぶ迷惑かけてた」
ルキフェルの自嘲に、フランソワは声を立てずに笑った。否定も肯定もしないのは彼らしい。ルキフェルは続ける。
「でもそれが……大人になるってことなんだろうな。寂しくもあり、嬉しくもある」
フランソワの表情にわずかな陰りが走るが、すぐに口元を緩め、むしろ誇らしげにルキフェルの肩に手を置いた。
「そうだとも。あいつは育ってる。お前もな」
遠くで波が岩肌を叩く音がした。ルキフェルは少し躊躇うように唇を引き結び、やがてぽつりと漏らす。
「コリンとどう向き合えばいいのか、わからない」
フランソワはしばらく黙っていた。彼の横顔には、幾多の海を渡った男の静かな思慮が宿っている。
「向き合い方なんて、決まった形はないさ。一つ言えるのは、焦るなってことだ。あいつは今、自分の殻を作っている最中だよ。誰だって、そういう時期がある」
ルキフェルが俯くと、フランソワは息を吐いて続ける。
「見守るだけでいい。そのうち、想いは届く。……なかなか届かないこともあるかもしれないが。無理に世話を焼く必要はないんだよ。コリンはもう十五だろう? あいつの生き方は、あいつ自身が決める」
ルキフェルはフランソワの言葉を噛みしめるように頷いた。見守るだけでいい。簡単なようで、難しい。それでも、フランソワが言うならきっとそれが最善だろう。
「……ありがとう、フランソワ」
ルキフェルは少しだけ顔を上げた。灯りの影に隠れて表情はよく見えないが、声音にはわずかな安堵が混じっている。フランソワはふっと笑った。
「心配するな。あいつがお前を慕ってるのは、海の上の誰より明白だよ。今は少し距離を取ってるだけさ。風向きが変われば、また寄ってくる」
「……そうだといいけど」
「そうなるさ」
船尾でゆらゆらと灯るランタンの光が、夜の海を照らしている。ルキフェルは深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。
「……よし。明日も早いし、俺もそろそろ寝るよ」
「そうしな。明日は帆の点検と物資の確認もある。疲れを残してちゃ動けないぞ、クォーターマスターさん」
「はいはい」
ルキフェルは木箱から立ち上がり、ゆるく伸びをした。痛む腰に手を当てながら、階段の方へ歩いていく。彼の背後で、フランソワがぼそりと呟いた。
「……本当に、あいつらは大人になっていくんだな」
フランソワの声はルキフェルには届かなかったが、夜の海だけは聞いていた。
船室に戻ると、潮気を含んだ木の匂いがふっと鼻をかすめる。灯りをともすと、狭い室内に柔らかな光が広がった。壁にかけてある剣帯が揺れ、吊るされたカットラスがちらりと反射した。
ルキフェルは近づき、刃の一部に薄く積もった埃を指でそっと払う。太極拳は毎朝欠かさない。だが剣を取ることは、もう随分と遠ざかっていた。
二十五になっても、フランソワの意向で表立った戦闘には出ていない。船を守るためと分かっていても、剣を握れぬ日々にはいつだってわずかな苦味が残る。彼は眉間に小さく皺を寄せたが、視線を机へ移した時、その皺はゆっくりと緩んだ。海図の端に転がる羽ペンがまるで己の役目を示すように横たわっていた。
「……いいさ。俺の役割は影だ」
ルキフェルが羽ペンを指先で軽く弾くと、木の机に小さく音を立てて転がった。
「それより……」
ルキフェルは椅子を引き、腰掛けながら深く息をついた。
「これだけ派手に海軍を襲ったんだ。向こうだって、うちの船員の素性くらい調べてくるだろう。あいつらの目を潜り抜ける手段……探らないと」
頭の中に海軍の鋭い視線がよぎる。こちらも手を抜けば、生き残れない。それは何度も思い知らされてきた。だが、今はもう考えを詰め込みすぎている。
「……やめだ。酔いが残ってたら、明日頭が回らない」
ルキフェルは立ち上がり、灯りを消すと寝台へ潜り込んだ。揺れる船のリズムが身体の奥にやわらかく伝わってくる。まぶたが自然と落ちる。今日の喧噪が遠のき、ひとつ深い息を吐いて眠りへと沈んでいった。




