第六章① 海賊と海軍
銃声の余韻がまだ甲板の空気に張りついている中で、マテオはようやく大きく息を吐いていた。助かった。そう思った途端、指先から力が抜けそうになる。ジョルジュはまだ痺れる手を摩りながらマテオを凝視していた。
「っ、何なんだあの人……」
自分は銃の名手だと自称していたが、上には上がいた。まだ何も決着はついてないのに、彼の中ではマテオに心臓を掴まされて心の中で白旗を振っている。その時、張り詰めた中でギィと板が軋む音が響く。決して大きな音ではない。むしろ今までの剣戟や怒号に比べれば驚くほど地味で遅れて耳に届くような、それなのに不思議とその音だけがはっきりと皆の意識に引っかかった。マテオは反射的に、背後を振り返る。そこには三つの影。甲板と甲板の隙間を埋めるように渡された一枚の板の上に、最初から立っていたかのような自然さで人影が現れている。板を持ってきたのはジャスパーだった。肩の力を抜いた立ち方、気怠げに見える視線が、腰のナイフに添えられた手の角度だけが異様に正確だ。
「あー、マテオ。銃はちゃんと、多めに持ってきたな?」
ジャスパーを押し除け、ニールが軽やかに板を渡ってくる。足取りは静かで、優雅ですらあった。雨に濡れた甲板に着地しても彼の音はほとんどしない。
「……撃ったんだね」
微笑みすら浮かべたままニールが言う。彼の視線はマテオ、次に海軍兵たち、そしてルキフェルへと一瞬で巡る。
「さすが。やると思ってたよ」
皮肉とも称賛ともつかない声音だった。最後に、もう一つの影。コリンが言葉もなく甲板に降り立ち、すっとルキフェルの背後へ、わずか斜め後ろという絶妙な位置に立っていた。現れた彼らの配置を見た瞬間、マクシムは息を呑む。囲まれた。いや、正確には違う。
「……五人。フランソワの残党って……こいつらか」
推察はしていたが、こうして実物を前にすると背筋に走るものがある。誰もが只者ではない。派手な威圧も、誇示する殺気もない。マテオは船縁に腰を掛けたまま苦笑した。自分が撃った瞬間、背後の気配が増えたのを感じていた。銃声に紛れて、板が渡される音。足音を消した移動。それでも止めなかった。それどころか、背後に立ってくれた。マテオは肩をすくめる。
「……おせえぞ」
誰に向けた言葉でもなく、ただの独り言だったが、この三人の存在が何よりの答えだった。五人が揃う。雨に濡れた甲板の上で海軍と海賊が向かい合う。海軍側の士官たちが一斉に武器を構え直した。その気配を、ルキフェルは背中で受け取っていたが、意識はそちらには向いていない。彼の視線は仲間へと向いていた。ジャスパー。ニール。コリン。
……来たのか。
ルキフェルの胸の奥がひどく熱くなる。予想していなかったわけではないが、期待していたわけでもなかった。巻き込みたくなかった。情けもかけた。生きていてほしかった。それなのに彼らは来た。武器を手に、迷いなく戦場へ。
「……そうか」
ルキフェルの喉の奥がわずかに詰まる。共に戦ってくれるのだとルキフェルは受け取ってしまった。まさか、自分を殴りに来たなどとは露ほども思っていない。
「こいつ一人でも手こずるってのに、同じ匂いのやつがあと四人もいるってか……」
グウェナエルの低い唸り声が聞こえるが、マテオの軽い調子の声が割り込んだ。
「いやいや、勘弁してくれよ。あいつが化け物なだけで、オレたちはそこまでじゃないっての。マジで、勝手に格上認定されても困る」
苦笑混じりの声音。肩をすくめる仕草。……相変わらずだなとルキフェルは思う。戦場でもこんな言い方をするが、目は誤魔化せない。衣服の隙間から覗く複数の銃。仲間たちもまた剣を構え、無言のまま圧を放っている。
「ていうか貴様ら、いつから船を近づけていた!?」
ダヴィットの苛立った声が飛んだ。
「ついさっきだよ」
マテオが即答する。
「お前らが無駄にギャーギャー騒いでる間にな」
——半分、嘘だ。
ルキフェルは気づいていた。あの言い方は、全部は話さないと決めた時の声。
「……なるほどな」
一方、マテオは海軍を煙に巻く気だ。真実を全部明かす必要はない。目的は一つ。早くあいつを止める。そして、ぶん殴る。その空気を察したのか、サミュエルが淡々と切り込む。
「その割には、大慌てだった様子だが?」
マテオの口角がぴくりと引きつる。
「……うるせぇ!」
彼は吐き捨てるように叫び、空になった銃を乱暴に放り投げた。甲板にカランと乾いた音が響き、ジャスパーがケタケタと笑い始めたが、その目は一切笑っていない。ニールが静かに剣を構え、コリンはすでに最短距離を取っている。
「……ああ」
ルキフェルは息を整えた。仲間がいる。共に立つ者がいるそれだけで、胸の奥にあった冷たい塊がわずかに溶ける。まだだ。まだ終わらせる気はない。メリッサの甲高い声が張り詰めた空気を無遠慮に引き裂いた。
「それに……敵が乗り込んでたの、なんで誰も気づかなかったの?」
騒がしい。ルキフェルはそう思ったが、視線は一切声の主には向かない。彼の意識は前方、剣を構えるマクシムにあった。グウェナエルが一歩踏み出し、甲板全体を見渡すように言う。
「盗まれた商船の特徴と一致。ズケズケと乗り込んだクズ二人と、まだ常識ありそうな三人……貿易商の目撃情報とも数は合うな。五人、これが残党の全容だ」
「おいおい」
マテオの口から思わず声が滑り落ちた。本当は言うつもりはなかった。言いたくなかったが、事実が喉まで込み上げてきてしまった。
「オレをあんな悪魔と一緒にするな……あいつはもう人間じゃねえ。ただの復讐の権化だぞ!」
言葉にした瞬間、マテオの胸の奥がちくりと痛む。違うと叫びたかった。それでも、今のルキフェルを見て否定しきれなかった自分が何よりも腹立たしかった。
「うるせえよクズの色男! ギャーギャー喚くな!」
グウェナエルの煽りに空気がさらに荒れる。
「グウェナエル、煽るな! 今は冷静に!」
マクシムの声は鋭かった。彼は剣を抜き、ルキフェルを真っ直ぐに睨む。もう、だめだ。内心で、マクシムは結論を下していた。冗談でも、言葉の応酬でもない。こんな場所で茶番を続けている場合じゃない。
「こちらの話を聞く気がないなら、速やかに鎮圧するまでです!」
宣告だった。指揮官としての判断であり、かつての友人を切り捨てる覚悟でもある。
「望むところだ。——俺たちは、そう簡単には倒れないぞ」
ルキフェルは淡々と答えた。彼の言葉を聞いた瞬間、マクシムは目を見開く。
「……“俺たち”?」
同時にマテオの思考も完全に止まった。
——俺たち?
マテオの視線が勝手に背後へ走り、ジャスパーが一瞬目を瞬かせた。
「……は?」
ニールは眉をひそめ、コリンは完全に状況を理解できず、ぽかんとしていた。
「……あ」
マテオの頭の中が一気に繋がる。
——こいつ、勘違いしてる!!
マテオの胸が冷たくなり、声が震えた。
「……待て。今、“俺たち”って言ったか?」
ルキフェルが剣を構える。それを合図にしたかのように空気が張り裂けた。
「お前だけの戦いじゃねーのかよ!!」
マテオが叫んだ瞬間、ルキフェルが動いた。マクシムへ向けて、カットラスが振りかざされる。
「っ!」
マテオの視界が横から塞がれた。ジョルジュとペネロペが一斉に踏み込んでくる。
「くそっ!」
マテオは船縁から離れ、反射的に距離を取った。一方、ジャスパーが一歩前へ出ようとしてグウェナエルが剣を構えて道を塞いだ。
「そこまでだ」
「チッ……」
舌打ちひとつ。それ以上、踏み込めない。彼らの背後ではニールとコリンが背中合わせになっていた。言葉はないが、互いに理解している。来る。海軍兵たちが一斉に動いた。甲板は完全に争いの場へと変わる。マクシムが一瞬踏み込んで、ルキフェルとの鍔迫り合いになった。
「……そんなに僕を殺したいですか? でしたら、場所を変えましょう」
マクシムはルキフェルの足を踏み、ルkフェルが呻くと同時に甲板を蹴って走り出した。狙いは船尾。人の気配が薄い。ここでやり合えば、他を巻き込まずに済む。
「……ッ」
ルキフェルは一瞬だけ眉を寄せる。罠だと分かっているが、逃がす理由もない。
——逃げる? 違う。あいつは俺を選んだ。
舌打ち一つ、喧騒の合間を縫って追う。二人の姿は嵐のように甲板の向こうへ消えた。
「来るぞ」
マテオが笑みを消した声で言った。怒声。剣閃。ペネロペの剣が振り下ろされる。迷いはない。狙いは腕。殺す気ではないが、戦闘不能にするには十分な一撃。
——来るな。
マテオは踏み込まなかった。代わりに左腕を上げる。キィンと金属音が鳴り響き、義手が受け止めた衝撃が機構に吸われていく。袖が裂け、鈍く光る金属が露わになった。
「残念だけどさ。もう、そこは失ってる」
ペネロペの呼吸が一瞬、止まる。人間の感触を想定していた剣が異物に弾かれた、そのズレを狙う。
——今。
短銃、発砲。狙いは身体じゃない。間合いを切るための牽制。その隙に、義手がペネロペの腹へ入る。殺さないが、立てなくするには十分な角度と力。吹き飛ぶ身体をマテオは追わない。
「悪ぃな。これ以上、行くとマジで折れる」
これは謝罪じゃない。線引きだ。ジョルジュが踏み出しかけるが、マテオは視線だけで制した。
——来るなら、止める。でも、殺さない。
その覚悟が動きを縛っている。
「へえ……結構、やるじゃん」
ジャスパーは楽しそうに笑う。彼のカットラスが一定でないリズムで振るわれる。剣術としては粗いが、殺すための間だけは外さない。
——こいつ、全部避けてる。
ジャスパーは理解していた。当てようと思えば当てられるが、当てない。目的は違う。グウェナエルを押し込む。疲弊させる。これ以上前に出るなと、身体で教える。
「本気じゃないな」
「だってさぁ。全力でやったら、死ぬでしょ?」
ジャスパーは肩をすくめる。嘘じゃない。だからこそ出力を落としている。
——おれたちは、こいつらを殺しに来たんじゃない。殴りに来ただけだ。
ニールは優雅に距離を取る。細剣は急所を外し続けるが、踏み込みだけは正確。コリンは無言だった。音もなく、死角に回る。叩くのは、関節。肋。肩。立てなくするための一点。二人の動きは何百回と繰り返された連携。殺さないために、息を合わせる戦い方。
——これ以上は行くな。線を越えるな。殴る相手は、一人だけ。
「……ルカ」
マテオは甲板の向こうを一瞬だけ見る。
——勝手に突っ走りやがって。でも、追いつくからな。
あの背中を守るために。あるいは、殴り飛ばすために。海賊たちは剣を構え直した。




