表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
報復の航路 【第二作 ルー・ブレス】3・4巻「覚醒編」  作者: セキユズル
第一章「……我ながら、極めて簡単な作戦だったな」
7/67

第一章④ アントワーヌがマクシムになるまで

 ブレスト城を後にしたマクシムとシャルルは、海沿いの石畳をゆっくりと歩いていた。沈みゆく陽が水平線に赤い筋を引き、海はその光を飲み込むように揺れている。潮風が二人の軍服をはらい、しばし言葉はなかった。マクシムの胸の奥には、ひとりの男の面影が静かに浮かんでいた。


 ゼフィランサス。

 陽光を吸い込んだような黄金色の瞳。威厳に満ちた風貌の、その奥に隠れていた柔らかな優しさ。あの男に出会った幼き日、マクシムはただ圧倒された。恐怖でも畏怖でもない。魂を震わされる感覚。ゼフィランサスはあの日、マクシムをエル・イエロ島に置いていった。そして、そのまま帰らぬ人となった。


 二月十八日——《双星の海戦》。


 あの日を忘れられるはずがない。遅れて島に届いた訃報。多民族の仲間たちは皆、深い悲しみに沈み、そして憤怒を吐き出していた。フランス海軍への恨み、嘆き、叫び。その中心に飛び込むことのできなかった自分は、テントの隅でその声を聞いていた。師を失った痛み。奪われた怒り。けれどそれ以上に、仲間たちが泣き叫ぶ姿が、幼いマクシムの胸に焼きついた。


 ——こんな悲しみを、二度と味わわせたくない。


 その想いが彼の原点となった。



 マクシムの横から声が飛んでくる。


「どうした?」


 シャルルだった。普段の軽やかさとは違う、年上らしい静かな声音。彼にしては珍しい、心底気遣うような眼差しだった。マクシムは小さく首を振る。


「……なんでもありません。ただ……ゼフィランサスを思い出しただけです」


 マクシムの言葉に、シャルルは一度だけ目を細めた。夕陽に照らされたオレンジの髪を揺らしながら、ぽつりと呟く。


「——大海賊ゼフィランサス。もう十八年になるか」


 シャルルは横目でマクシムをみや。陽が傾き、彼の髪が赤く燃えるように思えた。


「師を失った悲しさは……今でも君の原動力なのかい?」


 マクシムは答えなかった。返すべき言葉が、胸の中で絡まり、喉まで届かない。彼自身、まだ迷っていた。何が“原動力”で、何が“復讐”なのか。足元の波が石畳を濡らしたとき、ようやくマクシムは口を開く。


「……島の民にとって、ゼフィランサスは“家族”の一人でした」


 マクシムの目は、遠い海の向こうを見ていた。


「島のみんなのために、食糧も、必要な物資も……あの人は自分で集めてきたそうです。どんな方法を使ってでも。僕らのために。あの日……僕は見ているだけで、島のみんなに何もできなかった」


 幼い自分の無力さ。家族を奪われた民の悲鳴。焼きつくような悔しさが今も消えない。


「せめて、みんなの怨みは晴らしてあげたい」


 マクシムは小さく拳を握る。次に続いた言葉は、長い年月抱えてきた孤独の告白のようだった。


「島の中では、僕だけがフランス人です。この復讐は……僕にしかできないことなんです」


 海風が二人のあいだを抜け、髪を乱した。マクシムは反射的に手を伸ばし、額にかかる髪を押さえる。その拍子に、左耳から煤けて黒ずんだ小さな石のイヤリングが夕陽にきらめいた。ゼフィランサスの、数少ない遺品。シャルルがわずかに目を向けるが、マクシムは気づかぬふりで海の方へ視線を固定した。


 あの訃報が島に届いてしばらくして、《双星の海戦》を奇跡のように生き延びた者がひとり、エル・イエロに帰還した。


 ——アラン・クロード。


 かつてゼフィランサスの右腕と呼ばれた海賊だ。アランは島に集まった民に、ゼフィランサスの最期を語った。彼の表情、言葉、そして遺言。耳飾りと共に託されたものは、島の空気を一変させるほどの痛みと誇りだった。アランはその後、島を後にした。どこへ向かったのかは誰も知らない。

 ただ、アランが「いつも島を指す銀の羅針盤」を持っていたことだけが一つの答えのように残った。


 ——いつか戻る気だったのだろう。


 だが、そのいつかはとうとう訪れなかった。イヤリングは、レオン・マルヴォワの手で大事に保管された。アントワーヌ少年。かつてのマクシムはレオンと、レオンの連れ合いの三人で深い悲しみを共有しながら暮らした。そんな折り、異国の商人リー・ウェンがエル・イエロ島に寄港した。文化も言葉も違うはずなのに、アントワーヌとリーはなぜかすぐに打ち解けた。


 ——フランスへ行こう。ゼフィランサスの仇を討たなければ。


 その決意は、アントワーヌの胸を刺した。奪われたなら、奪い返す。ゼフィランサスを殺した海軍の頂点、そして海軍の象徴。大元帥エリオット・レオパードを討つ。たとえ……幼馴染の、実父だったとしても。——ラウルはあの夜に死んだ。彼は違う人間として、自分の人生を送っていることだろう。それならエリオットが死んでも、その死を嘆く者はいない。レオンは泣いて止めたが、十三歳の少年の決意は揺らがなかった。


 「レオン。これは僕がやるべきことなんだ」


 形見のイヤリングを身につけ、島を出たアントワーヌはリーと共に旅をし、こっそり裏社会に潜り、偽造の経歴書と身元証明書を手に入れる。リー・ウェンの元で日銭を稼ぎながら、彼は自分で道を切り開いた。ただひたすら復讐のために。

 そして十五歳、少年は海軍士官学校の門を叩く。すべての書類に記された名はひとつ。


 ——マクシミリアン・ブーケ。


 ゼフィランサスが愛した島を守り、奪われたものを取り戻すために、アントワーヌは自らの名前さえ捨てたのだ。



「形見か」


 シャルルが眉をひそめて静かに問いかける。


「よくバレないな。意外と、軍の人間は装飾に興味ないらしい」

 

 シャルルの鮮やかなオレンジの髪が夕陽に揺れる。前髪を払ったマクシムが顔を上げた。


「いえ、あなた」


 彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、容赦なく刺すような声音で続ける。


「そのオレンジの輝きの前では、そもそも誰がアクセサリーを着けていても霞みます。もはや規律どうこう以前の問題ですよ」


 マクシムはさらに柔らかい笑顔で追い打ちをかけた。


「軍の装飾規定は『華美でなければ許可』という曖昧なものですからね。結果、皆それぞれ好き勝手に……多少、緩みすぎている感はありますが。まあ、あなた以上に目立つ者は存在しないので問題になることもありません」

「いや、それただの遠回しな暴言だよね?」

「いえ、事実です」


 マクシムは丁寧に否定し、まるで珍しい標本でも観察するようにシャルルの髪を見つめた。


「それにしても、この軍の服装規定というものは……正直言って随分と緩いものです。上官の命令で目立たぬように色や装飾を制限する規則もあるにはある。けれど、実際には誰も気にしない。結局のところ、軍人たちは見た目より任務で動くのが常ですからね。……まあ、あなたほど目立つ人間がいると規律なんて形だけに過ぎませんが」


 吐き捨てるように言う彼の毒舌に、シャルルはくすりと笑いを漏らす。マクシムは風に揺れる自分の髪を押さえながら呟いた。


「まあ、僕も規律を忠実に守ってない人間ですけどね。何年経っても失踪癖は治らない」


 マクシムの視界の端に夕陽が沈む海を捉えながら、思わず過去の記憶に沈む。



 三年前。自分の手で葬ったあの男、ベルナルド・シルバも同じく失踪癖を抱えていたことを思い出す。マクシムは当時の記憶に身を固くし、あの日の感覚を鮮やかに呼び覚ます。サン・マロの港、荒れる波の音、そしてベルナルドの諦めたような笑み。彼の命を奪った瞬間、自分の内側で何かが変わった。人でなくなった感覚。理性の奥に潜む闇が、初めて自由に広がった瞬間だった。そして、あの時の声が、今も頭の中にこびりついて離れない。


「悪魔め」


 波の音と風の匂いの中で、耳の奥に残るその言葉が過去と現在を静かに繋げていた。



 二人は波の香る海沿いの道を、言葉少なに歩き続ける。その中で、シャルルがふと口を開く。


「それにしても、今日の民衆は恐ろしかったな。あれだけ騒いだのに、もう静まっている」


 マクシムは淡々と答えた。


「煽ったのは僕たちです。あなたの提案でね」


 彼は続けて、声を低くして言葉を紡ぐ。


「けれど、人の心がこんなにも簡単に動くものとは思わなかったです」


 街の人々は夕暮れの雑踏に紛れ、疲れた足取りで家路につく者もいれば、まだ市場や港で立ち止まり、沈黙の中で囁きあう者もいた。だが、先ほどの騒動の余波は、街の空気に微かな緊張を残していた。誰もが何かを恐れ、何かを期待しているような、妙に張り詰めた空気。マクシムはその様子を観察しながら呟く。


「街は落ち着いているようで、まだ熱を帯びている。昨日までの静けさとはまるで違います」


 シャルルは肩越しに街を見やり、にやりと笑うような表情を浮かべた。


「噂の力は恐ろしいものだ。ほんの一声で、人の心はああも動く」


 マクシムは拳を軽く握り、風に靡く髪を押さえる。


「民の力は、海軍がいくら整えても制御できない。いや、むしろ整えていない方がいいのかもしれません」


 道を進むにつれ、街角に立つ影のような人物たちの視線が二人に向けられる。扉の隙間からは小さな子どもが顔を覗かせ、大人は二人の姿をちらりと見て、また足早に去っていく。無言の注目、それだけで緊張が再び皮膚の奥に染み渡る。


「あの群衆の様子を見て戦慄したのは、初めて海賊たちの処刑を見た時以来です」


 マクシムの脳裏には、トゥーロンの広場の光景が鮮明に蘇った。

 押し寄せる民衆の中で、首を吊るされた海賊たち。悪の象徴とされた者たちが断罪され、群衆は罵詈雑言と熱狂の声をあげ、正義を謳い、讃えていた。初めて目にした光景はマクシムに吐き気を催させ、何日も夜の眠りを奪った。善悪を白黒で区別する国王陛下の理想。その恐ろしさを彼はあの日、肌で知ったのだった。ゼフィランサスが殺されたとき、民衆も同じように熱狂したのだろうか。その思いが胸を過る。

 マクシムはゆっくりとシャルルの横顔を見上げ、問いかけるように言った。


「僕たち、何と戦ってるんでしょう。分からなくなるんです。どうしようもないほどに」


 シャルルは答えず、遠くに姿を表す石造りの建物に目を向けた。


「そろそろ宿舎だ。メリッサの料理が待ってる」


 マクシムの心の奥底に、ほのかな安心感が流れ込んだ。メリッサの料理の腕を思い出すだけで胸のわずかな重みが和らぐが、その安堵の下にはまだ先に待つ暗い影が潜んでいることを彼はひそかに感じていた。宿舎に着くと夕陽はついに海の彼方に沈み、街はオレンジから深い紺へと移ろうとしていた。街灯もまばらに灯り、影が石畳の隙間で伸び、形を歪ませ、風が再び髪を揺らし、耳元で海の匂いを運ぶ。街の静けさと民衆の心の熱さの対比が二人の胸に重くのしかかった。



 食堂では少し早めの夕食が行われていた。皆、メリッサの鶏肉料理に顔を綻ばせて今日の作戦について日常会話の延長線上に振り返っていた。やがて、シャルルとマクシムが食堂に足を踏み入れるとメリッサが温かく迎えた。


「はい、鶏の蒸し焼きです!」


 メリッサは、マクシムとシャルルが席に着いたところで二人の前に皿を並べた。


「どうでした? 参謀部、動きましたか!?」


 シャルルは湯気で曇る片眼鏡を外しながら柔かに笑った。


「あの人たち、震えていましたよ。近々、我々にも動きがあると思います」


 その途端、メリッサは顔を輝かせる。


「本当ですか!? 私たちの演技、水の泡にならずに済むんですね!」


 少し離れたテーブルからリラが咳払いして「でないと、演技をした意味がない」とぼやき、ロザリーが「まあまあ」とどこか弄るような声音で慰めた。同じテーブルで、サミュエルはワイングラスの中の赤に見惚れながら、その赤と同じ顔色で口を開く。


「けど、あの民衆の騒ぎは美しくなかったね」


 彼の発言に空気が凍りつく。誰もが押し黙る中、おかわりの催促のため、空の皿を持って彷徨いていたペネロペが食堂を見回して首を傾げた。


「あれ。グウェナエルさん、どこ?」


 食堂内で誰もが「あ」と声を上げた。マクシムは口元に運ぼうとしたフォークの動きを止めた。鶏肉が野菜のクッションの上に溢れ落ちる。


「そういえば、珍しく居ませんね。ダヴィットもマルセロもいないですが。彼ら、どうしているんですか」


 その時、食堂の隅で慎ましく食べていたアニータが、テーブルに肘をつけて溜息を吐いた。


「医務室」

「え?」

「寝てます」


 アニータの言葉に誰もが納得したように天を仰ぎ、シャルルだけが深刻そうに首を傾げて口を開いた。


「いったい、なぜ?」

「今回の作戦、一番の犠牲者だから」


 アニータがシャルルをじとりと睨み、マクシムは心の中で何度も地面に頭を擦り付けていた。


 ——一方、医務室。


「……」


 グウェナエルはうつ伏せで寝台の布団に顔を埋めて撃沈していた。頭が痛い、気持ち悪い。鈍痛が身体を蝕んでくる。どんな怪我でも一瞬にして塞がる特異体質の彼でも、内側からの暴力には耐えられないらしい。寝台のサイドテーブル上には幾つかの桶が臨戦体制に入っている。


「……これは、暫くメリッサのお粥案件かな」


 ため息を吐くマルセロの横で、ダヴィットは自身の肩周りに蔓延る筋肉の強張りに思わず苦笑した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ