第十章 五人組
甲板の空気が重く沈んでいた。潮の匂いとまだ湿り気を帯びた木の床。誰も口を開かない。最初に声を上げたのはジャスパーだった。
「……フランソワの言葉が何だったかは知らねえよ。でもな、ルキフェル。お前は間違ってる。大間違いだ」
ジャスパーの一言に、ルキフェルの表情が歪む。
「……何がだ」
「全部だ」
ジャスパーは一歩も退かない。
「復讐も助けるって言葉も、そのやり方も」
「それでも俺は諦めない」
ルキフェルの声が震え始める。
「復讐も……彼女を救うこともだ」
ルキフェルの息が荒くなる。彼の視線が甲板にいる四人を順に射抜いた。怒りと焦燥が言葉に滲む。
「……お前たち、一体どうしたんだよ。俺を助けに来たんだろ。フランソワを殺されて……お前たちも、俺と同じ気持ちだって」
ルキフェルはジャスパーの目を真正面から見据えると、床を軋ませながらジャスパーと距離を縮めて彼の胸ぐらを掴んだ。
「……頼む。何か言ってくれよ」
ルキフェルの翡翠の双眸と、ジャスパーのアンバーの瞳が近距離で向かい合う。やがて、ジャスパーは首を振った。
「やんねえよ」
ジャスパーは酷く冷えた目つきでルキフェルを見据えた。
「……はあ?」
「やんねえ」
ジャスパーのはっきりとした拒絶に、ルキフェルの喉から思わず声が漏れる。
「俺たち、仲間だろ? あの時……俺は、お前たちに生きてほしかったから遠ざけた。それなのに……それなのにだ! お前たち、駆けつけてくれたじゃないか。話が違うだろ……!」
「生きてほしかった? こっちは裏切られた気分だ」
ジャスパーが突き放すように言い返すも、余計にルキフェルの神経を逆撫でさせた。
「なんでだよ……俺たちは、仲間じゃなかったのか!!」
ルキフェルはジャスパーに拳を振り上げた途端、乾いた音が甲板に響いた。ルキフェルの頬に鈍い衝撃が走って視界が揺れ、身体が弾かれて甲板に背を打ちつけた。息が詰まる中、何が起きたのか理解できず見上げると、マテオが見下ろしていた。義手ではない、生身の右腕。まだ拳を握りしめたまま、肩で息をしている。
「……いい加減にしろ。仲間って言葉、都合よく使うな。お前が今やろうとしてるのは、救いじゃねえ」
マテオの拳には体温が残っていた。それが嫌というほど伝わってくる。ルキフェルは数秒、息ができなかった。肺に空気が戻った瞬間、彼の胸の奥から湧き上がったのは痛みではない。怒りだった。
「……っ、何しやがる」
ルキフェルはゆっくりと身体を起こし、甲板に手をついて立ち上がるとマテオを睨みつけた。
「殴る理由があると思ってるのか。正義感か、説教か? お前まで……俺を止めるのか」
マテオは一歩も退かなかった。拳を下ろしたまま口を開く。
「……お前、さっきから勘違いしてる。オレたちが戻ってきた理由。それはな——」
マテオの目が真っ直ぐにルキフェルを射抜き、拳が再び握られる。
「お前を、止めるためでも。説得するためでもねえ。——ぶん殴るためだ!」
マテオの右拳が振り抜かれた。鈍い音と共にルキフェルの身体が再び揺れ、今度は耐えきれずよろめく。
「……っ! ふざけるな!!」
ルキフェルは叫びながらマテオに飛びかかった。ルキフェルが彼の胸倉を掴み、そのまま押し倒すと二人して甲板に転がり、木の床を軋ませながら取っ組み合いになる。
「お前に何が分かる!!」
ルキフェルが吠える。
「フランソワを失ったのは……あいつらのせいだ!!」
「分かってんだよ、お前の主張ぐらい!!」
マテオも怒鳴り返す。
「だから殴ってんだ!!」
拳が交錯する。殴り、殴られ、肘がぶつかり、息が荒れる。
「復讐だの! 光だの!」
マテオが吐き捨てる。
「都合のいい言葉で、自分を正当化すんな!!」
「黙れ!!」
ルキフェルが拳を振るう。
「俺は、俺は!!」
言葉が続かない。一瞬の隙を逃さずマテオがもう一発ルキフェルの頬を殴り、息を切らしながら叫ぶ。
「オレたちはな!! お前を“英雄”にするために戻ってきたんじゃねえ!! 死に場所を用意するためでも、正義を肯定するためでもない」
マテオはルキフェルの胸倉を掴み、至近距離で言い放つ。
「生きてるうちに……間違ってるって、殴ってでも伝えるためだ!!」
彼の言葉が拳よりも強く、ルキフェルの中に叩き込まれた。息が詰まる。ルキフェルはマテオの手を振りほどこうとしたが、力が入らない。怒りはあるが、身体がついてこない。
「……くそ」
マテオはそれ以上殴らなかった。荒い息のまま低く言う。
「オレたちは……お前が壊れるのを見たくねえだけだ」
殴打よりも深く刺さった。甲板に荒い呼吸だけが残る。ルキフェルは歯を食いしばり、マテオを睨みつけた。目の奥がまだ燃えている。
「……なら、もうお前たちに期待なんかしない。全部だ。復讐も、救いも……ぜんぶ自分でやる!!」
ルキフェルはマテオを突き飛ばし、彼のの胸倉を掴むと拳を振り下ろした。鈍い音と共に、マテオの頭が甲板に打ちつけられる。
「……っ!」
ルキフェルはもうマテオを見ずに踵を返し、操舵輪の方へ駆け出す。
「進路を変える!! 引き返すぞ!!」
ルキフェルは叫びながら全速力で甲板を踏み切るが、彼の前に影が立ちはだかった。
「……待て」
ジャスパーだった。
「どけ!!」
ルキフェルが怒鳴る。ジャスパーは一歩も退かず、二人は正面から激突した勢いのまま、甲板を転がる。肩がぶつかり、肘が当たり、木の床が軋む。ルキフェルは倒れ伏したまま荒く息を吐き、顔を上げた。
「……ジャスパー、てめえ……!」
ジャスパーは先に起き上がっていた。服は乱れ、髪もぐしゃぐしゃ。それでも――軽く笑ってどこか間の抜けた声で言う。
「……へっ、そうだった。おれが発案者だったわ、これ」
ルキフェルが一瞬、言葉を失う。その隙にジャスパーの表情が変わった。笑みが消え、目の奥の軽さがすっと引く。
「行かせねえよ。今度こそ、止めるから」
二人は同時に踏み込んだ。拳が交差し、肩がぶつかる。腕を掴み、引き倒し、押し返す。これはもう止めに入る喧嘩じゃない。本気の取っ組み合いだった。
「邪魔すんな!!」
「邪魔するに決まってんだろ!!」
ルキフェルが吠え、ジャスパーが即座に返す。
「お前、今どこ見てる! フランソワか!? 好きだった子か!? それとも……自分の正しさだけか!!」
ルキフェルの拳がジャスパーの頬を掠める。
「黙れ!! お前に何が分かる!!」
「分かんねえよ!!」
ジャスパーが叫ぶ。
「だから止めるんだ!!」
二人は再び絡み合い、甲板に倒れ込んだ。息が荒れ、視界が揺れる。それでもジャスパーは離さない。歯を食いしばりながら続ける。
「お前が行こうとしてる場所はな……救いじゃねえ!!」
「違う!!」
ルキフェルが叫ぶ。
「守るんだ!! 今度こそ!!」
「その“今度こそ”で、何人踏み越えてきた!!」
ジャスパーの言葉が刃のように突き刺さる。ルキフェルの動きが一瞬だけ鈍る。
「……それでもだ。それでも、俺は止まれない」
その瞬間、ジャスパーの目が細くなる。
「ああ……そうかよ。じゃあ、おれが最後の壁になる」
ルキフェルは迷いなくジャスパーに体当たりした。武人の面影はもうどこにもなかった。そこにいるのは、ただ暴れ散らす青年か。あるいは檻に戻ることを拒む獣。荒い呼吸。理性の剥がれ落ちた瞳。ルキフェルの動きは荒々しく力任せだった。拳も体当たりも躊躇がない。
「っ……!」
ジャスパーが一歩よろけ、踏みとどまったが明らかに押されていた。
「……くそ」
「ルキフェル!!」
ルキフェルの横から二つの影が飛び込んできた。ニールとコリンだった。二人がかりでルキフェルの腕にしがみつき、進路を塞ぐ。細い腕だが、必死だった。
「もうやめてよ!!」
ニールが叫ぶ。
「これ以上やったら……君が壊れる!!」
「壊れたっていい!!」
ルキフェルが怒鳴り返す。血走った目でニールを睨む。
「覚悟の上だ!!」
ニールの表情が一瞬凍ったが、冷えた声ではっきりと言い返す。
「じゃあ、言わせてもらう。君のやり方は、救いでも守りでもない。奪う行為だ。彼女から選ぶ自由も、未来も、居場所も全部奪う。最低で、最悪だ!!」
「うるさい!!」
乾いた音が甲板に響いた。ルキフェルの拳がニールの頬を打ち抜く。
「っ……!」
ニールの体が弾かれ、甲板に倒れた。
「ニール!!」
コリンが咄嗟に手を離し、駆け寄った。ルキフェルは二人の様子を見下ろしていた。荒い息のまま低く吐き捨てる。
「……お前に、何がわかるってんだよ」
ニールは赤く腫れた頬を押さえもせず、ゆっくりと身を起こす。
「……わかるよ、僕だって……」
ニールは一瞬、言葉が詰まった。悔しそうに唇を噛みしめてから口を開く。
「将来を、誓い合った相手がいた」
マテオが目を見開く。ジャスパーが言葉を失い、コリンは息を呑む。そして、一番驚愕していたのはルキフェルだった。
「……なに……?」
ニールは足元をふらつかせながら立ち上がる。殴られた衝撃は体に残ったまま、ルキフェルを真正面から睨み据える。
「君を止める」
甲板に風が吹き抜けた。ニールは深く息を吸い、涼しげな青い目をギラつかせた。
「……覚えておいて。僕って……怒らせると、容赦ないから」
それは宣言だった。優しい航海士でも調停役でもない。誰かを守るために立つ者の顔。ルキフェルは彼の視線を真正面から受け止めたまま言葉を失っていた。その後、甲板はもはや戦場ではなかった。そこにあったのは怒号と拳と息が切れる音だけ。誰が最初に殴ったのか、もう分からない。マテオの拳が飛び、ジャスパーの肘が入る。ニールが必死に腕を掴み、コリンが叫ぶ。ルキフェルは歯を食いしばり、四方からの打撃を受けながらも立っていた。殴られて倒れて、引き起こされて、また殴られる。頬が裂け、唇から血が垂れ、視界が揺れる。それでも、ルキフェルは折れなかった。
「どけ……ッ!」
低く唸り、拳を振るう。マテオの肩を弾き、ジャスパーを突き飛ばし、ニールの腕を振りほどく。その勢いのまま、視界の端にいる小さな影へ、ルキフェルの拳が向かう。コリンだ。彼が反射的に身構えると、拳を振り上げたルキフェルの動きが止まった。コリンは息を呑んだ。殴られる覚悟はしていたが、来ない。彼は恐る恐る顔を上げると、ルキフェルと目が合った。揺れている。翡翠の瞳が激しく揺れていた。怒りでも、殺意でもない。何かを押し殺そうとして、押し切れずに滲み出ているような、不安定な揺らぎ。
「……え?」
コリンの胸がきゅっと締めつけられる。覚悟を決めきった人間の目じゃない。すべてを投げ捨てると決めた者の目でもない。苦しそうだ。その表情に、コリンは気づいてしまった。次の瞬間、ルキフェルは背後から掴まれた。マテオとジャスパーが同時に腕を取り、地面に引き倒す。
「動くな!!」
ニールの声が割れる。殴る。殴る。殴る。もはや制止ではなく、ほとんどリンチに近い。拳が、肘が、膝が、ルキフェルの身体に叩き込まれる。コリンは少し離れた場所で、その光景を呆然と見ていた。
「……おかしい」
殴られても、殴られても立ち上がる。覚悟も決意もすでにあるはずなのに。
「なのに、なんで……」
さっきの目。拳を止めた一瞬の躊躇。苦しげに歪んだ表情。
「……なんで、あんな顔したんだろう」
吹っ切れているなら、迷いなんてないはず。すべてを犠牲にする覚悟があるなら、ためらう理由なんてない。
——違う。
コリンの胸の奥で何かが繋がる。
——怒りと憎しみの裏で……“気づいて”って、叫んでる何かがある!
その時、ルキフェルが吼えた。
「——ッ、どけ!!」
ルキフェルは渾身の力で三人を振りほどき、甲板を蹴った。操舵輪へ向かって、走り出そうとする。
「待って!!」
コリンは考えるより先に飛び出していた。ルキフェルの前に立ち、両手を広げる。ルキフェルは荒い息の合間に、低い声で告げた。
「……どけ。できれば……お前を殴りたくない」
脅しだったが、どこか懇願にも似ていた。コリンは震えながら首を振る。
「……もう、やめてよ。ルキフェル、今日までたくさん戦ってきたじゃん。身体も……心も。ずっと戦ってきたじゃないか」
ルキフェルの眉がわずかに動く。
「たくさん暴れて、たくさん命を奪って……」
コリンの目に涙が溜まる。
「でも……本当は、苦しいんじゃないの?」
「……だまれ」
ルキフェルは吐き捨てるが、コリンは逸らさない。
「戦いに意識が向くあまり……怒りを誰かに向けるあまり……自分を、見つめてこなかったんだよね。じゃなかったら……そんな顔、できないよ」
コリンの言葉に、ルキフェルの思考が止まった。自分の視界が、滲んでいることに今更気づく。頬が熱い。喉が詰まる。
——泣いてる? 違う。そんなはずがない。
だが、目の前の少年も同じように目を潤ませている。……自分と、同じだ。理解が追いつかなくなった。マテオも、ニールも、ジャスパーも、息を殺して見守っている。誰も割って入らない。コリンが静かに問いかける。
「……君の心には……今、なにがあるの?」
ルキフェルは答えられなかった。コリンは優しく続ける。
「もう、戦わなくていいんだよ。何があるか、僕に話して。フランソワを失って……君の心には、何が残ったの」
「……フランソワが死んで……俺に、残ったもの……」
ルキフェルは掠れた声で呟く。言葉が出てこないが、無理やり掬い上げる。
「最初は……何もなかった。なのに、今は分からない……ぐちゃぐちゃだ」
コリンが首を傾げ、ルキフェルは目を閉じた。浮かぶ光景。まだ駆け出しだったフランソワ。島で過ごした時間。旗揚げ。裏切り。でも、一番心に浮かぶのは笑顔。血は繋がらなくても父だった。その父が、自分の意志で海へ身を投げた。自分は間に合わなかった。立ち会えなかった。その時、怒りと憎しみに覆われていた奥で何かが動く。
「……あ」
——悲しみだ。内なる獣に喰われたと思っていた感情。消えたと思っていたもの。それが、生きていた。
ルキフェルの口から震える声が零れる。
「……ああ。そうだった……俺は……フランソワが死んで……」
言葉にならず、堰が切れたように涙が溢れた。初めてだった。怒りでも、憎しみでもない涙。喪失を認めた涙だった。ようやく、ようやく自分の心に辿り着いたのだった。ルキフェルの膝から力が抜けた。立っていられなかった。支えようとした足が役目を放棄したように崩れ落ちる。甲板に膝を打ちつけた衝撃すら、もうどうでもよかった。
「……っ」
息が詰まる。喉の奥がきゅっと潰れる。空気を吸おうとしても、胸が言うことをきかない。ルキフェルは顔を歪めたまま、両手で甲板を掴む。爪がきしむほど力を込めても、震えは止まらなかった。怒りでもない。憎しみでもない。復讐でもない。ずっと、ずっと奥に押し込めて、見ないふりをしてきたものが、今になって一気に溢れ出してくる。
「……っ、ぅ……」
声にならない嗚咽が喉から漏れた。浮かぶのは、フランソワの背中だ。いつも少し前を歩いていて、振り返れば当たり前のようにそこにいた背中。怒鳴って、笑って、肩を叩いて、「大丈夫だ」と言ってくれた男。最初から側にいてくれた。ずっと、側にいてくれた。それなのに。
「なんで、置いていくんだよっ」
ルキフェルの絞り出すような声が甲板に落ちる。呼吸が乱れ、視界が滲んで何も見えなくなる。
「……行かないって……言っただろ……」
昔。雨の夜。傷だらけで、どうしようもなかった自分に、フランソワは言ってくれた。
——もう離れたりしない。お前の心にちゃんと寄り添おう。
「……側にいてくれるって……いてくれないと……俺、何もできないのに……」
声が割れた。胸が痛い。引き裂かれるように痛い。
「……なんで……一人で行くんだよ……」
拳が甲板を叩く。叩いても、何も戻らないと分かっているのに。
「なんで、そのまま死ぬんだよ……あんまりだろ」
涙が止まらない。ぼろぼろと零れて甲板を濡らしていく。嗚咽混じりの声が続く。
「なにが、“海賊は海に生き、海に死ぬ”だ……」
そんな言葉、今はただの残酷な飾りでしかない。
「……じゃあ……俺は、どうすれば……」
ルキフェルの震える唇から、とうとう堪えきれず言葉がこぼれ落ちる。声は幼いほどに縋るようで。
「お願いだ……置いていかないでっ、俺の前から、消えないでっ」
ルキフェルの心は完全に折れた。肩を震わせ、声を上げて泣く。嗚咽も息も制御できない。獣の咆哮ではない。ただの、どうしようもなく取り残された青年の泣き声だった。マテオは唇を噛みしめ、拳を握りしめたまま涙を流している。声は出ず、頬を伝う涙が止まらない。ニールは片膝をついたまま目を伏せていた。指先が小さく震え、音もなく涙が落ちていくが拭おうともしない。コリンは立ったままルキフェルを見つめていた。目を見開いて、涙をこぼしながら。自分が触れてしまった“本当の痛み”の重さを噛みしめるように。そして、ジャスパーだけは顔を逸らしていた。甲板の影に半分沈んだ表情は見えない。涙を流しているのかどうかも分からないが、肩はわずかに落ち、背中は小さく丸まっていた。
——皆、同じだった。失ったこと。戦い続けてきたこと。守れなかったもの。失われた時間。ようやく“悲しみ”として自覚して、今ここで沈んでいた。甲板に泣き声と波音だけが残る。ただ泣いた。それが、今できる唯一のことだったから。
船医室は静かだ。木製の机の上で、ペン先が紙を擦る音だけが淡々と続いている。ソフィーは背筋を伸ばし、日記帳に文字を綴っていた。書くことでしか、整理できない感情がある。書くことでしか、今日という一日をここに留めることができない。ふと、ペンを走らせる手が止まった。ソフィーが窓の外を見る。海は相変わらず船を運んでいる。規則正しくうねり、陽の光を反射しながら揺れていた。
——さっきまで、外が少し騒がしかった気がする。
叫び声だったのか衝突音だったのかは思い出せないが、空気が騒ついていた。
「……なんだったんだろ」
小さく呟いてからソフィーは首を振る。今は考えても仕方がない。彼女は再び視線を日記へ落とした。
あの日。嵐の日。この船医室で目を覚ましてから、彼女はほとんどここを離れていない。治療。経過観察。安静。すべて正しい判断だったはずなのに、心はどこか落ち着かなかった。この生活がこのまま続くのか。ある日突然、終わりが訪れるのか。答えは誰にも分からない。
ふとソフィーの胸の奥がちくりと痛んだ。マクシムに突き飛ばされた、あの瞬間。彼の背中。迷いのない動き。心が追いつかない。
——あれはなんだったのか。私は何か間違いを犯したのか。
答えの出ない問いが日記の余白に滲んでいく。ソフィーは深く息を吐き、ペンを握り直した。
「……耐えるしかないよね」
誰に向けたわけでもない言葉が、静かな室内に溶けて消える。
外では海賊たちが悲しみに沈んでいることを彼女は知らない。
怒りが砕け、憎しみがほどけ、残された感情に向き合うために彼らが今、立ち尽くしていることも。
この船の中には同じ喪失を抱えながら、互いにそれを知らない者たちがいる。
海は何も語らない。ただ等しく揺れ、等しく運び、失われたものも、これから背負うものもすべてを抱いたまま進んでいく。やがて波は静かに感情を包み込み、沈めるのではなく、受け止めるように揺れ続けるだろう。残された者たちはいずれ次の旅路と向き合わなければならない。だが、今はまだその時ではない。
今は失ったものを想う時間が、この船に必要だった。
——物語は、第五巻へと続く。




