第九章② マクシム隊
スザンヌが目を覚ましたのは、薄暗い中で擦れた天井を見上げた瞬間だった。木の軋む音。微かな揺れ。遠くで風と雨が窓を叩きつけている。
——生きている?
最初に浮かんだのは、そんな疑問だった。嵐の中、視界が暗くなっていったこと。足場が消え、身体が宙に浮いた感覚。あのまま海に落ちたのだとしたら、ここは死後の世界か、あるいは夢か。……にしては、妙に現実的だ。喉は渇き、身体は重く、鈍い痛みが残っている。スザンヌはゆっくりと首を動かし、視線を横に向けた瞬間、息が詰まった。彼女の隣のベッドに座っていたのは、血の滲んだ包帯に身を包んだ男。濡れて乱れた髪、裂けた軍服。顔色は悪く、目の下には濃い影が落ちている。マクシムだった。
「……怯えさせて、すまない」
彼はスザンヌを見ず、窓の外へ視線を向けたまま続ける。
「海賊たちは……去りました。正確には、去ったというより……僕たちが、置いていったと言うべきかもしれません」
船が小さく軋む。ここが船の中、船医室であることをスザンヌはようやく理解し、胸の奥で何かが遅れて崩れた。翡翠色の瞳。雨に濡れた髪。ノワール、あの仮の名で呼んでいた、海の人。ルキフェルを思い出した途端、心臓が痛んだ。昔、命を救われ、突き放された。あの人を追いかけるように、海軍に入ったはずだったはずなのに、彼は海賊で復讐者で、目の前で仲間たちを傷つけ、刃を振るう男だった。スザンヌの胸が締めつけられる。息がうまくできない。
「……大丈夫ですか」
マクシムの声に現実へ引き戻される。スザンヌは言葉を探したが、見つからなかった。
「……その……今は、何も言えません」
マクシムはしばらく黙って息を吐く。
「……分かりました。まずは、安静にしましょう」
それ以上、踏み込もうとはしなかった。自分もまた限界に近いことを、彼自身が一番分かっていたから。彼は生き残った。あの男に殺されかけ、それでもここにいる。その事実が安堵と同時に、言いようのない重さを伴ってマクシムの胸に残っていた。スザンヌは視線を落とす。
——好きになってはいけない人を好きになっていた。
その事実が今になって、痛みとして押し寄せてくる。誇りも憧れも、希望も。すべてが裏返り、胸を刺した。一方で、マクシムは何も言えずにいた。励ましの言葉も慰めも、今の彼には選べなかった。彼の脳裏に浮かぶのは、ただ一つ。ソフィーを守るために、彼女を突き飛ばした瞬間。その結果、彼女が倒れ、意識を失ったこと。思い出すたび、喉の奥が熱くなる。マクシムは俯いたまま涙を落とした。誰にも気づかれないように自分の選択の重さだけを胸に抱えたまま。
サン・マロ撤退を果たしたマクシム隊は、一時的に寄港していた。甲板では、ジョルジュが小雨に打たれながら木箱に腰掛けている。頬には痣。雲の色と海の暗さは、彼の心境をそのまま映しているかのよう。船内へ通じる階段からランタンの灯りが漏れていた。その仄かな灯りの中から、アニータが木を軋む音と共に上がってきた。彼女はざっと見渡したあと、暗がりで項垂れるジョルジュを見つけて水音を立てて歩み寄る。
「風邪ひくよ」
アニータの声に応答はない。アニータはジョルジュと背中合わせになるように腰掛けた。
「気持ちは分かるけど、今夜は休みましょう」
「……血の匂いがして、落ち着かないです」
ジョルジュの脳裏には、船内で羽休めする隊員たちの姿。嵐を抜けたあと、部隊はパニックに陥った。軍医が消えたことで隊員たちは自力で応急処置をしてお互いに包帯を巻き、アニータが奔走し、寄港すると町医者を呼ぶと重傷者から診察してもらう、ほぼ野戦病院だ。今は皆でこれから寝に入るところだったが、ジョルジュは眠れないと悟っていた。
あんな嵐の日は、昔を思い出してしまう。幼い頃の漂流事故、両親と逸れ、小舟の中で銃を握り続けて過ごした夜。
ジョルジュは振り払うように首を横に振ると、ため息と共に額に手を当てた。今はいなくなったソフィーのことが気がかりだ。そんな彼の心配を察したのか、アニータが口を開く。
「明日、朝が来たら出発。ソフィーの捜索は沿岸警備隊に任せるって」
「誰の決定?」
「ライラックとダヴィット。ブレストへの帰還と隊長の医務局送りが最優先だって」
アニータは背後をチラリと見た。暗がりの中で、ジョルジュの肩が震えている。
「……気持ちはわかる」
アニータはジョルジュの背に寄りかかるように息を吐いた。自分たちが加われない悔しさを共有するように。
船内では、長テーブルの上で片眼鏡を拭くシャルルの姿があった。彼女の国への忠誠、真っ直ぐな正義感を恐れて利用した結果がこれか。シャルルは片眼鏡をランタンの灯りにかざしてみた。レンズにひびはない。水滴も拭った。景色は鮮明なのにレンズが曇っているように見える。シャルルの背後、隣のテーブルではグウェナエルが頬杖をついていた。群青の瞳は何かを断ち切ったかのように光がない。船は揺れている、雨はまだ止まない。それぞれ言葉にできない痛みを抱えたまま、同じ夜を生き延びていた。




