第九章③ ルキフェル
船長室は暗かった。窓の外では波の音が低く唸り、帆が風を受けて軋む。嵐は去ったはずなのに、海はまだ落ち着いていない。いや、落ち着いていないのは海ではなく彼自身だった。ルキフェルは扉にもたれて床に座り込んでいた。背中を板に預け、膝を立て、ただ天井を睨んでいる。
——三日。
時間の感覚は曖昧だった。昼か夜かも分からない。食事も水も、差し入れられたことは分かっているが、手を伸ばす気になれなかった。最初に扉の向こうから声がしたのは初日だった。
「ルキフェル。聞いてるか?」
ジャスパーの声だ。軽い調子を装っているが、いつもより少し硬い。
「コリンの手術、成功だぞ。あの女、軍医さんだった。弾丸も取れたし、身体を縫うのが上手い。コリンはちゃんと生きてる。今は船医室で安静にしてる」
返事はしなかった。聞こえていないふりをするつもりもなかったが、反応できなかった。生きている。その言葉だけが胸の奥に落ちていく。それが、今の自分にとって救いなのかどうか判断がつかなかった。
二日目。また足音。今度は軽い。
「今日は、波も風も落ち着いてる」
ニールの声だった。淡々としているが、いつもより慎重だ。
「でも、まだトルチュ島へは向かってない。少し……問題があってね」
問題。その中身を聞く気は起きなかった。どうせ、自分が決断しなければならない類のものだ。今は考えたくない。
三日目。扉の前で足音が止まる。しばらく沈黙が続き、それから低い声が落ちてきた。
「なあ、ルカ」
マテオだった。
「話がしたいんだ。他でもない、あの女のことだ」
その名前を聞いた瞬間、ルキフェルの思考が一瞬引き裂かれる。
「……あいつをどうしたいか、皆で決めたい。だからさ、顔を見せてくれよ」
返事はしなかった。扉の向こうで、誰かが息を吐く気配がする。やがて足音が遠ざかり、静寂が戻る。フランソワの顔が何度も浮かんでいた。笑っていた。怒鳴っていた。肩を叩かれた感触がまだ残っている気がする。フランソワは自分で飛び込んだ。あの女——ソフィーの言葉が何度も脳裏に蘇る。捕らえられるくらいなら自分で終わらせる。それが誇りだった。
誇り? そんなものが、死に値する理由になるのか。それで終わりにしていい話だったのか。
——違う。問題は死に方じゃない。問題は、その後だ。
大海賊フランソワの死は噂になり、酒場で語られ、街の娯楽として消費される。英雄の名を掲げた海軍がそれを踏み台にする。それが許せない。だから、潰す。
マクシミリアン・ブーケ隊。英雄と讃えられる部隊。あの男が率いる、あの歪んだ集団。内部で疑い合い、切り捨て合い、それでも正義を名乗る。あの中でスザンヌは剣を握っていた。——あんな場所で。
ルキフェルの胸の奥がきりと軋む。怒りなのか、焦りなのか、もう分からない。攫うべきだった。嵐の中、あのまま連れ去っていればよかった。いや、攫うだけじゃ足りない。今度こそ、連れていく。一緒に行く。失った時間を取り戻す。どこへ、どうやって? そんな問いは浮かばない。浮かびかけた瞬間、思考が逸らされる。拒まれる可能性。彼女自身の意思。いや、考える必要はない。彼女はあそこにいるべきじゃない。それだけで十分だ。ルキフェルの拳が床を叩いた。鈍い音が室内に響く。ソフィーの言葉がまた浮かんだ。
——誰かを殺すことでしか、決着をつけられないの?
うるさい。あの女は正論を言う。正しすぎる言葉で、刃を突きつけてくる。だが、信じられるわけがない。信じたら終わってしまう。フランソワの死も。自分が振るった刃も。ここまで来たすべてが無意味になる。そんなことは受け入れられない。フランソワの声が耳の奥で響く。
——お前は、どんな場所でも誰かを守って道を示せる。希望をもたらすことができる。
「……ふざけるな」
ルキフェルの喉の奥から低い笑いが漏れた。自分の何を見て、そんなことを言った。剣を振るい、命を奪い、憎しみで動いてきた男が光だと? 違う。彼は拳をそのまま握り締める。まだだ。終わっていない。復讐は、まだ終わっていない。海軍を許さない。英雄を許さない。フランソワの名を、消費させない。だから、潰す。考えはまたそこに戻る。同じ場所を何度も、何度も。
扉の向こうで、誰かが立ち去る気配がした。コリンの足音だろう。「腕が治った」と言っていた。「また物作りができる」とか「あの女の人、優しいよ」とか言っていた。ルキフェルは彼の言葉に応えなかった。応えられなかった。今はまだ、この空虚を怒りで埋めていなければ、立っていられなかった。船長室の暗闇の中で、彼は目を閉じる。まだだ。そう、自分に言い聞かせるように。
……まだ?
ルキフェルはゆっくりと目を開けた。船長室の天井が、ぼんやりと視界に戻る。呼吸が浅い。胸の奥が妙にざわついている。
——まだ、終わってない。
フランソワの声が記憶の奥で蘇る。あの低く、確信に満ちた声。お前にはある。仲間を導く力が。ルキフェルの喉がきゅっと鳴った。導く力。それは剣の腕じゃない。誰かを殺す強さでもない。傷だらけでも、それでも前に進むための……“光”。
「……まだ、か」
ルキフェルは呟いた。自嘲でも、諦めでもない。考え始めてしまった合図だった。
今の自分は、何者だ。復讐者? 逃亡者? それとも——。
「……まだ、やれることがあるんじゃないか」
その考えが浮かんだ瞬間、歯車が音を立てて噛み合った。フランソワの最期。街で消費される大海賊の死。英雄と持て囃されるマクシミリアン・ブーケ隊。そして、あの女。正論を並べ、自分の刃を鈍らせかけた存在。
「……違う」
あれは正しさじゃない。甘さだ。理想論だ。
——もし。もし、今引き返したら?
ルキフェルの視線が虚空を彷徨う。思考は止まらない。今すぐ舵を切って、あの船へ戻る。女をマクシミリアンたちの元へ送り返す。そうすれば、あの部隊は揃う。英雄と呼ばれる連中が一箇所に集まる。
「……一網打尽だ」
あの歪んだ正義を掲げる全員。一人残らず、殺す。躊躇はない。躊躇する理由が、どこにも見当たらない。それは復讐だが、同時に整理でもある。
「そうすれば……」
ルキフェルはゆっくりと拳を握る。そうすれば舞台は崩れる。英雄は死ぬ。海軍は象徴を失う。そして。
「……スザンヌを、連れ出す」
あの場所から。剣を握らされる舞台から。身内同士で疑い合う、あの歪な集団から。今度こそ。今度こそ。
「救い出す」
ルキフェルの胸の奥で熱が灯る。そうすれば、自分は——。
「フランソワの言葉通りになる」
誰かを守り、道を示す。仲間の光になる。そうだ。それができるなら。
「……俺は、光でいられる」
剣を振るうこと。命を奪うこと。それは手段でしかない。守るためだ。奪われたものを、取り戻すためだ。
「間違ってない」
これは復讐じゃない。正義だ。救済だ。そうでなければ、ここまで来た意味がない。ルキフェルはゆっくりと立ち上がった。足取りは重いが、迷いはなかった。この思考がどれほど歪んでいるか。どれほど取り返しがつかないか。そのことから、彼は目を背けている。今はまだ悲しみを見るには、早すぎた。怒りと使命で空虚を塗り固めたまま。彼は再び剣を取ろうとしていた。——光でいるために。それが、どれほど暗い選択かも知らずに。
甲板では嵐が嘘のように落ち着いていた。帆はまだ湿っているが、風は穏やかで、船は一定の揺れを保って進んでいる。その平穏を、最初に壊していたのは——。
「痛い痛い痛い! 痛いって言ってるだろ!!」
「えー? ここ気持ちよくない?」
「よくねぇ!! 骨!! 骨いってる!!」
マテオが半泣きで叫び、彼の背後ではジャスパーが悪気なく肩を揉んでいた。力加減という概念が存在しない手つきで。
「だから言っただろ、揉むなって……!」
「いやー、疲れてそうだったからさ」
「疲れてる奴にそれやるな!!」
少し離れたところで、ニールとコリンが並んでその光景を見ている。
「……仲いいね」
コリンがぽつりと呟き、ニールは笑みを湛えたまま口を開いた。
「うん。仲いいというか、災害」
二人が苦笑し合う時だった。
——ドンッ!!
鈍い衝撃音。木が軋み、甲板に振動が走る。全員が同時に振り返った。船長室の扉が蹴破られていた。暗闇の奥から、一人の男が現れる。髪は乱れ、頬はこけ、目の下には濃い隈。何日も眠っていない顔だが、瞳だけが異様に冴えている。ルキフェルだった。
「……今すぐ進路を変えろ。引き返す」
ジャスパーが真っ先に我に返った。肩揉みの手を止め、ゆっくりと口を開く。
「……なんで?」
ルキフェルの視線が鋭く向く。
「今すぐ引き返して、あの海軍の女をマクシミリアンたちの元へ送り返す」
マテオの口が半開きのまま固まった。
「……は?」
ルキフェルは続ける。熱を帯びた、確信に満ちた声音で。
「そうすれば、また復讐できる。これはチャンスだ。今なら、全員まとめて潰せる。フランソワの名を、あの部隊ごと消せる」
ニールの思考が一瞬停止する。コリンは目を瞬かせたまま言葉を失っていた。
「早くしなければならない」
ルキフェルの声は次第に正義の色を帯びていく。
「今しかない。俺がやるべきことだ。これで全部、正しくなる」
波の音だけがやけに大きく聞こえる。四人は互いの顔を見た。数秒後、マテオがゆっくりと息を吸う。
「……あのさ。それ、本気で言ってる?」
ルキフェルは即答する。
「ああ」
ジャスパーの表情から完全に笑みが消えた。ニールは顔を青くし、コリンはぎゅっと拳を握る。今のルキフェルは正義を語ってるが、完全に壊れてる。ジャスパーは一度だけ深く息を吐き、改めてルキフェルを真正面から見据えた。乱れた髪。焦点の定まらないようでいて異様に強い眼。そこにあるのは迷いではない。決めてしまった人間の目だった。
「……それだけか?」
復讐。皆殺し。引き返す理由。それだけなのか、と。ルキフェルは一瞬だけ黙り、はっきりと答えた。声にはわずかな熱が混じって。
「もちろん、それだけじゃない。助けたい奴がいる」
マテオが眉をひそめる。
「……助けたいやつ?」
ルキフェルは続ける。
「他でもない。俺が人質に取ってた、あの女だ」
甲板の空気がまた一段階冷えた。ジャスパーの視線が鋭くなる。
「……あの子を?」
ニールが思わず問い返す。ルキフェルはジャスパーを見た。
「覚えているか。俺が一度だけ、好きになった女の話」
ジャスパーが顔を強張らせた。彼の脳裏に昔の記憶が瞬時に駆け巡る。
「……え?」
「ちょ、待て待て待て」
コリンが素で声を漏らし。マテオが両手を上げた。
「何さらっと爆弾落としてんだよ、ルカ。てかお前さ、人を好きになったことあったんかい」
特にマテオは別方向の衝撃で完全に思考停止していたが、ニールは険しい顔つきでルキフェルを見つめていた。ルキフェルは彼らの反応を気にも留めない。
「あの女だ……海軍員になってた」
ジャスパーの顔色がはっきり変わった。
「……本気で言ってる?」
「本気だ。だから、あの集団にいてはダメなんだ」
ルキフェルの声が少しだけ強まる。
「見ただろ。身内で疑い合って、切り捨て合って、それでも正義を名乗る。そんな場所に、彼女を置いておけるか。——連れ出す。守るんだ。今度こそ、彼女を」
ジャスパーはゆっくりと目を伏せた。ニールは言葉を失ったまま唇を噛み、コリンは何か言いたげに口を開き、結局何も言えずに俯いた。マテオだけが遅れて理解する。完全に自分の正義に酔ってる。しかも守るためという言葉で、きれいに飾って。ルキフェルは誰の沈黙も拒絶と受け取らなかった。むしろ同意の余白だと思っているようだった。
「俺がやる。俺にしかできない。フランソワの言葉通り、光でいられる」




