第七章 ルキフェル
二人は見つめ合っていた。ルキフェルは目を逸らせず。彼女の瞳が過去と現在をまとめて引きずり出し、否応なく胸の奥を掻き乱す。スザンヌもまた視線を外せずにいた。恐ろしいはずの男の姿がなぜか輪郭を失い、別の何かにすり替わっていく。理解できない感覚が拒めない。ルキフェルの喉が微かに動いた。名を呼ぼうとする。意識する前に唇がその形を作りかけた瞬間、掠れた声が二人の間に落ちた。
「……やめろ……部下を、傷つけるな……」
マクシムだった。血に塗れ、満身創痍のまま必死に上体を起こしている。その姿がルキフェルの視界の端に入った瞬間、彼の中で何かが音を立てて崩れた。
——まずい。
我に返り、焦燥が一気に押し寄せる。どうして立ち止まっている。どうして見つめ合っている。どうして、こんな場所で。思考が追いつく前にルキフェルは無意識にスザンヌの腕を掴んでいた。
「……ついてこい。殺しはしない」
自分でも驚くほど切羽詰まった声だった。ここに彼女がいるべきじゃない。この戦場は血と憎悪の場所だ。復讐のために自分が立っている場所だ。そんな場所に彼女を置いてはいけない。引きずるようにスザンヌの腕を引く。守るためなのか逃がすためなのか、自分でも分からない。ただ、この場から遠ざけなければならない。スザンヌはよろめきながら立ち上がった。本来なら抵抗できたはずだった。剣は落ちていたが、逃げる選択肢もあった。それでもできなかった。彼女はルキフェルに引かれるまま足を運ばせている。
甲板での混乱はまだ続いていた。怒号、金属音、銃声、雨に濡れた足音。その只中を、二人の影が駆け抜けていた。ルキフェルは前を見ていなかった。見ていたのは進路だけだ。何が起きているのか、誰が倒れ、誰が叫んでいるのか。そんなものは今の彼には意味を持たない。握っているのは女の腕。細い。驚くほど、あの頃と変わらない。ルキフェルの視界の端で海賊船と海軍船を繋ぐ一本の板を見つけた瞬間、反射的に足が向いた。逃がす。それ以外の言葉が頭に浮かばなかった。ルキフェルが板に足を掛けた時、動きがぴたりと止まる。風に煽られ、板がわずかに軋む。下には黒い海。揺れる二隻の船。その狭間。そこで、自分の声がした。
……どうするつもりだ。
自分の声だったが、どこか他人のように冷たい。胸の奥から粘つくような囁きが這い上がる。
——ここで彼女を連れ去ってどうする。まさか駆け落ちのつもりか。無駄だ
嘲るような声音。ルキフェルの喉がひくりと鳴る。
——お前は復讐を糧に生きる男だ。この女と生きる未来なんて最初から存在しない。
彼の指にわずかな力がこもる。
——守るつもりだった? 笑わせるな。彼女は軍服を着ていた。自分の意思で剣を握り、ここに立っている。彼女が選んだのは向こう側だ。それでも海賊船に乗せる意味がどこにある。
ルキフェルの胸の奥で何かが音を立てて崩れた。自己嫌悪。自己否定。怒り。全部が一度に押し寄せて呼吸が乱れる。
「……離して」
スザンヌは急に立ち止まった彼の背中を見て、掴まれた腕を引こうとするが、びくともしない。
「離して……!」
スザンヌが言葉を重ねても、返事はない。ルキフェルはどこか遠くを見ている。まるで、そこに彼女がいないかのように。彼の後ろ姿を見つめながら、スザンヌの胸に懐かしさが込み上げた。——似ている。記憶の底。かつて、自分を暗闇から引き上げた影。顔は見えなかった。名も告げなかった。守るように立ち塞がり、そして消えた青年。その背中と今、目の前にある背中が重なる。
「……あなた」
ルキフェルの心臓が跳ね、思わず振り返った。再び二人の視線が絡む。海軍船と海賊船の狭間。不安定な板の上。逃げ場のない距離。スザンヌは彼を見つめたまま、小さく呟いた。
「……やっぱり、どこかで……」
ルキフェルの背筋が凍りつく。彼女の瞳が揺れる。記憶が繋がる。狼の仮面。闇の中で光っていた、あの瞳の色。
「あ……」
スザンヌの息が詰まる。
「もしかして、——」
「言うな!!」
言葉が形になる直前、ルキフェルは彼女の身体を乱暴に引き寄せ、背を向けさせた。逃がさない。振り払わせない。カットラスが彼女の喉元に冷たく触れる。
「動くな!! 全員、こっちを見ろ!!」
ルキフェルの怒号が雷鳴よりも大きく甲板に響く。迷いも優しさもない。あったのは追い詰められた獣の咆哮。彼は世界を敵に回した。それでも、名前を呼ばれるよりはずっとマシだと思っていた。甲板のざわめきが板の上を境に凍りつく。誰もがそこにいる二人から目を逸らせずにいた。海軍船と海賊船の狭間で、刃を喉元に突きつけられた女と拘束する傷だらけの男。ルキフェルは自分の声がひどく遠くに聞こえるのを感じていた。
「これは交換条件だ。マクシミリアンを、こっちに渡せ」
ルキフェルの喉の奥が焼ける。自分が今、何をしているのかは分かっている。最低だ。卑怯だ。取り返しがつかない。そんなことは百も承知だった。それでも引き返せなかった。ここで手を緩めれば、彼女を連れ出した意味も、ここまで壊してきた覚悟も、すべてが無駄になる。
「……拒むなら、今ここで殺す」
ルキフェルのカットラスの刃がわずかに押し当てられる。その微細な震えをスザンヌは感じ取っていた。震えてる。刃ではない、この男の手が。本気で殺すつもりなら、こんな迷いはない。それを彼女は知っている。理由は分からないが、分かってしまった。視線を動かすことはできないが、背後から伝わる気配に記憶がざわめく。海に溺れる自分を助けてくれた。服が乾くまで側にいてくれた。それから毎日会って、たくさん語り合った。そして、あの日——名も告げず、顔を隠し、突き放した外套の青年。
——ノワール……?
確信には程遠いが、疑念は消えなかった。刃を突きつけられているのに、恐怖よりも混乱が勝っている。二人の光景を海賊側の四人は固唾を呑んで見ていた。ジャスパーは板の上の二人を見据えたまま息を吐く。目だけを動かし、仲間たちと視線を交わした。
——やったな。越えたぞ、これは。
ニールは眉をひそめ、唇を引き結ぶ。冗談めかして状況を和らげる余地など、どこにもない。コリンは小さく息を呑み、思わず一歩踏み出しかけてジャスパーに制される。そして、マテオの声が甲板に叩きつけられた。
「……てめぇ!! それは、やりすぎだろ!!」
怒りが剥き出しだった。銃を握る彼の手が震えている。恐怖ではない、憤りだ。
「女を盾にするとか……ふざけんな!!」
親友をぶん殴りに来たはずだった。止めるために来たはずだった。それがこんな形で——。一方、海軍側もまた怒りに満ちていた。
「卑怯者……!」
リラが吐き捨てる。ロザリーは歯を食いしばり、ペネロペは今にも飛び出しそうになるのを必死で堪えている。仲間が、部下が、人質に取られている。その中心にいるのが、あの男だ。グウェナエルは剣を構えたまま鋭い視線で板の上を睨んでいた。卑怯だ。間違いなく。だが同時に、理解してしまう。この状況で、あの男が合理的な一手を選んだことを。
「……厄介なやつ」
感情に任せて斬りかかれば最悪の結果を招くが、応じれば隊長を差し出すことになる。甲板全体が重苦しい沈黙に包まれた。その中心で、ルキフェルは歯を食いしばっている。
——俺は最低だ。
それでも刃を引く気はなかった。だが、誰も動けない。ルキフェルの腕の中で、スザンヌの体は強張ったまま固まっている。刃は喉元にある。力を入れれば終わる距離だが、ルキフェル自身がそれをしていない。怒号も剣戟も、さっきまであったはずの戦場の音が遠い。耳鳴りのような静寂の中で、ルキフェルの思考だけが空回りしていた。引けない。引けないはずだ。ここで手を離せば、すべてが無意味になる。フランソワも、ベルナルドも、これまで殺してきた人間も。なのに、スザンヌの喉元に当てた刃がわずかに震えている。自分の意思とは関係なく。その時だった。人混みが割れ、流星のように誰かが止める間もなく、軍服の女が飛び出してきた。彼女は濡れた甲板を踏みしめ、迷いなく一直線に自分たちの元に駆けてきた。
——誰だ。
ルキフェルの思考が一瞬、完全に白くなる。知らない顔だが、戦場に立つ人間のそれではない。恐怖で固まっているわけでも、激情に突き動かされているわけでもない。ただ、まっすぐこちらを見ている。そして、彼女は言った。
「スザンヌを解放して。彼女を傷つける理由も、隊長を渡す理由も、どこにもない」
ルキフェルの理解が追いつかず、言葉だけが頭の中を素通りする。理由がない。隊長を渡す理由がない。何を言っている。ルキフェルは反射的に口を開いていた。
「……なんだと?」
怒気と困惑と焦燥が区別できないまま声に滲んでいる。甲板がざわついたのが視界の端で分かった。海軍の連中が動こうとする気配。海賊たちの沈黙がさらに重くなる。だが、この女は一歩も引かない。
「フランソワが亡くなるところ、あなたは見ていないのでしょう?」
その名にルキフェルの胸の奥が痙攣する。
「爆発の前、男の悲鳴が聞こえた。お前たちに殺されたと思っていたが……違うのか」
ルキフェルの問いは鋭かった。責めるためのものではない。確かめるためのものだ。女は即座に首を振った。
「違うわ。彼は……自分で、飛び込んだの」
——何だと?
ルキフェルの思考がぎしりと音を立てる。
「深手を負っていたけど、それでも海へ逃げ切った。私たちの任務は“生け捕り”だった。でも彼は、それを拒んだの」
雨はまだ止んでいる。静寂が女の言葉を際立たせる。
「捕らえられるくらいなら、自分で終わらせる。——それが、彼の選んだ結末だった」
ルキフェルは目眩を起こした。自分で、終わらせた。
「……自分で命を絶った? 何も言わずに? 何も残さずに……」
「ええ」
女は躊躇わず続ける。
「逃げるためでも、絶望のせいでもない。誇りを守るために、彼は“誰の手にもかからず”に終わらせたの」
彼女の言葉がルキフェルの胸の奥に沈む。誇り。誰の手にもかからず。
——あいつらしい。
認めたくないのに理解してしまう。フランソワなら、そうする。捕まるくらいなら最後まで自分で選ぶ。刃を持つルキフェルの手に力が入るが、締める方向ではない。
——じゃあ、俺は何を。スザンヌを人質に取って。マクシミリアンを差し出せと叫んで。復讐のためだと、言い聞かせて。
ルキフェルの胸の奥で何かが崩れ始める音がした。
「だったら、なんで俺には……何も言わずに」
女——ソフィーは一歩も退かない。
「きっと、あなたが止めに来るって分かってたのよ。だからこそ、一人で背負ったの」
風が船体を叩き、板がきしむが、その音は遠かった。ルキフェルの耳に届いているのは彼女の言葉だけ。
——止めに来る。
ルキフェルの胸の奥で何かが鈍く鳴った。自分は、止めに来たのか。それとも、殺しに来たのか。ソフィーの声は変わらない。責めてもいない。怒ってもいない。
「……あなたは、誰かの命を奪うことでしか、気持ちに決着をつけられないの?彼の死に、意味を持たせたかったんじゃないの? でもそれが“誰かを殺すこと”でしか叶えられないなら……それは、彼の最期を汚すだけだわ」
ルキフェルの胸の内で何かが崩れ始める。汚す。ソフィーの言葉は刃ではなかったが、深く刺さる。
「もうやめて。その手で、彼の願いまで壊さないで。あなたの怒りも悲しみも、わかるわ。でも……あの人は、復讐なんて望んでなかった。それが、私がこの目で見た“最期のフランソワ”よ」
ルキフェルの呼吸が浅くなる。波が甲板を洗い、冷たい水が足元を流れる。
——最期。
その言葉に、ルキフェルの視界が歪んだ。喉の奥から声を引きずり出す。
「……俺は。俺は、あいつの最期に……間に合わなかった」
怒りではない。嘆きでもない。ただの痛みだった。胸の奥に溜め込んできたものが、ようやく形を持った瞬間。ソフィーは息を呑むが、ルキフェルは言葉を重ねる。
「——だったら」
ルキフェルの手がわずかに緩んだ。スザンヌの喉元にあったカットラスがほんの数センチ下がる。
「その時の話を、少しだけ聞かせろ」
ルキフェルの声音にもう刃はなかった。ソフィーは毅然として言う。
「スザンヌを返して。それが、あの人の誇りの続きだから」
ソフィーの言葉がルキフェルの胸の奥を直撃した。誇り。——フランソワの。ルキフェルの思考が、あの日へと引き戻される。
「お前にはある。仲間を導く力が」
フランソワに肩を掴まれた感触。思い出すのは、重くて温かい手。
「お前なら……どんな場所でも、みんなを守って、道を示せる」
何も言えなかった。自分はそんな人間じゃないとその時も思った。フランソワは空を仰ぎ、少し考えるように言う。
「そうだな……時々、思うんだ。お前、シリウスみたいだなって」
「シリウス? 明るいだけの星か」
「こら。あんま、シリウスを舐めるな。シリウスはな。明るいからこそ、輝きと光の“永遠の象徴”になってるんだろうが」
そして、フランソワは声を落とす。
「お前が、どれだけ傷だらけでも……誰かからも光を奪わずに、希望をもたらすことができる。——俺も、その光に救われた人間だ」
「……光……」
無意識にルキフェルは呟いていた。光。そう呼ばれた存在が、今の自分だろうか。剣を振るい、命を奪い、復讐に縋ってきた自分が。違う。あまりにも違いすぎる。その瞬間、初めて理解した。自分は取り返しのつかない場所まで来てしまったのだと。胸の奥に痛みはあるが不思議と荒れ狂っていた感情の波が、静かに引いていく。ルキフェルは深く長いため息を吐いた。彼は茫然としたままスザンヌの背に手を伸ばす。押すだけの動作で。一方、スザンヌは聞いていた。あの澄んだ声を。胸の奥で何かが確信に変わる。
——ノワール。それが、ルキフェルだった。
真実に到達した途端、目眩が襲ってきた。ルキフェルがスザンヌの背に触れた時、船体が砕けるように揺れた。天地が反転したかのような衝撃。甲板が悲鳴を上げ、雷鳴が空を引き裂く。雨はもはや降るのではなく、叩きつけられていた。
「……くそっ、なんだこれ!」
ジャスパーは甲板で踏ん張りながら空を睨んだ。戦いやルキフェルに意識を向きすぎたあまり、第六感が働かなかった。
「海が……空も、怒ってる……!」
ジョルジュは床で這いつくばりながら波と空を交互に見ていた。海の底と雲の向こうに、何者かがいると信じて止まず畏れを抱いて。
「撤収だッ! 離れるぞ!!」
ダヴィットの怒号、マクシムの切羽詰まった指示が甲板に飛び交う。二隻の船は波に引き剥がされ、互いの距離が否応なく開いていく。人々が叫び、散り、掴み、這う。誰もが自分の命を守ることで精一杯な中、境界だった板が宙を浮いた。
ルキフェルとスザンヌの身体もふっと宙に浮き、荒れ狂う黒い海が口を開けて待っている。が、ルキフェルは思考が命令を下す前に身体が動いた。彼は右腕で彼女を抱え込むと同時に、もう片方の手を船の縁へと伸ばす。濡れた木の手すりで滑る。爪が立ち、指が軋む。足元はすでに空だった。下では板が回転しながら吸い込まれ、波が吠えている。風が唸り、海が二人を引きずり込もうとしていた。その光景を見下ろした瞬間、ルキフェルの喉から抑えきれない声が零れる。
「……ふざけんな」
——またか。また、お前らか。
記憶の奥が強く軋む。かつて海に飲み込まれかけた小さな身体。冷たい水。必死に伸ばした腕。守ったはずの命を奪おうとする同じもの。
「……奪うな。俺から、奪うんじゃない」
ルキフェルの歯を食いしばり、海を睨みつける。波が船腹を叩きつけ、風が彼らを引き剥がそうとする。
「お前たちが決めるな。彼女の運命を決めるのは……彼女だ」
一瞬、ルキフェルの視線が揺れた。荒れ狂う海の向こうに、別の記憶が重なって、胸の奥から怒りが滲み出る。
「……奪ったのは、お前らだ。フランソワを誘って……飲み込んでいった」
海と共に生きてきた男が、海を初めて憎んだ瞬間だった。ルキフェルは指にさらに力を込める。手すりが軋み、腕が悲鳴を上げる。それでも離さない。ルキフェルは雨に襲われながら吐き捨てる。
「……ここで、終わらせるわけにいかない。終わりに、させない」
船壁に足をかける。滑る。体勢が崩れるが、慌てない。何度も、何度も嵐の中で踏み外すことを知ってきた男の動きだった。
「俺だって……そうだ。自分の最期くらい……自分で決める」
息を吐く。力を込める。腕が震える。視界が滲む。それでも上へ。雷鳴が真上で爆ぜ、最後に絞り出すように叫んだ。
「俺も、スザンヌも……! ——まだ、死に方を決めてないんだ!!」
その言葉を口にした途端、ルキフェルは船壁を攀じ登った。荒海の縁で命を掴み取るように。船体が再び唸りを上げて迫ってきた。海軍船と海賊船。その間の距離が嵐に押し戻されるように急激に詰まる。木材が軋み、鉄が悲鳴を上げる。挟まれれば終わりだ。判断の猶予はほとんどない。ルキフェルは歯を食いしばった。考えるな。迷うな。腕の中にはぐったりと力を失った身体がある。この重さを絶対に手放さない。船縁にかけた指に力を込める。濡れた木材が滑るが、構わない。爪が削れても皮が裂けても、今は関係ない。視界は雨に歪み、息を吸うたび肺が痛んだ。それでも腕だけは緩めなかった。
「……っ!」
両腕に力を込め、身体を引き上げた。腹筋が悲鳴を上げ、肩が抜けそうになる。ルキフェルの背後で船壁が迫ってきた。間に合え。船縁に片足をかける。その体勢のまま、ルキフェルは腕の中の身体を先に引き上げた。落とすな。ぶつけるな。自分の体よりも、彼女を先に。次の瞬間、ルキフェルは自分の体を無理やり引き込み、スザンヌを抱えたまま転げ落ちるように甲板へ倒れ込んだ。衝撃、甲板に叩きつけられる音が耳に届く。
——間に合った。
ルキフェルの胸が上下に激しく波打つ。息が追いつかない。雨が容赦なく叩きつけてくるが、今はどうでもいい。しばらく動けなかった。やがてルキフェルは歯を食いしばって身を起こすと、甲板の上にスザンヌを壊れ物を扱うように寝かせた。スザンヌに意識はない。呼吸は浅いが、生きている。ルキフェルは彼女の顔を見つめていた。雨に濡れた睫毛。伏せられた瞼。さっきまで睨み合っていた敵でも人質でもない。守るべき存在として、そこにある。ルキフェルはゆっくりと顔を上げた。空はまだ荒れている。雲は厚く、雷鳴も遠くで唸っているが、さっきまでとは違う。胸の奥に奇妙な感覚があった。熱でも怒りでも、復讐心でもない。初めてだ。剣を振るってきた。命を奪ってきた。復讐のために生き延びてきた。声にならない呟きが喉の奥で形になる。
「……守った」
初めて誰かのために自分の命を使った。




