第五章③ マテオ
海賊船の船内は薄暗く、雨の音が板を叩いている。四人は武器庫の一角で、それぞれの得物を確かめていた時、遠くで金属がぶつかる音がした。剣裁の音。マテオの手が止まり、息が一瞬だけ詰まる。
「……ルカ」
考えるより先に名前が零れた。胸の奥を掴まれるような感覚。次の瞬間、マテオは顔を上げ、仲間たちを振り返っていた。
「悪い、先行くわ!」
ジャスパーが何か言いかけ、ニールが名を呼び、コリンが息を呑むが、マテオはもう走り出していた。船内を駆ける。狭い通路。濡れた床板。船が大きく揺れ、身体が横に流れる。階段に足を掛けた瞬間、踏み外した。
「っ……!」
マテオの視界が傾く。膝が板に打ちつけられ、鈍い痛みが走るが、歯を食いしばり、手すりを掴んで身体を引き上げる。雨音と雷鳴が上から押し寄せてくる。近い。剣のぶつかる音が、はっきりと聞こえる。怒号。木が軋む音。誰かの荒い息遣い。すべて上の甲板にある。マテオは階段を二段飛ばしで駆け上がった。足が滑る。船が揺れる。それでも、止まれるはずがなかった。あそこにいる。一人で戦っている。マテオは嵐の中へと飛び込んでいった。
刃と刃が噛み合う。金属が擦れ合う低い音。ルキフェルは微かな振動の向こう側まで感じ取っていた。
——来る。
ルキフェルの視界の端で、倒れた男が動く。ジョルジュだ。荒い呼吸の中、制服の内側へ伸びる手。短銃だ。わかっている。狙いも、角度も、距離も。ルキフェルはわずかに足を踏み替え、鍔迫り合いの位置をずらした。マクシムと自分の身体が一直線に重なるように。
——撃てば、こいつに当たる。
それでもマクシムは一歩も引かない。むしろ刃を押し返してくる。小柄な身体からは想像できない踏ん張り。歯を食いしばり、真正面からこちらを睨み返す。
「やめろ!」
怒号。ダヴィットの声。ルキフェルはわずかに口角を上げた。正しい判断だが、遅い。マクシムの声が甲板を裂く。
「構うな! 僕ごと撃て——今すぐだ!」
——やっぱりな。
理解している。自分がわざとこの位置にいることを。それでも撃てと言う。その覚悟。その狂気。ルキフェルは刃を受け止めながら思わず感心していた。指揮官としては、悪くない。だが、視界の奥で別の動きがあった。迷いのない動作。躊躇のない抜き身。ロザリー。その瞬間、ルキフェルの背筋に走ったのは戦慄だった。
——まずい。
銃口が向く。角度が違う。ためがない。反射的にルキフェルの身体が動いた。鍔迫り合いを断ち切り、マクシムから距離を取る。遅かった。銃声。乾いた音が雷鳴よりもはっきりと耳に残り、額に熱が走る。皮膚が裂ける感触、鈍い衝撃。視界が赤くなって流れた。頬を伝い、顎へ落ちる。温かい実感に、ルキフェルは一瞬だけ目を瞬かせた。初めてだ。この場で自分に傷をつけたのは。ルキフェルが視線を向けると、ロザリーは銃を構えたまま息を詰めてこちらを見ている。震えているが銃口は下がらない。ルキフェルの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
——なるほど。いい腕だ。判断も、胆力も。
一方で、マクシムはルキフェルの血を見た瞬間、胸の奥が軋んだ。狙い通りだ。撃たせた。自分ごと巻き込む覚悟で、あの男に初めての傷を与えたが喜びはなかった。こいつはやっぱり止めなきゃいけない。ルキフェルは血を指で拭い、その赤を確かめるように一瞥すると再びカットラスを構えた。翡翠の瞳が笑う。雨音と金属音が、甲板の上で重なり合う。ルキフェルとマクシムは、ほとんど互いの呼吸が触れ合う距離で鍔迫り合っていた。その時、海賊船の甲板で飛び込むように目にした者がいた。
「……っ!」
マテオだった。船内を駆け上がり、階段を飛ばし、最後はほとんど転げるように甲板へ出た。彼の視界に飛び込んできたのは、剣を交える二人の姿。そして、その奥。甲板の縁。若い海軍兵が震える手で銃を構えている。
——やめろ。
声にならない叫びがマテオの喉の奥で潰れた。銃口の向き。狙い。その先にいるのが誰なのかを、マテオは一瞬で理解してしまった。ルキフェルだ。
「……っ、くそ……!」
考えるより早く身体が動いた。剣帯から銃を引き抜き、銃身を口に咥えて甲板を駆けて船縁を蹴るが、距離が思ったよりもあった。
「——っ!?」
踏み出した瞬間、足元が空を切る。船と船の隙間。雨に濡れた木材が、容赦なく距離を誇張する。咄嗟に伸ばした片手が海軍船の船縁を掴んだ。
「っ……!!」
掌が滑る。指先が悲鳴を上げる。腕に全体重がかかり、肩が抜けそうになる。それでも離さなかった。雨で濡れた船壁。靴底が役に立たない。必死に爪を立て、肘を掛け、身体を引き上げる。その間にも甲板に怒声が叩きつけられた。
「やめられるか!! 仲間を、海軍を……何だと思ってるんだ、こいつは!!」
ジョルジュの声だった。その叫びがマテオの背中を撃ち抜く。
——撃つ。
そう悟った瞬間、マテオの思考が一気に白くなる。間に合え。間に合え。間に合え。
「……っ!!」
ようやく船縁から顔を出すと、マテオは口に咥えていた銃を右手で構えた。体勢は最悪、船縁にしがみつくような不恰好さ。おまけに銃を構える手は安定しない。雨が視界を歪めるが、それでも狙いを定める。ルキフェルじゃない。ジョルジュでもない。ジョルジュの銃口、または銃身。自分と対角線上。距離。角度。この位置、この姿勢で当たる保証なんて、どこにもない。一か八か。失敗すれば自分が落ちる。外せば、次はない。
「……くそ……っ」
マテオは歯を食いしばった。手が震える。心臓の音が耳を塞ぐ。それでも、引き金に指を掛けた。
——撃つなら、今だ。
マテオの視界には、もう二つしかなかった。怒りに歪む若い兵の顔。兵の先にいる、親友の背中。
「……ルカ……!」
祈りにも似た呟きが雨に溶ける瞬間、弾けた。
——パンッ!!
音は遅れて届く。正確には音より先に変化が起きていた。ジョルジュの指が引き金を引き切る、筋肉が収縮する直前、空気が裂ける。弾丸は一直線ではなかった。狙い澄まされた、わずかな角度。人を撃つための線ではなく、武器だけを奪うための線。回転しながら迫る弾頭。雨粒を弾き、空気を歪ませ、金属と金属がぶつかる。
——ガンッ!!
鈍く乾いた衝撃。ジョルジュの手首が跳ね上がる。衝撃が骨を伝い、肘まで走る。
「……っ!?」
短銃がジョルジュの指から離れた。銃はくるりと宙を舞い、甲板に一度、二度、跳ねる。その間にも世界は静まり返っていた。誰もが息を止め、何が起きたのか」を理解できないまま、短銃は船縁を越えた。重力に引かれ、黒い水面へ。ちゃぷんという音すら、やけに遠い。
「……っ、何!?」
誰かの声。ざわめき。隊員たちの視線が一斉に動く。マテオの心臓がまだ暴れている。鼓動が耳を打ち、呼吸が追いつかない。それでも片足を船縁にしっかり掛けて体勢を整える。
——間に合った。助けた、よな。
その事実が遅れて胸に落ちてくる。狙ったのは銃。人じゃない。外せば、終わりだった。それでも引いた。自分が何をしたのかを反芻しながら、マテオはふっと息を吐く。
——復讐者の親友を持ってて、それでも首突っ込んで……オレって実はお人好しなのかもな。
一気に気が緩んだのか。気づけばマテオは声を風に乗せていた。
「あぶねー。怪我させずに武器だけ狙うの、難しいんだよ」
甲板にいる全員が振り向く。甲板の縁、そこにマテオはいた。濡れた船縁に腰を掛け、だらしなく服の前を開け、片肘を膝に乗せて銃を下げている。雨に濡れた髪が無造作に垂れ、口元にはどこか力の抜けた笑み。右手の銃口からまだ細く煙が立ちのぼっていた。マテオは視線を上げ、甲板の若い兵に向けて軽く言った。
「仲間を傷つけんなって言ってんだよ、坊や」
ルキフェルは初めてはっきりとマテオを見た。いるはずのない場所にいる。ありえない介入。それでも、助けられた。驚愕。困惑。そして、胸の奥で何かがほどける。表情は変えないが、視線だけでマテオに頷いた。言葉のいらない「ありがとう」だった。この一瞬だけルキフェルは復讐者でも獣でもなく、ただの人間に戻っていた。




