第一章③ マクシム隊、民衆煽動作戦
昼下がりの市場はいつもの喧騒と潮の匂いに包まれていた。
魚屋の威勢のいい声、野菜を並べる音、道を行き交う人々のざわめき。
その真ん中に、突如メリッサが勢いよく飛び込んできた。買い物カゴをぶんぶん揺らし、まるで舞台に躍り出る役者のように腕を広げる。
「ちょっと聞いてよ!! 海賊がもう近くに来てるっていうのに、参謀部が全然動かないらしいよ!!」
メリッサの声が市場の空気を一瞬で切り裂いた。あまりの大声に露店の主人まで手を止め、買い物客が一斉に振り返る。
「え? 今なんて?」
「海賊!?」
「ブレストに来るって……本当か?」
メリッサは口に手を当て「あっ、言っちゃった」みたいな顔をしたが、それは明らかに“わざとらしい”やつだ。彼女の隣、ペネロペが小さく呟く。
「……海、赤くなる」
不思議とメリッサの大声よりもはっきりと響いた気がした。
「赤く……なる……?」
「なんだ、それは……凶兆か?」
「なあ、本当に海軍は何もしてないのか!?」
買い物客のざわめきは連鎖し、魚屋からパン屋へ。通りの端から端まで、あっという間に火がついたように走ってゆく。わずか数分で市場はざわざわと渦巻く不安と怒りで満ち始めていた。
白い匂いの漂う医務局の病室。マルセロは負傷兵の腕に巻かれた古い包帯を丁寧に外し、新しい布で傷を巻き直しながら淡々と呟いた。
「……まあ、参謀部は例の件、また先延ばしにするんでしょうね。動く気、まるでなさそうでしたよ」
彼の言い方は冷静で穏やかだったのに、重症兵たちの反応はまるで火薬に火がついたみたいだった。
「はああああ!?!?」
「動かねぇのかよ!!」
「またかよ参謀部!!」
「俺ら何のために戦ってると思ってんだ!?」
「こっちは命かけて前線出たんだぞ!!」
負傷兵たちの怒号が部屋に反響し、マルセロが相手をしていた兵と隣同士の兵士までもが身を起こす。
「動かねぇなら、せめて前線に知らせろ!」
「こんなんじゃ次の戦闘で皆死ぬだろ!」
怒りは瞬く間に病室の外へと広がっていった。医務局を出た兵士が廊下で別の同僚兵に噂を撒き、そのまた一人が港へと報せに走る。ひとつの呟き、鋭い棘になって港町へ突き刺さっていった。
潮風が強く、ロープとマストの軋む音が響くブレスト港。ダヴィットは片手を水夫の肩に置き、よく通る声で言った。
「お前ら、信じられるか? 上層部はよ、フランソワ海賊団が近づいてるってのに、動く気ゼロなんだとよ」
水夫たちはぽかんと目を丸くした。
「え? でも海賊って……けっこう親切なんですよね」
「船乗りの間じゃ憧れじゃないっすか。自由で、好き勝手で」
別の水夫がうっとりしながら言う。
「ほら、分け前も公平らしいし……」
「飯もうまいって噂だぜ?」
ダヴィットはしばし無言で彼らを見つめたあと、眉間を押さえた。
「……マクシム。こりゃダメだぞ」
彼はため息まじりにそう呟くと、次は造船所へ向けて歩き始めた。水夫たちの呑気な好奇心とは裏腹に、港の裏側では徐々に緊張の熱がくすぶり始めている。
その後、ダヴィットは港を後にしてブレスト城へ向かった。目指す場所は資料室。フランソワ海賊団の情報を独自に整理するため。ブレスト城の門を抜け、中庭を抜けて城内へ入っていく。彼の淡々とした靴音が廊下の壁に反響する時、道行く士官たちは壁に身を潜めながらダヴィットを見ていた。中には、隅の方で団子になってお互いに耳打ちをする者たちもいる。問題児部隊の副隊長。長身痩躯。声がやたらデカい。この辺の言葉は右から左へ抜けていくが、一つだけ聞き捨てならない言葉が紛れていた。
「庶民の出」
ダヴィットの足が思わず止まるが、彼は声のする方へ目を向けることなく沈黙に身を委ねた後、再び足を運ばせた。彼の背に、まだ言葉の矢が降り注ぐのも構いなしに。ようやく資料室の扉を開け放って足を踏み入れると、彼はここ三年間の報告書がまとめられた棚へ向かった。
——大海賊フランソワにまつわる、報告書の数々を収めた書棚。
ダヴィットは数冊のファイルを抜き取って適当に席に着くとページをざっと読み進めていき、やがて去年の目撃報告書に手をつけた。
「……傘下の連中はとっくに顔が割れてる。なのに、本艦だけは未だに面子を掴めていない」
海賊団は契約を交わす集団。航海の旅にメンバーが変わるのは日常ではあるが、それにしてもフランソワ海賊団が見事な統率でフランス艦隊を沈めているのか不思議だった。フランソワの指揮のもとに、どんな人間が潜んでいるのか。
次にダヴィットはフランソワの私掠船時代の記録を遡り始めた。かつての主要なメンバーの名がリストに連なっているが、決定打には欠ける。欠けるが、気になることはある。
「……そういや、クォーターマスターがいないな」
海賊団にとって、略奪目的を掲げる上で最も欠かせない者。
第二部隊の調査資料によれば、私掠船団の旗揚げ時にアラン・クロードという男がその任に就ていたと記載がある。が、ある年次以降は役職名すら記載がない。この役職の空白に、ダヴィットは思わず顔を顰めた。それから机の端に追いやった報告書の数々をチラリと見ると、ため息をついて石造りの天井を眺めた。
「ま、それもフランソワがやってんだろうな」
溢した言葉に、返ってくる声はなかった。
昼間だというのに、酒場の中は熱気でむんむんしている。サミュエルとグウェナエルはすでに丸テーブルを陣取り、ジョッキを打ち鳴らしていた。
「軍人さんよォ、仕事はいいのかい?」
店主が眉をひそめる。サミュエルは豪快に笑い、酒臭い息を撒き散らしながら答えた。
「仕事? ない! 上の者が動かないからな! 仕方なく飲みに来た!!」
酒場にどっと笑いが起こるが、後に続くのは不満のざわめきだ。
「動かないってどういうことだ?」
「海賊来るんだろ?」
「また参謀部がサボってるのかよ!」
サミュエルはその後も同じセリフを三度、まるで壊れたオルゴールのように繰り返した。グウェナエルは赤ら顔でジョッキを抱え、ぐいっと口をつける。
「……昼からこんな……飲むものじゃない……」
「飲め飲めェ!」
サミュエルが肩を叩き、店内はすでに混乱寸前の熱に沈んでいた。怒号と酒臭さが混ざり、海軍への不満は次第に「怒り」へ、「抗議」へと色を変え始める。
静かな雰囲気の喫茶店で、リラは明らかに居心地悪そうに椅子に座っていた。彼女はメニューを凝視しながら、何度も同じページをめくっている。
「……無理。演技は苦手」
ロザリーは優雅にカップを持ち、にこりと微笑んだ。
「なら、軍服でお茶でもしましょう。ね? それだけで十分“意味”あるから」
二人はぎこちなくも会話を重ね、やっとリラが紅茶をオーダーしたところで、周囲の客は軍服を着た二人の会話に耳を尖らせていた。
「ねえ聞いた? 海軍の上層部、海賊来ても動かないんだって」
「無策すぎる……」
「こんな時にお茶なんてしてる場合なのかね、海軍は」
ロザリーは意図的に、上品に息をついた。
「本当なら私たちも出たいんですけどね。命令が“何もするな”ですから」
リラは運ばれてきた紅茶を無表情にすする。喫茶店の空気が一瞬でざわりと揺れた。
「何もするな……!?」
「そんな命令、ありえるか!?」
「参謀部、頭おかしくなったのか!」
怒りが抑えきれず、客たちがどよめき始める。
夕方前の広場。空気がざわついていた。最初は、通りのあちこちで交わされる小声の囁きだった。
「海賊が……」
「上層部が……」
囁きはすぐに不安の渦へと姿を変え、広場に渦巻き始めた。人がどこからともなく集まり始める。手に荷物を抱えたままの主婦、仕事帰りの職人、水夫上がりの男、子どもの手を引く父親。一人、また一人と足を止め、やがて広場の中心へと吸い寄せられていった。そのうち、怒号が弾ける。
「参謀部は何してんだ!!」
「海賊が来るんだぞ!! 何で指示を出さねぇ!!」
「うちの子が怯えて泣いてんだ! 海軍は何やってんだよ!!」
最初に怒鳴った男の声を皮切りに、広場が爆ぜた。どこもかしこも「参謀部」「海軍」「無策」という言葉だけが飛び交い、波のように怒気が上下しながら広がってゆく。波は広場だけでは収まらなかった。港でも同じことが起こっていた。水夫たちが集まり、船の影で怒鳴り合う。
「海賊来んのに、誰も動かねぇってどういうことだ!」
「俺らの家族はどうなる!!」
造船所の労働者たちも加わり、鉄を打つ音より怒声の方が大きくなった。怒号が怒号を呼び、やがて“うねり”へと変貌していく。騒乱のただ中へ、マクシムは街の広場へと足を踏み入れた。彼の隣にはアニータ、少し後ろにスザンヌがついてくる。遠くからでも不信と動揺が皮膚の裏まで刺さってくるような熱気が伝わった。人々の顔は強張り、口元は怒りに歪み、目の焦点はどこか宙を彷徨っている。その群衆を見渡したマクシムは低く呟いた。
「……思っていたより早いですね」
アニータは腕を組み、騒ぎの中心を観察しながら言った。
「それくらい、みんな今の情勢に不安なんでしょう。ほら、今朝の新聞もフランソワ海賊団襲撃の記事が一面でしたし」
ざわつく民衆の波を見ていたスザンヌが、ゆっくりと首を振る。
「それでも……この街の様子、恐ろしいです。一つの噂で、ここまで怒りが広がるなんて」
怒鳴る者、泣き出す者、何度も「参謀部」を罵倒する者。まるでそれぞれの不満や恐怖が、一斉に出口を見つけて噴き出しているかのようだった。マクシムは人々の声に耳を傾けながら息を吐いた。
「確かに。みんな覚えたてみたいに“参謀部”なんて口にしていますね。どんな奴らの集まりなのか、ちゃんと知っている人間は少ないでしょうに」
群衆の圧力は、もはや熱気ではなく“圧”そのものだった。噂は形を変え、尾ひれをつけ、恐怖を伴って膨れ上がる。それが怒りへ変質し、街を呑み込もうとしていた。誰も彼もが互いの肩にぶつかりながら怒鳴り散らしていた。空気は重く、ぬるく、どこか焦げ臭い。群衆という獣がこれから牙を剥く瞬間を待つように、蠢いている。
この騒ぎの端に、庶民服に身を包んだシャルルがいつの間にか紛れ込んでいた。つばの広い帽子を目深にかぶり、どこからどう見ても“ただの町人”が、広場の中心を見すえる眼だけが冷静で、異常なほど静かだ。シャルルは群衆の熱気を測るように一度だけ視線を巡らせ、ほんの少しだけ声を張った。わざと「たまたま聞こえる」程度の絶妙な声量で。
「参謀部は……まだ“話し合い”をしてるんだってよ」
彼の一言が、広場の空気を切り裂いた。一瞬の静寂。それは嵐が突風を吹かせる直前の、圧倒的な間だった。そして、爆発する。
「話し合い!? ふざけるな!!」
「この状況で話し合いだと!? 頭おかしいのか!!」
「今すぐ動け!! ブレストを守れ!!」
「子どもたちが怯えてるんだぞ!!」
「海軍は寝てるのか!!」
怒号がまとまり始めた。バラバラだった声が一本の太い“叫び”へ変貌する。
群衆の足が一斉に同じ方向へ向きを変えた。ブレスト城だ。誰が合図をしたわけでもない。ただ、波が岸を目がけて押し寄せるように怒りが行き場を求めて流れ始めた。最初の数人が走り出す。それにつられるように、次々と人々が駆け足になり、やがて奔流へと変わった。
「参謀部を動かせ!!」
「城へ行け!!」
「こんな無策、許されてたまるか!!」
怒鳴り声は城壁に向かってまっすぐ伸び、狭い通りはまるで巨大な川のように轟音を立てながら流れ込んでいく。広場は数瞬で空になり、残ったのは風に舞う紙屑だけだった。その様子を見送ったシャルルは、帽子のつばを押さえながら、どこか冷めた息を落とした。
「……我ながら、極めて簡単な作戦だったな」
怒りの奔流はもはや誰にも止められなかった。
夕刻。空の赤紫が沈み切る前に、ブレスト城の前はもはや怒りの坩堝へと変貌していた。仕事帰りの男たち、子を抱えた女たち、船を降りたばかりの水夫、老人まで。気づけば数百人が押し寄せ、城門前は黒い波のように蠢いていた。
「参謀部は何してやがるッ!!」
「街を見殺しにするつもりか!!」
「俺たちの暮らしが灰になるまで“話し合い”かよ!!」
衛兵たちは盾を握りしめたまま足をすくませ、城門前で波打つ民衆を前に後ずさる。
「ど、どうする!? この数は……!」
「止められん! 押すな! 押すなと言っているだろう!!」
怒号と罵声が混ざり合い、次第に「誰が叫んでいるのかすら分からない声の塊」になっていく。城門を叩く拳の音。石畳を踏み鳴らす足の振動。泣き声のような叫び。罵倒。祈り。それらが全て、城壁に反響して跳ね返り、膨れ上がって返ってくる。“恐怖”と“焦り”だけでなく、得体の知れぬ“熱”を孕んだ音として。衛兵たちは叫ぶ。
「ひ、引き返せ!! 近づくな!!」
「これ以上は危険だ!!」
だが、彼らの声は波に呑まれる小舟のように瞬きの間にかき消えた。押し寄せる。押し寄せる。押し寄せる。数百人分の憤怒が、呼吸するたび城門を震わせた。城壁の石が、まるで悲鳴を上げているようだった。城門前の怒号は、やがて「壁越しの震動」となってブレスト城の奥深くへしみ込んでいく。
参謀部の会議室。厚い扉と石壁で隔てられたその静謐な空間に、最初の違和感が走ったのは夕刻を過ぎた頃だった。ごう……。低く、地の底を這う獣のような音。
「……今の、聞こえたか?」
誰かの声が掠れる。続いて、机の上の水差しがわずかに震え、コップの水面に輪が広がった。ごう、どん。今度ははっきりだ。壁がわずかに軋み、窓枠の鉄が微かに震える。外から届くはずのない“質量のある何か”が、城の内側にまで侵入してきていた。
「……城門で何か起きているな」
参謀たちが視線を交わす。決定を先送りにした彼らの沈黙に、外の怒声が答えを突きつけるように重なった。
どおおおおおん!!
さきほどよりも明確に群衆の咆哮が、石壁の向こうから“波”のように押し寄せた。
「く……民衆か?」
「こんな時間に、あの数……?」
「いや、その程度の規模ではない……」
言い合う声が震えている。その震えが地鳴りなのか、参謀たちの心臓音なのか判別できない。外では、さらに大きなうねりが爆ぜた。
「参謀部を出せ!!」
「今すぐだ!!」
その怒号が、何重もの壁を貫いて、会議室まで届いたのだ。参謀たちは、はじめて悟った。これは、もう“話し合い”など通じる段階ではない。最年長の参謀官が、震える声を必死に押し殺して立ち上がった。
「第九部隊はいるか!? 至急、総動員で民衆を鎮めに行け! 一刻の猶予もない!」
怒号が天井を震わせる中、若い士官のひとりが椅子を倒しそうな勢いで立ち上がり、「は、はいっ!」と声を裏返しながら会議室を飛び出していった。扉が閉まると、部屋には重苦しい沈黙が満ちる。外の叫びはまだ壁越しに荒れ狂い、ひとつひとつが弓の弦のように参謀たちの神経を張りつめさせた。どれほど待っただろうか。十数分か、それ以上か。遠くの怒号がふと弱まった瞬間、重厚な扉が「ギィ」と音を立てて開いた。
現れたのは、マクシムとシャルルだった。
シャルルはすでに庶民服を脱ぎ、きちんと軍服を整えていたが、艶やかなオレンジ色の髪が参謀会議室という堅物の巣窟の中ではあまりにも異質だった。参謀官たちは同時にわずかに身構える。シャルルは彼らの視線を涼しく受け流し、にこりと笑った。
「参謀部が動いていないと民衆が思っているようです。……騒ぎになるのは当然でしょう?」
シャルルの声音は柔らかいが、言葉は刃のように鋭かった。参謀官の面々は息を呑む。そこへ、マクシムが一歩前に出た。
「参謀殿。報告書を参考にするだけでは、民は救えません。フランソワ海賊団は間近まで来ます」
マクシムの目はまっすぐ参謀たちを射抜いている。
「我々は第七艦艇部隊。海賊討伐部隊です。『海賊撲滅』を掲げる意味を、今一度お考えいただきたい」
会議室に氷のような沈黙が落ちた。参謀たちは凍りついたように動かず、誰も反論しない。壁の向こうの怒号より、目の前の二人の若き戦闘部隊員の静かな圧力の方が、よほど恐ろしく感じられた。最年長の参謀官がようやく口を開いた。声は先ほどの騒動よりも弱々しい。
「……第七艦艇部隊、全隊に司令を下す。フランソワ海賊団が現れるその日までに……出陣準備を整えよ」
屈辱の宣言だった。マクシムとシャルルは揃って敬礼する。その姿は礼節そのものだが、心の奥ではハッキリと勝利の火が燃え上がっていた。参謀部の沈黙を背に、二人はゆっくりと踵を返す。




