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報復の航路 【第二作 ルー・ブレス】3・4巻「覚醒編」  作者: セキユズル
第八章「……俺を、嵌めたのか?」
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第八章② 五人組

 海賊船の甲板に着地すると同時に、ジャスパーとニールが動き出す。舵。ロープ。帆。船の進路を変えなければ、全員が沈む。波が横腹を叩き、船体が悲鳴を上げる。その最中、ルキフェルの視界の端に異変が映った。海軍船の縁。誰かが、必死に掴まっている。細い指。滑る。落ちる。ルキフェルの胸が反射的に強く鳴った。考えるより早く声が出る。


「——飛び移れッ!!」


 嵐を裂く叫び。それが誰に向けたものか、はっきり自覚する前にもう声は風に持っていかれていた。守れなかったもの。置いてきたもの。それでも、今この瞬間に掴める命があるなら。ルキフェルは滑るように船尾に向かい、舵を握る手に力を込めた。だが、舵はまるで岩に噛みついたかのように動かなかった。風が逆巻き、波が船腹を殴りつけるたび船体が悲鳴を上げる。


「っ……もう、なんなんだよこれ!!」


 ジャスパーが悪態を吐き、全体重をかけて舵を引くが船は応えない。まるで海そのものが進路を拒んでいるかのようだった。ルキフェルは歯を食いしばり、無言で舵を支え続けていた。腕が軋む。指先が滑る。視界は雨で歪み、潮と風の匂いが喉を刺す。今、離せば終わる。誰がどうなっているか。甲板で何が起きているか。考える余地はない。今はただこの船を生かす。


「動け……っ!」


 唸るように力を込めた、その時だった。


 ——ドサッ。


 甲板側から鈍い音がした。嵐の中でもはっきり分かる、人が倒れる音だった。マテオがはっと顔を上げ、反射的に音の方へ駆け出した。


「……今の、なんだ?」


 雨に打たれ、身を投げ出すように倒れている人影。近づくにつれ、マテオの胸の奥が嫌な予感で締めつけられる。


 ——女?


 濡れた髪。軍服。そして、その顔を見た瞬間、マテオの言葉が抜け落ちた。


「……え、え? なんで、ここに……?」


 思考が追いつかない。ついさっきまでルキフェルと向き合っていた女。説得していた女、海軍の士官——ソフィーだった。マテオが海軍船に目を向けると、慌ただしく人が行き交う甲板の上で体を引き摺るように階段を降りていくマクシムと、スザンヌを抱えて船内へ消えるダヴィットの姿を捉えたが、マテオの意識はすでにソフィーに向いていた。マテオは慌てて膝をつき、彼女の側に手を伸ばす。


「おい、聞こえるか!」


 ソフィーの肩を叩くが、反応はない。マテオは顔を近づけ、息を確かめたが……ない。


「……っ、クソ……」


 頭部。打撲の有無。腫れ。裂傷。大きな外傷は見えないが、呼吸がない。


「まずい……!」

「マテオ!」


 駆け寄ってきたニールが息を呑む。


「医務室に運ぼう、今すぐ——」

「ダメだ!」


 マテオは即座に遮った。


「今動かすな! 下手に揺らしたら、逆に危険だ!」


 雨と風の中でマテオの声だけが鋭く通る。


「ニール、お前は下に行け。コリンの治療を優先しろ。船医室に包帯があるはずだ、全部使っていい!」

「……わかった!」


 ニールは頷き、船内へと走っていく。マテオは再びソフィーに向き直った。呼吸。脈。確認するたび焦りが胸を締め上げる。


「……くそ……」


 その頃、船尾ではジャスパーが叫び、舵を叩くように引く。


「だあああああっ!! ほんっとに動かねえ!! このままじゃ、流されるぞ!」


 ルキフェルは答えない。全身を使って舵を押さえ、嵐に抗っていた。甲板で誰かが倒れたことも、誰が倒れたのかも、まだ知らない。彼は今、船尾で嵐と向き合っている。そして、甲板では取り返しのつかない事態が進行していた。雨がやけに遠く感じられる。甲板を叩く音も風の唸りも、今は背景に押しやられている。マテオはソフィーの顔を見下ろしたまま動けずにいた。濡れた前髪が額に張りつき、唇はわずかに開いたまま。胸は動かない、息がない。喉が鳴る。一度、視線を逸らした。


「……悪いな」


 誰に言ったのか、自分でも分からない。それでも、言葉にしないと動けなかった。マテオは震える手で、ソフィーの顎に指をかける。頭部をそっと後ろへ倒し、気道を確保する。胸に耳を近づけるが、何も聞こえない。


「許せ」


 マテオは一瞬だけ目を閉じ、覚悟を決めた。唇を引き結び、雨を振り払うように顔を近づける。自分の口で彼女の口を覆い、息を吹き込む。肺いっぱいに吸い込んだ空気を迷いなく送り込んだ。胸元がわずかに持ち上がる。


「……っ」


 二度目。もう一度、深く息を吸い、吹き込む。マテオは顔を上げ、すぐに胸骨の位置を確認した。両手を重ね、腕を伸ばす。

「……一、二、三……」


 一定のリズムで、圧迫。船の揺れに合わせてではなく、自分のテンポで。雨が頬を打つが、視線は一切逸らさない。数回繰り返した時、ソフィーの喉がひくりと動いた。


「……!」


 マテオの動きが止まる。もう一度、顔を近づけ、耳を寄せる。……微弱だが、息だ。


「……よし……」


 マテオの喉の奥から息が漏れたが、まだ安心できない。


「まだだ……戻れ……」


 マテオは呼吸を確認しながら、ソフィーの体勢を整える。気道を確保したまま、様子を見る。ソフィーの胸がわずかに上下する。不規則だが生きている。その時、マテオの肩がようやく落ちた。濡れた前髪をかき上げ、深く息を吐く。


「……ったく……勘弁してくれよ」


 誰に向けた言葉でもない。嵐に向けてか、自分に向けてか、それとも——。彼は倒れたままのソフィーの側から離れなかった。まだ何も終わっていないと分かっているから。甲板の向こうでは舵を巡る怒号が続いている。嵐はまだ去らない。それでも、この甲板の片隅で一つだけ命が繋ぎ止められた。雨脚がわずかに弱まった。甲板を叩いていた水音が轟音から重たい連打へと変わる。波もまた牙を剥くのをやめたわけではないが、さっきまでの狂乱からは一段力を落としている。


「……おし。この風なら、いける。今だ」


 舵を握ったままジャスパーが歯を見せた。ルキフェルは何も言わず頷く。濡れた手に伝わる舵の抵抗。船体がゆっくりと向きを変えていく。軋みながらも船は応えた。嵐の中で、ようやく進路という概念が戻ってくる。一方、マテオは倒れたままのソフィーを見下ろし、息を吐いた。雨に濡れた軍服。冷えきった指先。今は息をしているが、このまま放っておけば別の危険が来る。


「……仕方ない」


 自分に言い聞かせるように呟いてから、慎重に彼女の身体を抱き上げた。軽い。驚くほどだが、その重さがあるからこそ生きていると分かる。揺れる足場に注意しながら、マテオは船内への階段を降りていった。雨音が徐々に遠のく。船医室の扉を押し開けると、湿った木と薬品の匂いが混じった空気が鼻を打った。中では、ニールがコリンの左腕に包帯を巻いている。動きに無駄がない。血の赤が白布に滲んでいる。一瞬だけ二人の様子を横目で確認してから、マテオは空いているベッドへ向かった。ソフィーをそっと横たえ、呼吸を確かめる。大丈夫だ。まだ戻れる。一瞬、逡巡する。


「服は、このままにしとくか」


 無理に脱がせるより、今は体温を奪わないことが優先だ。濡れた軍服の上から毛布を引き寄せ、丁寧に被せる。ソフィーの肩口まで覆い、隙間ができないように整える。マテオはしばらくそのまま立っていた。船医室の外で、再び船が軋む音がする。マテオは一度だけ深く息を吐き、踵を返した。まだやることは山ほどある。マテオは濡れた前髪を指で払うようにしてニールを見た。


「……コリンは?」


 ニールは包帯を片しながらベッドに目を向ける。


「気を失ってる。とりあえず止血と固定はした。今はこれ以上、触らない方がいい」


 言い方は冷静だったが、決して軽くはない。ニールは顔を上げる。


「僕、外の様子を見てくるね」


 マテオは一瞬だけ考えて頷いた。


「ああ。頼む。……オレは、こいつらを見とく」


 そう言ってマテオはソフィーとコリンのいる方を顎で示す。


「側にいてやらないと」


 ニールは息を吐き、何も言わずに頷いた。足音を殺すように船医室を出ていく。扉が閉まる音がして、室内に残ったのは呼吸音だけだった。マテオはベッドの脇に腰を下ろし、二人の様子を交互に確かめる。コリンは浅い呼吸のまま、額に汗を滲ませている。ソフィーは布団をかけられ、まだ意識は戻らない。マテオはため息を吐き、二人から目を離さなかった。



 一方、甲板。船はまだ大きく揺れていたが、さっきまでの殺しに来る波ではない。流されながらも、ようやく一つの流れに乗った感覚があった。ジャスパーは舵を握ったまま、空と海を何度も見比べている。風は強い。星も見えない。座標など、あってないようなものだ。ジャスパーは息を吐いた。


「……よし。ここからは、おれ一人でやる」


 ルキフェルが振り向く。


「一人で?」

「うん。勘と、潮と、風と話す」


 冗談めいた言い方だったが、ジャスパーの目は真剣だった。


「今はそれしかねえ。下手に二人で触ると逆に持ってかれる」


 ルキフェルは一瞬、言葉に詰まるが、すぐに理解した。この状況で、最も信用できるのは理屈ではなく、海に身を預けて生きてきた男の直感だ。


「……任せる」


 それだけ言うとルキフェルは舵から手を離した。揺れる甲板を慎重に進み、船長室へ向かう。扉を開け、内へ入って扉を閉めた。外の風と波の音が、わずかに遮断される。ルキフェルは扉に背を預けたまま、ずるりと沈み込んだ。濡れた髪から水が滴り、肩で荒く息をする。声は出なかった。今日、救った命。救えなかったかもしれない命。知られてしまった過去。信じてしまった言葉。引き裂かれた記憶が一気に押し寄せてくる。ルキフェルは片手で顔を覆い、しばらくそのまま動かなかった。



 ニールが甲板に出ると、まず目に入ったのは舵輪に向かうジャスパーの姿だった。荒波と向き合っているというより、言葉通り対話しているように見えた。舵輪を握る腕は力んでいないが、目は海から一瞬も離れていない。波のうねり、船の揺れ、風の向きを感じ取ろうとしている。ニールは甲板の縁へ歩み寄り、海へ視線を向けた。


 ——落ち着いている。


 完全にではないが、さっきまでの牙を剥いた波ではない。雨も風も弱まっている。どうやら嵐の中でも一番荒れた場所はすでに抜けたらしいが、ジャスパーの様子を改めて見るとどこか危うさがあった。船を立て直すことには成功しているが、どこへ向かっているかについては本人も掴みきれていない。その証拠に舵輪を握る彼の手がわずかに迷っていた。しばらくして波がひと段落した瞬間、ジャスパーが舵輪に額を預けるようにして崩れ落ちる。


「はあああああああ……」


 ニールは甲板を歩き、階段を上がりながら声をかけた。


「変わろうか?」


 ジャスパーが顔だけこちらに向ける。


「ん?」

「進路決定は航海士の仕事だ」


 ニールの言葉に、ジャスパーは一瞬きょとんとしたあと苦笑した。


「あー……確かに」


 ジャスパーは舵輪から手を離し、ぐっと伸びをする。


「任せるわ。おれが続けるとこの船、迷子になる」


 そう言ってジャスパーは濡れた髪を乱暴にかき上げた。


「身体、拭いてくる。ついでに船医室も寄ってくわ」


 言外に様子を見てくるという意味を含ませて。ニールは頷いた。


「頼んだよ」


 ジャスパーはそれだけ聞くと甲板を後にした。ニールは残された舵輪を握り、懐に手を入れて羅針盤を取り出す。蓋を開いた瞬間、針は揺れながらも一方向を示していた。ニールは目を閉じ、頭の中に地図を広げる。島影。海流。風向き。さっきまでの流され方を重ね合わせて、進路を一本の線にまとめる。


「……とは言っても、ひたすら西へ向かうだけなんだけどね」


 独り言のように呟いたあと舵輪を切る。船はゆっくりとその向きを定め始めた。

 トルチュ島へ、それぞれが傷を抱えたまま戻るために。

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