第六章② ルキフェルとマクシム
マクシムが船尾に出た瞬間、雨脚が一段強くなった。帆柱に叩きつけられる雨音。甲板を流れる水が靴底を不安定にする。雷鳴が遅れて轟き、空が一瞬だけ白く裂けた。マクシムは息を整えながら、ゆっくりと振り返る。そこにルキフェルがいた。ルキフェルは濡れたカットラスを一度だけ振り払い、余分な水を落としながら距離を詰めてくる。傷だらけの顔も翡翠の瞳も、隠す気はなかった。逃げ場はない。
「僕を狙う理由は何ですか」
マクシムは剣を構えたまま問うた。声は低く、意識して平静を保っている。震えを必死に抑え込んでいた。ルキフェルは歩みを止めない。
「理由? 作戦だ。指揮官を殺す。指揮系統を崩す。混乱が起きる。その隙に他を始末する」
マクシムの胸がぎゅっと締め付けられる。
「……それだけ、ですか」
「それ以外に何がいる」
雷鳴が二人の間に落ちた。雨が強まり、視界が滲む。マクシムは一歩、踏み出した。
「あなたは……僕を知っているはず」
雨音の向こうで言われた瞬間、ルキフェルは無意識にマクシムを見た。濡れた髪。剣を握る指の癖。立ち姿。重心。呼吸の取り方。敵を見る目で。獲物を見る目で。あるいは過去を探るような目で見るが、どこにも引っかからない。ルキフェルの胸の奥がざらりとする。理由の分からない不快感。苛立ちに近いものが、喉元までせり上がる。すぐさま思考は切り捨てられた。
「知らない」
「……本当に?」
マクシムの声がわずかに揺れた。
「本当に、僕が分からない?」
必死だとルキフェルは思うが理解ではない。理解しようとすること自体がどこか煩わしかった。
「……ラウル」
突如、その名が落ちた。ルキフェルの足がぴたりと止まる。何だ。頭の奥が唐突にざわついた。
暗い廊下。石造りの壁。湿った空気。誰かが自分に刃を振るっている。誰かが止めようとしている。若い女。叫び声。自分に向かって、何かを言おうとする口。
——違う。知らない。そんなものは、知らない。
思考が反射的に拒絶する。胸の奥に広がりかけた寒気を力づくで踏み潰す。関係ない。思い出す必要はない。ルキフェルはわざと一歩だけ距離を取った。
「……何のことだ」
声は冷たかった。自分でも驚くほど感情が削ぎ落とされている。マクシムを見る目は、完全に異物を見るそれだった。
「俺に、そんな名の記憶はない」
ルキフェルの胸の奥で何かがきしと軋んだ気がしたが、気に留めない。雨がすべてを流していく。過去も名前も、意味も。残ったのは目の前の敵と抜いた剣だけ。一方マクシムの胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
「……そう、ですか」
震える声が雨に溶ける。分かっていた。覚悟もしていた。それでも、実際に突きつけられるとこんなにも痛い。雷鳴がまた轟いた。ルキフェルは剣を構え直す。迷いはない。彼の中でこの対話はすでに終わっている。
「話は終わりだ」
雨の中で、ルキフェルの刃が静かに持ち上がる。マクシムは剣を握り直した。指先が冷たい。震えが止まらない。それでも退かなかった。もう逃げられない。分かってもらえないのなら。
「……来てください」
マクシムの声はかすれていた。船尾で二人は向かい合う。雷雨の中、世界から切り離された場所で。雷鳴が世界を叩き割った。同時に、二つの刃が交差する。雨に濡れた甲板の上、距離は常に一歩以内。マクシムが退けば刃が追う。踏み込めば、殺意が迎え撃つ。ルキフェルは迷わない。殺す。それだけが判断の基準だった。剣を振るうたび余計な思考は削ぎ落とされていく。相手が誰か。なぜここにいるか。そんなものはもう要らない。目の前にいるのは斬るべき存在だけ。ルキフェルのカットラスがうねる。斬撃ではない。叩きつけるでもない。重心を落とし腰を回し、身体ごと圧を押し付ける。
——西洋剣だな。
一合、刃を合わせただけで分かる。無駄がない。構えが崩れない。間合いの読みも反応も甘くない。だからこそ、赦せなかった。
——これほどの剣を持ちながら……爆薬で、船ごと殺した。
怒りが熱ではなく冷えとして広がる。ルキフェルの剣はさらに重くなった。一方、マクシムは必死だった。剣士としての理性は、まだ折れていない。刃の軌道。足運び。重心の移動。呼吸の乱れ。見える。読めるが、間に合わない。一歩遅れるたびに、死が肩を撫でる。防いだはずの斬撃が、次の瞬間には背後にいる。力ではない。技でもない。殺すことに迷いがない剣の重さだ。
——こいつ……躊躇しない。
それが剣を持つ者として一番の恐怖だった。雷光が走る刹那、世界が白く染まり、マクシムは見た。ルキフェルの剣が自分の剣を叩き潰す軌道に入っているのを。
「まずい——」
——キィンッ!
甲高く乾いた音。刃が耐えきれずに震えた。雨粒が弾かれる。マクシムの視界に、自分の剣の亀裂がはっきりと映った。
「……あ」
マクシムが考えるより先に理解が来た。折れる。そして音もなく、刀身の先が雨の中へ落ちていった。世界が止まった。折れた剣。手に残る柄の軽さ。ルキフェルの瞳がわずかに細くなる。
——終わりだ。
判断は一瞬。剣を振るう必要はない。今は身体。ルキフェルは踏み込む。一蹴、腹部。息を奪う角度。二蹴、顎。視界を裏返す。雷鳴と同時にマクシムの身体が宙を舞った。
「——っ!」
マクシムは船尾の縁まで吹き飛ばされ、背に衝撃が走って膝から崩れ落ちる。刃はない、立て直す時間もない。マクシムは濡れた甲板に片手をつきながら必死に顔を上げた。目の前に立つ男は雨に濡れながら剣を下げ、少しも息を乱していない。マクシムの誇りが音を立てて砕けていく。
「……まだだ」
剣士としてではない、指揮官としてでもない。一人の人間として。マクシムは折れた剣の柄を強く握りしめて立ち上がった。ルキフェルはの翡翠の瞳に感情はない。あるのは、ただの結論。殺す。マクシムは歯を食いしばり、なおも剣を構え続けた。腕が痺れ、肩が焼ける。脇腹の奥で、何かが軋む音がする。一撃、また一撃。受け止めたはずの打ち込みは刃を通り、骨を通り、内臓にまで衝撃を叩き込んできた。殺すために最適化された動きだとマクシムは理解していた。剣を合わせるたびに自分が削られているのが分かる。
「くっ……!」
マクシムの足元がついに揺れた。ルキフェルは見逃さない。溜めのない回し蹴り。思考より速く、音より速く。轟音とともに、横殴りの衝撃がマクシムの脇腹を撃ち抜いた。肺の空気が潰れ、視界が反転する。身体が宙を舞い、甲板を滑り、仰向けに叩きつけられた。マクシムの口から熱いものが溢れる。血だ。
「どうした、もう終わりか?」
ルキフェルの声は怒りも興奮も、勝利の高揚すら感じられない。マクシムは体を起こそうとしたが腕が震え、力が入らない。左肩が抜けている。膝も裂かれている。呼吸のたびに肋骨の一本が内側から悲鳴を上げていた。それでも、剣だけは落とすわけにはいかなかった。それを落とした瞬間、自分が何者だったかまで失う気がしたから。
「……僕は……まだ……っ」
マクシムの言葉が終わる前に突きが来た。避けきれない。鋼の閃きが頬をかすめ、続けざまに返す刃が脇腹を裂く。熱。次いで、遅れて痛み。マクシムはよろめき、剣を支えに片膝をついた。血が止まらない。甲板に落ちるそれが雨なのか自分のものなのか、もう区別がつかなかった。
「殺す気がないのか……遊んでいるのか……!」
マクシムの言葉に、ルキフェルの動きが初めて止まった。
「殺す? いいや。……お前のような“名ばかりの英雄”には、その死ですら生ぬるい」
ルキフェルの内側ではすでに結論は出ていた。この男は強い。剣士として、指揮官として、仲間を想う者として。だが、情に脆すぎる。迷いすぎる。戦場では致命的だった。雨がさらに強まる。マクシムの視界が滲んだ。次の一閃は、剣ではない。足の甲。鋭い蹴りがマクシムの手から剣を弾き飛ばした。乾いた金属音、敗北の音だった。マクシムの両膝が崩れ、ついに甲板に落ちる。見上げた先にいるのは、傷だらけの男。冷たい瞳。底の見えない翡翠色。勝てるはずがなかった。その事実が、ようやく身体より先に心に落ちる。
「こんな男が……」
マクシムは息も絶え絶えに呟いた。
「……大海賊の右腕であり、フランソワの“息子”か……」
その言葉にルキフェルの手が止まった。息子。ルキフェルの胸の奥に別の顔が浮かぶ。穏やかな笑い。乱暴な手。怒鳴り声と、酒の匂い。
——あいつは……今の俺を見て、どう思う?
刃の切っ先がわずかに下がるが、思考は切り捨てられた。意味をつけるんだ。あいつの死に。ベルナルドの死に。自分がここまで来た理由に。ここまで来て、引き返すわけにはいかない。
「もう終わりだ」
ルキフェルはカットラスを改めて握り直した。マクシムの目が細くなる。意識が遠のく中で、彼の口がかすかに動いた。
「……ルキ……フェル……」
本当は別の名を呼びたかったが、それはもう届かない。
ああ、自分は今から本物に殺されるんだ。
その事実が不思議と胸に落ちる。
復讐を糧に生きてきた。それが正義だと信じてきたが、ずっと重かったのかもしれない。
雨音の中でマクシムは薄く息を吐いた。恐怖も後悔も、もう曖昧だ。残っているのはただ一つ。
ここまで来たなら、受け入れるしかない。
ルキフェルの刃がゆっくりと持ち上がる。それがトドメになる——はずだった。ルキフェルの視界の端で影が跳ねる。何か声があった気がするが、雨と雷鳴がすべてを塗り潰していた。来る。刃が振り上がる気配。踏み込みの重さ。呼吸の乱れ。浅いな。ルキフェルは振り返らない。半歩、体軸をずらすだけで世界の位置が入れ替わる。次の瞬間には、影の背後にいた。襲撃者は外套に身を包み、フードで顔を隠している。ルキフェルはカットラスを左手に持ち替え、空いた右腕で襲撃者の利き腕ごと身体を締め上げた。骨格が細い。腕も肩も、抵抗の仕方も。
「……女か」
ルキフェルの腕の中で、拘束された身体が大きく揺れる。必死に抗おうとするが力が足りない。気迫も長くは続かない。やがて、襲撃者の指先から剣が滑り落ちた。剣は濡れた甲板を音もなく滑っていく。木箱の陰へ。だが、ルキフェルはそんなものに興味がなかった。重要なのは今、腕の中にいるものだけ。ルキフェルは襲撃者の首筋へ、カットラスの刃を当てる。冷たい鋼が触れた瞬間、襲撃者の身体が露骨に強張り、膝が落ちる。勢いの割に気力が続かないが、それでも自分を前にして、刃を振り上げた。恐怖よりも先に踏み出した。その一点だけは認めよう。ルキフェルは嘲るように息を吐くと、ふと興味が湧いた。この勇気の持ち主はどんな顔をしている。
「その覆面の下……見せてもらおうか」
ルキフェルは指先でフードの縁を掴んだが、現れた顔を目にすると時間が止まった。
「……え?」
自分の声だと理解するのに、わずかな遅れがあった。喉からこぼれた音は、雷鳴よりも頼りなく情けなかった。濡れた布が離れ、現れたのは銀色に近い淡い金の髪。雨を弾くような、澄んだターコイズブルーの瞳。美しいと形容する以外に言葉が見つからない顔。忘れるはずがない。忘れたことなど一度もない。成長している。輪郭は大人び、表情も洗練されているが、それでも間違えようがなかった。この瞳。この髪の色。世界の中でただ一人だけ、自分が守りたいと願った存在。ルキフェルの胸の奥で名が勝手に形を取る。
——スザンヌ。
理解よりも先に感情が洪水のように押し寄せる。どうして。どうして、ここにいる。思考がまとまらない。ルキフェルの視線が彼女の身体へ落ちた。軍服。濡れた布越しにも分かる、海軍の制服。ルキフェルの喉の奥がひくりと痙攣する。何で。何で彼女が、そんなものを着ている。何で剣を握っている。何で、戦場に立っている。何で、何でよりによって敵の側にいる。ルキフェルの頭の中で、問いが壊れた歯車のように空転する。答えに辿り着く前に心の奥が軋み始めた時、彼女の視線が上がった。目が合う瞬間、雷光が二人を照らし出す。
——あ。顔、見られた。
その理解が刃よりも鋭く突き刺さった。今までのすべてが意味を失う。顔を隠したことも。名を名乗らなかったことも。影として生き、獣として振る舞い、誰にも正体を知られまいとした必死な努力も一気に崩れ落ちる。
醜い。こんな顔、見せたくなかった。傷だらけの顔。血と雨に濡れた身体で人を殺し、壊し、復讐にすがって生き延びてきた成れの果てを。
ルキフェルの指先がわずかに緩んだ。首筋に当てていた刃が微かに震える。心が死にかけていた。守るために突き放した。危険から遠ざけるために消えた。それなのに、彼女はここにいる。
——世界が静まり返った。
雷鳴も、雨音も、遠い。残っているのは初恋の人と、復讐者としての自分。ルキフェルは彼女を見下ろしていた。彼の胸の内だけが嵐の名残のように騒ついていた。
「……お前」
ルキフェルの声は掠れていた。怒りも威圧も、殺意もない。感情が削ぎ落とされたまま零れ落ちた音だった。彼の目を見た瞬間、スザンヌの肩から力が抜けた。傷だらけの男を前にして、恐怖していなかったわけではない。剣を突きつけられ、拘束され、命を奪われてもおかしくない状況だった。それなのに彼の翡翠の瞳と澄んだ光を見つけた途端、頭が真っ白になっていた。雨脚が弱まり、甲板を叩いていた音が次第に遠ざかっていき、やがて空は一時的な静けさを取り戻した。
雲の切れ間から淡い光が差し込む。




