第九章① マテオ
船医室。マテオは椅子を壁際に移動させて腰掛け、コリンとソフィーが眠る寝台の両方を視界に収めていた。揺れはだいぶ落ち着いた。まだ二人は目覚めない。
「どっちが先かな」
マテオはすぐ隣の机に目を向けた。机の上には包帯、真水を入れた布袋、冷たいやつ。先ほど樽から汲んできたものだ。女の方は、自分の意思次第。問題はコリンの方だ。あいつが目覚めてから、どうしたものか。マテオはコリンの寝台に向かって唸っていると、別の呻きがマテオの耳に届いた。マテオが音の行方を追うと、あの女が薄く目を開けていた。
「お、起きたのか」
女の目がこっちを向いた。ブルーグレーの瞳に戸惑いやら警戒やらが混じっている。まずこちらに敵意はないことを示さなければ。マテオは眉を顰めながら人差し指で自分を指差した。
「……オレの言葉、わかるか?」
女は一瞬躊躇ったのち、弱々しく頷いた。ベルナルドといい軍人はカスティーリャ語が通じるやつ多くて、憎々しいはずなのに心のどこかで助かってる自分がいる。それにしてもあの戦場、カスティーリャ語となんか似たような音の連続——恐らく、あれがフランス語——が飛び交ってて、今思うと混沌以外に言葉が見つからない。……今更だが、あのグウェナエルっていう目つきが鋭い男、自分たちに聞かせるようにわざわざカスティーリャ語で貶しやがって腹立ってきた。マテオは机の上の布袋を引ったくるように手にした。
「まだ痛いだろ? これ、使え」
マテオは女の方をほとんど見ずに布袋を放り投げた。「わっ」という間抜けな声が飛んできた。
「それで頭を冷やせ」
ほとんど自分に言い聞かせているようなものだ。
「ありがとう」
彼女の小さい声が耳をくすぐって、つい気が緩みそうになる。が、マテオの脳裏はあの戦闘と嵐の映像で埋め尽くされていた。海軍船の甲板で隊員たちが転げ回る様と、自分たちに背を向けて去ったマクシムが過るなり、マテオは椅子に座り直して口を開いた。
「気の毒にな。お前の仲間、さっさと逃げてったぜ」
事実を述べたつもりだったが、女が布袋を後頭部に当てて俯いた途端にマテオは努めて明るく振る舞おうと鼻で笑って続けた。
「あの嵐は、まるで何かの嫌がらせだったな。オレたちは天候の読みには慣れてる。一度目の突風が来た時は、誰だって構えてた。でも二度はないだろうって油断したんだ。戦ってる最中だったからな」
そう、あれは自然現象。人はいつだって自然現象に勝てるわけないとマテオは御託を並べていった。人工呼吸したなんて口が裂けても言えない。
「ま、そうなりゃ海軍の連中も戦闘どころじゃない。オレたちと同じく、生き延びる方を選ぶしかなかったわけだ」
女はまだ俯いていた。あれは恐らく頭を冷やすためじゃない。マテオはため息を吐いて、いまだ眠るコリンに目を向けた。
「……まあ、そういうわけで、そこにいるコリンもお前の仲間にやられた。運が悪かったな。元はと言えば、戦闘に出さなけりゃよかったんだが」
今言っても言い訳にしかならない。あの場に乗り込むと決めたのは自分たちだったから。暫く静まり返っているとコリンが呻き声を漏らして目を開ける。
「お、起きたか」
マテオが声をかけるもコリンは返事をせず身じろぎしたが、右腕を押さえて顔を顰めた。
「無理すんなよ。まだ治りかけなんだから」
マテオは椅子から立ち上がり、コリンの寝台のそばで彼の腕を観察した。両腕の包帯は殆ど赤い。一度、包帯を取ってみるかと思案していたところに、扉が勢いよく開いた。のそのそと入ってきたのは、ジャスパーだった。お互い様だが、濡れ鼠みたいになっている。
「マテオ、二人の容態は?」
ジャスパーの問いにマテオはコリンと女をチラ見しながら答える。
「ジャスパー。ああ、目は覚ましたけど、さてこの先どうするかね」
「ルキフェルが話す気になるまで、待てばいいよ」
適当に答えたジャスパーに、マテオは怪訝な顔をする。コリンの怪我の処置について意見を尋ねたかった。言葉足らずな自分も悪いが、この赤髪はすでに針路の方を向いているらしい。そんなジャスパーはコリンに歩み寄って彼の腕を観察し始めた。マテオはジャスパーの背に向かって再度問う。
「コリンの腕、やっぱり駄目か。切るしかないのか?」
マテオの震える声に、ジャスパーは振り返りもせず重々しく頷くとコリンの包帯を解いて傷口を確かめた。右腕は銃創、左腕は事故的な切創。マテオは一目見るなり、義手の腕を押さえた。
「……これ、シャルルさんの仕業?」
マテオが声がした方を振り返ると、あの女は身を起こしてコリンの腕を凝視していた。マテオは脳裏にコリンが撃たれた瞬間を思い返していた。自分が手を伸ばした先、オレンジ髪の片眼鏡男が銃口から火を噴いた瞬間を。
「ああ、オレンジの髪に眼鏡のやつだろ?」
そう言ってマテオはジャスパーの隣に近寄り、コリンの左腕をじっくり見た。コリンはというと顔が青ざめて額に汗を浮かべて自分の両腕を見ている。
「ああ。貫通はしてないけど、弾は残ってる。オレは医者じゃないから分からんけど、神経も骨もやられてるだろうな」
マテオは肩をすくめた。暗殺者時代の知識だけで所見を述べたが、ジャスパーの視線が突き刺さってくる。しょうがないだろう、自分は本格的に人を治す術を知らないんだから。
「使い物にならないってこと……?」
女の言葉にジャスパーは目を細めた。切断は当たり前だ。ジャスパーもコリンも、マテオは特に嫌というほど理解していた。自分がそうだったから。義手を抑える手が白くなって、木製の機構が軋む音が室内に響く。
「待って」
沈みかけた室内に、凛とした声が突如として響いた。マテオとジャスパー、コリンが顔を上げると、女は布団を払いのけて胸に手を当てていた。
「その子の治療、私にやらせてくれない? 私なら……腕を切り落とさずに済むかもしれない」
静寂が漂う。マテオとコリンは頭に疑問符をいくつも浮かべて口を閉ざし、ジャスパーは真っ白になった頭のキャンバスから言葉を掴みかけていた。
「あんた、医療の心得があるのかい?」
辿々しく言葉を紡ぐジャスパーに、女は深く頷いた。
「マジかよ……」
マテオは思わず呟いていた。というか、言葉がそれしかない。ジャスパーは舵を高速回転させる勢いで逡巡する。相手は海軍員だ。信用はできないが感染リスクを考えれば、やるなら今しかない。あまり間を開かずにジャスパーはこくりと頷いた。
「わかった。コリンが嫌がらなければ、あんたに任せようか」
コリンが「え」と声を上げかけるもジャスパーは遮った。
「おれだって、仲間の腕を切り落とすのは気が進まない」
ジャスパーの微笑みには、いくつも荒波を越える中で何度も地獄を見てきた者だけが手に入れられるものだった。その地獄の中に自分も含まれていると悟り、マテオは無言で頷く。コリンは覚悟を決めたように唇を結んでいる。女は彼らの反応を待っていたのか寝台から降りると、海軍制服の内ポケットから帆布製の巻物のような道具袋を取り出して机の上に広げた。切開用のナイフ、縫合用の針と糸、弾丸取り出し用のスプーン。その中に、草根の乾燥片も見受けられる。マテオはそれを見て嫌な予感が胸の内を引っ掻き始めた。案の定、女が草根に手を伸ばしたのでマテオはズカズカと歩んで女の腕を取った。
「おい、それ……毒じゃないよな?」
マテオの額から汗を一筋流れる。女はマテオを見上げて微笑んだ。
「マンドレイク。少しだけ口にすれば、眠り始める。……痛みを感じずに済むはずよ」
マテオはジャスパーを振り返った。目が合うなり、ジャスパーはコリンをチラ見する。コリンはというと……目が爛々として口を開けていた。明らかに痛みより好奇心の方が勝っている。マテオはため息を吐いて女の手を離した。女はマンドレイクの根を手にしてコリンに歩み寄った。
「はい」
女が草根を摘んで差し出すと、コリンはパクリと咥えて顔を顰める。
「にっ……」
苦いと言い終える前にコリンはふにゃふひゃと寝台に沈んでいった。その後、女は例のスプーンで弾丸を摘出し、先ほどの布袋の紐を解いて中身の水を桶に移し替える。女が傷口の洗浄を始めたところで、ジャスパーは船医室を去る際にマテオに耳打ちした。
「外の様子、見てくる」
マテオは無言で頷くと、ジャスパーは女をチラ見してから今度こそ廊下に出ていった。マテオは腕を組んで壁に寄りかかりながら、女のテキパキとした手術を見学していた。鉄の匂いが部屋を充満する中、針と糸で縫合をする彼女の真剣な横顔を眺め、マテオは目の前の女がただの医者ではないことを本能で感じ取った。
ソフィーが目を覚ましたあとも、ルキフェルは船長室から一歩も動かなかった。船医室では意識を取り戻した女がすぐに状況を把握し、迷いのない手つきでコリンの治療に入ったらしい。それを伝えに来たのが、ジャスパーだった。甲板に出たジャスパーは船尾階段を上がり、舵輪を握るニールに軽く手を振って通り過ぎた後、船長室の前に立ってノックする。返事はない。もう一度、控えめに叩く。それでも沈黙。ジャスパーは一度息を吐き、扉越しに声を投げた。
「……ルキフェル。話さなきゃいけないことがある」
中は静まり返っている。
「お前の前に現れた、あの女の士官だ」
ジャスパーの言葉に、室内でわずかに気配が動いた。
「嵐の中で仲間に置いてかれたらしい。名前はまだ聞いてないけど……どうも医者みたいだ。コリンは、今その人に治療されてる。手術中だ」
——は?
扉の向こう、ルキフェルはハッキリと顔を上げた。一度でも信じた女。剣を向けられても言葉を交わし、心を揺さぶった女。その本人が、この船にいるだと。 しかも、撃たれたコリンを治療している。理解が追いつかない。何か言おうとして、喉が動かなかった。扉の向こうで、ジャスパーは続ける。
「あの姉ちゃんの処遇のことで、話し合いたい。……今、そんな状態になれないのは分かってる。それでも、話を聞いてほしい」
だが、ルキフェルの意識はもうそこになかった。頭の中に声が蘇る。
——あなたは、彼の死に意味を持たせたかったんじゃないの?
耳を塞ぎたくなるほど、はっきりと残っている。
——でもそれが、“誰かを殺すこと”でしか叶えられないなら……それは、彼の最期を汚すだけだわ。
続けて、もう一つの声。もっと古く、もっと深い場所に刺さっている言葉が木霊する。
「お前が、どれだけ傷だらけでも……誰からも光を奪わずに、希望をもたらすことができる。——俺も、その光に救われた人間だ」
——光。フランソワの声だった。彼の言葉が胸の奥で爆ぜた。
「……っ!」
ルキフェルは机に向かって踏み込み、両の拳を叩きつけた。ドンと鈍い音が船長室に響く。怒りか。悔しさか。それとも、今さら気づいた自分自身への嫌悪か。外にいたジャスパーは一瞬だけ肩を強張らせたが、何も言わない。しばらくして息を吐く。
「……そうかよ」
ジャスパーは扉の向こうに向かって穏やかに言う。
「なら、おれはいつでも待つから」
足音が遠ざかっていく。船長室には再び沈黙が戻った。嵐はもう去りつつあるが、ルキフェルの中では今まさに本当の嵐が吹き荒れていた。
船医室。女が最後の糸を切り終えると深く息を吐いて手を拭った。マテオは値踏みするように首を傾げていると、ジャスパーが船医室に戻ってきた。彼は寝台でまだ寝ているコリン、そして彼の縫合された両腕を見て口を開く。
「無事に終わったみたいだな。……半分疑ってたが、本当だったんだな」
女はジャスパーに微笑みかけて、机の上に散らばった道具をハンカチで拭いながら片付け始める。
「思ったより傷が浅くて助かったわ。……この子、丈夫な身体してるみたいね」
マテオは思わず顔を顰めたが、頷いた。
「だろ? 意外と打たれ強いんだ」
自分の所見と違ったことにジェラシーを抱えながら。その後、女はマテオの義手に目を留めて興味津々の様子だった。マテオは義手を動かしながら説明し、ついでにコリンの発明品であることも明かして仲間自慢もした。信じられないとか抜かしやがるので、マテオが意地を張って女としばし口論に発展したところで、ジャスパーが口を挟む。ジャスパー曰く「あいつ」は引きこもりだと。やがて、ニールが船医室にやってきた。
「天候、少し落ち着いたよ。進路はトルチュ島方面に向けてる。……少し揺れても、もう安心していい」
ジャスパーがニールに目を向けるなり微笑んだ。
「ありがとうな、ニール」
ニールがソフィーを見つけると爽やかな笑顔で手を差し出した。
「ようこそ、海軍医さん。僕はニール・セイルハート。フランソワの船では航海士だったんだ。君の勇気、見ていたよ」
「ありがとう。ソフィー・ルノアール。海軍医よ」
差し出された手に応じて、女——ソフィーが握り返す。マテオが小声でぼやいた。
「オレはヒヤヒヤしたけどな……まったく、何言い出すかと思ったぜ」
ジャスパーはマテオの言葉に苦笑していたが、握手を交わすニールとソフィーをじっと見ては口を開く。
「そういえば、ソフィー。……あの時、あんたはアイツらに何を言われたんだ?」
三人がソフィーに目を向け、コリンが薄目を開けてこっそり聞き耳を立てる中で、彼女の口から飛び出したのは何とも複雑なストーリーだった。まず、ルキフェルの人質事件の際、ソフィーはシャルルから「海賊の掟」について聞かされたそう。フランソワ海賊団には「同胞の命を絶った者には、同胞と同じ死を与えよ」という掟がある、と。
「……待て、そんなものはない」
マテオは手で制しながら眉を顰める。
「そもそも復讐は、あいつ……」
マテオは喉から愛称がせり出しそうになったが、混乱を招きそうなので仕切り直した。
「……ルキフェル、が勝手に始めたことだ。オレたちは止めるタイミングを逃しただけ。規律のせいじゃねぇ」
その後、コリンがむくりと起き上がって四人でストーリーの続きを聞いた。
ジャスパーの指摘通り、シャルルはソフィーに「嘘の掟」を意図的に教えたそう。すっかり信じてしまったソフィーは、掟を逆手に取ってルキフェルに復讐を思い留まらせようと飛び出したわけだ。
「さんぼーかんって?」
コリンが好奇心から話を中断してソフィーが答える。
「作戦の指揮や分析を担当する、隊長の補佐役よ。あのオレンジ髪の眼鏡の人」「ああ、ジャスパーとニールがケンカ吹っかけたアイツか」
マテオが思い出したように笑い、ニールが慌てて口を挟んだ。
「ちょっと、それは誤解だよ! 僕は正義の名のもとに成敗しようとしただけなんだからね」
ジャスパーはただヘラヘラしていた。
「おれは、隣にいた目つきの悪い男が嫌いだったから殺したかっただけー」
コリンは冷めた目を三人に向けていた。
「……ねえ、誰かぼくの安否を心配してくれてもいいんじゃないの?」
拗ねている。自分が怪我した裏で、敵に喧嘩吹っかけた者たちに対して。その後、今度はソフィーが彼らに「フランソワの死」を直接見たか聞いてきた。四人の顔に陰が差し、否定する。彼らが駆けつけた時には全てが終わり、船が爆破されてフランソワの海賊帽が流れついた。
「だから、てっきり敵にトドメを刺されたと思ってたよ」
ニールが話に補足する形で入ってきた。
「……となると、あの戦闘狂は早合点して、海軍相手に本気でやり返すところだったのか。あいつ、マジでやらかすところだったな」
マテオが頭をかく。脳裏に浮かぶは、引きこもりのルキフェル。それぞれが言葉を失う中、ジャスパーが真面目な眼差しでソフィーを見つめる。
「あんたが見たこと、教えてほしい。船長の最期……どうだったんだ?」
彼らの真摯な瞳を前に、ソフィーはまっすぐに口を開いた。
「……彼は、深手を負いながらも追手を振り切って、海へ飛び込んだわ。笑っていた。『この首、渡さない』って、そう言い残して」
しばらくの沈黙の後、ジャスパーは口を開いた。
「わかった。あんたが見たことを信じよう」
断片的な情報、真実の輪郭もぼんやりとしていたが、今はそれでいい。何も知らないよりマシだった。




