第八章① ルキフェル
雨に打たれながら、ルキフェルはもう一度スザンヌを見下ろした。成長した。輪郭も背丈も、纏う雰囲気も。だが、こうして眠る横顔だけはあの時と同じだ。胸の奥で忘れかけていた熱がじわりと蘇る。馬鹿げている、今は戦場だ。嵐のただ中だ。生きているなら、起こさなくては。ルキフェルは無意識にスザンヌに手を伸ばしかけた。
甲板の端で黒髪の少年が顔を激しく振る。コリンは目に張り付いた雨水を払い落としながら、左腕に走る違和感に眉をひそめた。視線を落とすと、袖が裂けている。血が雨に混じって流れていた。
「いつの間に……」
嵐の揺れ。混乱。誰かとぶつかった記憶。考える暇もなく、コリンは顔を上げた。甲板の中央で、ルキフェルが倒れた女性士官に気を取られている。何をしているんだろうと思った時、奇妙な静止があった。二人から離れたところ、オレンジ色の髪。片眼鏡。雨の中でやけに落ち着いた所作。シャルルだ。彼が銃を構えている。
「……え?」
銃口の向きを一瞬で理解した。——ルキフェルだ。
「……っ!」
コリンは声を出す暇はなかった。走る。土砂降りの中、甲板は滑る。船体が揺れる。足を取られるが、それでも止まらない。
「間に合え!」
ルキフェルの指先がスザンヌの頬に触れるか否かの刹那、コリンは左腕を押さえたまま前に出た。引き金が引かれる。火花。衝撃音。雷鳴を裂くような、乾いた音。
——パンッ。
世界がはっきりと割れたと同時にドンと鈍い衝撃。次の瞬間、コリンの右腕に焼けるような痛みが走る。
「——っ!!」
短い叫びが雨に溶けた。ルキフェルはその光景をはっきりと見てしまった。前に出た背中。弾かれる身体。右腕から噴き出す血。世界が反転する。喉から声が零れ落ちた。
「そんな……コリン!!」
絶望が遅れて襲いかかる。雨音の向こうで、火薬の匂いがまだ消えきらない。ルキフェルは、倒れた少年から視線を離せないまま、わずかに肩を強張らせた。遅い。気配を感じ取った時には、もう動いていた。首だけを回し、鋭く横を見る。煙を上げる銃。引き金を引いたままの手。シャルルは濡れた軍服の襟を正しながら、講評でもするかのように口を開く。
「ソフィー。ご立派な判断で、スザンヌ嬢の命を救ってくださいましたね。まさか嵐がもう一度来るとは、我々も想定外でしたが」
ルキフェルの指が無意識に震えた。“我々”。違和感が胸の奥で小さく弾ける。シャルルは楽しげに言葉を継いだ。
「——ところで、君に教えた“あの掟”。覚えているかな?」
掟。その単語を聞いた瞬間、ルキフェルの思考が止まった。
「フランソワ海賊団の『同胞の命を絶った者には、同胞と同じ死を与えよ』というやつ」
「……なんだと?」
ルキフェルの口から低い呟きが漏れた。何だ、それは。理解より先に困惑が走る。ルキフェルの脳裏に数えきれない会議の記憶が浮かぶ。船団規約。補給規定。処罰条項。自分が書き、自分が修正し、自分が守らせてきたルールの数々。そんな項目はどこにもない。雨に濡れた甲板を踏みしめながら、ルキフェルは立ち上がった。
「俺たちの間に、そんな規則は……存在しない」
シャルルは小さく肩を揺らして笑った。まるで種明かしをする子供のように、あっさりと言う。
「ああ、やっぱり君は聡いね。そう。そんなもの、最初から存在しないよ。船上生活にルールは必要だ。でも、“報復”なんて過激な項目は、どこを探してもない」
シャルルはそう言いながら、片眼鏡の奥の冷たい光をルキフェルではなくソフィーを捉える。
「でもさ、“そういう話があるはずだ”って言っただけだったのに……君、うまく信じてくれたね。勝手に誤解して、勝手に動いてくれた」
シャルルの視線がはっきりとソフィーに向けられているのを、ルキフェルは理解した。一瞬、世界の音が遠のく。
嵌められた。信じた。信じさせられた。そして、利用された。
ルキフェルの喉の奥で獣の息遣いが蘇る。理性の裏側で、牙が軋む音がした。裏切られたという理解が血肉になる。次に来るものを、ルキフェル自身が一番よく知っていた。彼はゆっくりとソフィーの方へ振り返る。濡れた髪が額に貼りつき、その隙間から覗く瞳が鈍く光る。それは怒りだけの目ではない。憎悪だけでもない。一度、信じてしまった人間の目だった。理性の皮を一枚ずつ剥がされ、その下から露わになった獣が息をしている。あの言葉。あのまっすぐな視線。フランソワの最期を語った声。……信じた。ほんの一瞬でも、信じた。だからこそ、喉の奥から掠れた声が零れ落ちる。
「……俺を、嵌めたのか?」
確認ですらもう必要のない問いだった。彼の声音に滲んでいたのは、怒りではない。ましてや殺意でもない。信じたものに、裏切られた痛み。胸の奥で何かがひび割れ、その隙間から黒く濁った感情が溢れ出してくる。……そうか。ならば、もういい。理解しようとしたことも。意味を探そうとしたことも。フランソワの誇りに縋ろうとしたことも。全部、無駄だった。一方、シャルルはソフィーすら見ようとしなかった。まるで最初からそこにいないものとして扱うように。
「孤狼の海賊よ。君はなぜ、隊長の命を狙う?」
考える余地などなかった。ルキフェルはシャルルを睨んで低く吐き捨てる。
「……愚問だ」
胸の奥で怒りが煮え立っていた。騙され、利用され、それでもなお正しさを語られることへの嫌悪。
「だったら俺が、そのくだらない掟を全うしてみせようか? 船長の命を奪ったなら、首領の命で償う。それが当然だ。他に言うことがあるなら、さっさと口を開け」
シャルルは笑った。まるで盤面通りに駒が動いたことを楽しむように。彼の横で一人の男が前へ出た。グウェナエル。確定事項を告げる者の立ち姿だった。
「ならば、俺からも言わせてもらう」
彼の声を聞いた瞬間、ルキフェルの思考が遅れる。そこにあったのは氷のような意志だった。
「金輪際、俺たちに関わるな」
——は?
一瞬、理解が追いつかなかった。今、何の話をしている。グウェナエルはルキフェルではなく、ソフィーへ視線を向けたが、その目にあったのは仲間を見る眼差しではなかった。無関心。徹底的な切り捨て。
「……それが、マクシムの望みだからだ」
彼の言葉が落ちた瞬間、ルキフェルの胸の奥で何かが引っかかった。
——望み? 誰の、何の。
ルキフェルが理解しようとする前に、グウェナエルは続ける。
「俺が守るのは、マクシムだけだ。あの人が見ている先のためなら、誰を切り捨てようと構わない」
仲間も。命も。そして——。
「お前も」
ルキフェルの眉がわずかに歪んだ。……なんだ、これは。怒りが急速に冷えていく。代わりに説明のつかない違和感が広がっていった。グウェナエルの声は揺れない。
「……マクシムは“理想”を信じてる。それを邪魔するものを、俺は許さない。お前は、自分の正義で、それを踏みにじった。——それだけだ」
理想。正義。望み。単語だけがルキフェルの頭の中を浮遊する。
——は? 意味わからん。
さっきまで、敵ははっきりしていたはずだった。騙した者。殺した者。奪った者。だが今、目の前ではこいつらが、身内同士で刃を突き立てている。守ると言いながら、切り捨てる。信じると言いながら踏み潰す。理想のためなら、誰を殺してもいいと平然と口にする。ルキフェルは言葉を失った。怒りはまだある。憎しみも消えていない。だが、それ以上に理解不能なものを前にした時の、純粋な混乱が胸を満たしていた。
——なんでだ。なんで、こいつら……身内で歪みあってる? 理想を信じてる? そのために、誰かを切り捨てるのが“正解”? もう、何が何だかわからねえ。
ルキフェルは無意識のうちに一歩、退いていた。怒りで踏み出したはずの足が、理解不能な光景を前に止まっていた。敵は、誰だ。その問いに、答えはまだ出なかった。甲板の空気が音を立てて裂ける。グウェナエルが懐に手を差し入れた直後、明らかに間の抜けた声を上げた。
「……あ!? 銃もナイフも誰かに渡しちまった!」
次の瞬間、炎のような赤が自分たちの視界を横切った。剣。速い。迷いがない。グウェナエルの目前に、ジャスパーが躍り出る。刃と刃が噛み合い、金属音が甲板を震わせた。力と力の衝突。だが、そこにあるのは純粋な殺意ではない。
「ダサいねえ。道具がないと何もできないって? 少しは骨があるかと思ってたのにさ」
二人のやり取りをルキフェルは一歩引いた位置から見ていた。なんだ、これは。怒鳴り合いでも、統率でもない。剥き出しの感情と歪んだ忠誠だけがぶつかっている。ルキフェルが視線をずらすと、シャルルの前にはニールがすでに立っていた。剣を構え、互いに一歩も動かない。睨み合い。言葉は少ないが、空気が張り詰めている。
「それだけ“隊長”ってやつには、命を張る価値があるんだ?」
ニールの声音は軽いが、目は笑っていない。シャルルは薄く笑っただけだった。肯定も否定もせず、ただ盤面を眺めるような目。その光景を背に、ルキフェルはゆっくりと視線を落とした。甲板に横たわる、スザンヌ。まだ意識は戻らない。雨に濡れた睫毛。荒れた呼吸。喉の奥が、ひくりと動く。
——こんな連中のもとで、剣を握っていたのか。
正義だの、理想だの、掟だの。どれも口にしているが、実際に見えるのは身内同士で噛み合わない歯車と、誰かの理想のために他を切り捨てる覚悟だけだった。突如、また船が大きく揺れた。悲鳴。怒号。誰かが足を滑らせ、誰かが掴み、誰かが落ちかける。その混乱の中でマテオの声が飛んできた。
「お前ら、早くこの場から逃げるぞ!」
ルキフェルが視線を上げると、マテオがコリンを両腕に抱え、すでに海賊船へと飛び移っていた。血に濡れた少年を庇うように必死の形相だ。続いて、ジャスパーが舌打ちしながら後退し、ニールも一瞬だけシャルルを見据えてから、船縁を蹴る。
「ルカ、諦めろ!」
マテオの声が風に混じって届いた。ルキフェルは歯噛みした。剣を強く握りしめたまま一瞬、躊躇する。彼の視線がもう一度スザンヌへ戻った。置いていく。今は、それしかない。それでも、胸の奥で何かが軋んだ。連れて行けない。守れない。今は。
「……チッ」
舌打ちし、刃を剣帯に収める。最後にもう一度だけ眠る彼女の姿を焼き付けるように見てから、ルキフェルは船縁を蹴って嵐の中を飛んだ。




