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報復の航路 【第二作 ルー・ブレス】3・4巻「覚醒編」  作者: セキユズル
第五章「仲間を傷つけんなって言ってんだよ、坊や」
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第五章② 海賊と海軍

 甲板の中央で起きているのは戦闘というより制圧だった。誰もが倒れている。伏している。蹲り、呼吸のたびに肩が震える。そして、立っているのは一人だけ。


 ルキフェルは剣を下げたまま甲板を見回した。視線はゆっくりで冷たい。人の数。立っている者の数。足の運び。視線の向き。手が武器に伸びる前兆。息が変わる瞬間。次に動くのは、誰だ。雨粒が頬を叩く。冷たいが、熱は体の内側にある。戦うための熱ではない。殺すための熱でもない。目的が燃えているだけだった。彼の眼が動かない男を一人捉えた。甲板の端。マクシムは動かない。ルキフェルはそれを弱さだとは思わなかった。恐怖でもない。むしろ面倒だなどと心の中で吐き捨てる。


 ——あいつは、見ている。考えている。人を止めるべき立場で、何を言うべきかをまだ探している。


 一方、少し離れた場所でマクシムは凍りついたように立っていた。命令を出す立場にいる。だから動けないのではない。命令という言葉が、今の光景の前ではひどく薄っぺらく思えたからだ。人が倒れる。骨が軋む音がする。息が潰れる。その中心にいるのが……心に名前が勝手に浮かんだ瞬間、マクシムの胸の奥が裂けた。違う。今そこにいるのはルキフェルだ。なのに、頭のどこかが認めたくないものを認めてしまう。


「人は、あそこまで……恐ろしくなれるのか」


 激情ではない。狂気でもない。あれは理解しすぎた者の静けさだ。倒す順番も、逃げ道も、次の一手も。すべてが見えている者の動き。それが、かつてあの船で笑っていた少年と繋がっている。その事実だけが、マクシムの足を縛りつけた。


「……くそ……っ」


 甲板のどこかで声が漏れた。マクシムが顔を上げるより早く、ジョルジュが立ち上がっている。ジョルジュは肩を押さえ、頬に血を伝わせながら視線だけはルキフェルへ向いていた。


 ——無理だ、やめろ。


 そう言うべきなのに、マクシムは声を出せなかった。指揮官のくせに、いちばん先に“判断”を失っているのは自分だ。その自覚がさらに喉を乾かした。


「……やらせるかよ……!」


 ジョルジュが踏み込む。構えは甘い。息も荒いが、目は折れていない。ルキフェルはほんの僅かに眉を動かした。こいつ、まだ来るのか。邪魔だな殺す必要はないが、止める必要はある。彼は避けただけ。大きく動かない。剣を振り上げることすらしない。ジョルジュの刃が届く、その直前に半歩ずらす。それだけで相手の勢いが空を切る。すれ違いざま、ルキフェルのカットラスが一閃した。狙ったのは頸でも腹でもない。ジョルジュの視界、恐怖の入口。ざり、と乾いた音。ジョルジュの前髪が宙に散り、遅れて彼の頬に赤い線が浮かび、肩口の制服が裂けた。ジョルジュの目が見開かれる。痛みが来る前に恐怖が来た。切れる場所に置かれたと理解した瞬間、身体が固まる。ルキフェルはそこに畳みかけない。畳みかけなくても勝てるから。次の瞬間、ルキフェルの脚が回る。旋風脚。重心の軸がぶれない。甲板の濡れも関係ない。足先が狙うのはジョルジュの顎。意識を奪う一点。


「が——っ!」


 衝撃でジョルジュの視界が横倒しになり、身体が甲板に叩きつけられた。息が肺から強制的に吐き出され、咳も叫びも間に合わない。


「ジョルジュ!!」


 ソフィーが思わず一歩踏み出す。マクシムの中で何かが切れた。


「やめろ、ルキフェ——」


 その名を喉まで押し上げた瞬間、別の声がそれを塞いだ。


「だめです」


いつの間にかソフィーの隣にフードを被った女が立っていた。スザンヌだ。彼女はソフィーの肩を掴んでいた。


「行ったら……殺されます」


 感情がない。脅しでもない。現場を見て導いた結論。スザンヌの胸の奥は凍てついて、ざらついていた。風の冷たさが皮膚を削るように心が擦れていく。あの声。マストの上から落ちてきた、快活で透き通って、よく通る声。あれが耳に入った瞬間から、警戒心とは別のところがずっと騒ついている。理由もはっきりと分からないまま、今の自分は後方支援と護衛の位置で見ているだけ。


 ——私は、何のためにここにいるの。


 助けるためか。守るためか。なぜ動けない。動けば殺される。そういう場だと身体が理解してしまっている。それが悔しい。自分が正しい判断をしていることが、なおさら悔しい。ソフィーの肩に添えたスザンヌの手がわずかに震えた。違う。震えているのは寒さじゃない。スザンヌは唇を噛み、視線を甲板の中央へ戻す。立っている男。傷だらけの顔。翡翠の目。そして、あの声の残響。


「……あの人、いったい……誰?」


 雨はなお降り続ける。ルキフェルは倒れたジョルジュの傍に屈んだ。荒い息。焦点の合わない目。まだ意識はある。……邪魔だな。心の中でそう切り捨てながら、顔には出さない。殺す必要はないが、使う価値はある。


「……悪いな」


 低く落とした声は謝罪だった。ジョルジュだけに届く距離。その言葉に意味を込めたわけではない。ただの習慣だ。ルキフェルは腰に巻いた赤いサッシュを解いた。赤い布がするりと空気を切る。ルキフェルの視界の端では誰も動かない。


「……あの男」


 ルキフェルは視線を走らせた。甲板の少し離れた場所、立ったまま動かない男。


「仲間がこれだけ倒れてるのに、出てこないのかよ」


 苛立ちがルキフェルの胸の奥で静かに積もる。怒りではない。遅さへの評価だ。ジョルジュの背後へ回り、喉元に布を通した。


「……お前のとこの隊長が、さっきからずっと動かない」


 位置を取る。気道。頸動脈。締めるが一気にではない。死なない程度。声が出ない程度。意識が飛ぶ直前。ジョルジュの喉から掠れた音が漏れた。ここだ。空気を吸おうとして、肺が応えない。


「……来い」


 マクシムは唾を飲み込んだ。剣を握る手が震えている。恐怖ではない。怒りだ。


「ジョルジュが……本気で殺される」


 マクシムの胸の奥で何かが完全に崩れ落ちた。もう誤魔化せない。もう目を逸らせない。あれは、かつて白い帆の下で笑っていた少年じゃない。優しくて快活で光みたいだった。だが、違う。……あれは悪魔だ。


「やめろ!! やめろ、ルキフェル!!」


 雷鳴のような怒鳴り声。マクシムは考えるより先に、身体が動いていた。剣を引き抜き、踏み出す。


「部下を解放しろ!!」


 マクシムの声が裏返る。構わない。格好なんてどうでもいい。


「——おれが、許さない!!」


 この言葉だけは譲れなかった。ルキフェルはほんの僅かに口元を緩める。


「……ようやくだ」


 ルキフェルはサッシュをふっと緩めた。空気が一気に流れ込み、ジョルジュが激しく咳き込む。役目は終わり。ルキフェルはジョルジュの襟元を掴む。


「邪魔だ」


 ルキフェルはジョルジュを投げ飛ばした。船縁の方から鈍い音がしたが、ルキフェルは振り返らない。足元に赤いサッシュが落ちたまま。もう必要ない。カットラスを引き抜く瞬間、ルキフェルの中で切り替わった。交渉は終わり。調整も終わり。翡翠色の瞳が、まっすぐにマクシムを捉える。やっと出てきたな。逃げ場はない。言い訳も、猶予も。次に続く言葉は最初から決まっていた。


「——じゃあ、次はお前だ」


 ルキフェルが笑った瞬間、マクシムの中で最後の線が引かれた。もういい。友人じゃない。理解し合えない。戻れない。


「……引きずり出された、か」


 そう呟きながらマクシムは一歩、前へ進んだ。甲板の中央、雨。二人の剣。マクシムの脳裏にどうでもいい記憶が脳裏をよぎる。


 ——名前の綴り、なんだろうな。


 あの時、ラテン語の聖書を取り出して”Lucifer ”の綴りを教えた。


「……悪魔祓いだ」


 今、この場で。この悪魔を止められるのは——。


「おれだけだ」


 マクシムは剣を構えた。迷いはもうない。



 雨に濡れた小舟が海賊船の船腹に鈍い音を立ててぶつかった。


「——着いたぞ!」


 ジャスパーが叫ぶ。返事を待つ余裕はない。彼は櫂を放り出し、濡れた船壁に両手をかけた。ロープも梯子もない。ただの木の壁だ。指先が滑る。歯を食いしばり、腕の力だけで身体を引き上げる。


「っ……ちくしょう!」


 ジャスパーの後ろからマテオが続く。焦りのせいで足を踏み外し、船腹を一度蹴る形になったが、反動で勢いをつけて掴み直した。


「落ちるなよ! 今落ちたら洒落にならねえ!」

「言われなくても分かってる!」


 ニールは一瞬だけ船体を見上げ、助走をつけるように小舟の縁を蹴った。動きは軽いが着地の瞬間、指が滑る。


「っ……!」

「ニール!」


 コリンが下から必死に声を上げるが、ニールは何事もなかったように歯を見せて笑い、もう片方の手で窓枠に指を引っかけた。


「大丈夫、大丈夫。今のはちょっとスリル演出」


 最後にコリン。力はないが、必死さだけは誰にも負けていない。雨で濡れた板に爪を立てるようにして、必死に身体を持ち上げる。


「ぼ、ぼく……遅い……!」

「黙って登れ!」


 ジャスパーが手を伸ばし、コリンの襟首を掴んで強引に引き上げた。四人は船腹の小さな窓に辿り着いた。元は換気用だろう、人が通るには狭い。


「行くぞ!」


 ジャスパーが先に頭から突っ込んだ。次の瞬間、甲板下の暗がりに身体を投げ出す。


「——っぶね!!」


 どさり、という鈍い音。ジャスパーが床を転がり、樽に肩をぶつけて止まる。


「静かにしろって言っただろ……!」


 マテオが舌打ちしながら軽やかに着地するも、彼の背後でニールが慌てて飛び込み、勢い余ってマテオを潰してしまう。


「おわっ!」

「ちょ、ちょっとマテオ!?」


 さらにコリンが落ちてきて、四人は床の上で絡まるように転がった。


「……っ、全員いるか」

「いる!」

「たぶん!」

「今の音、誰か聞いてないよな……?」


 四人は一斉に息を殺した。船内は静まり返っている。上では雷鳴と雨音が騒がしいが、内部はまだ気づかれていないらしい。


「武器庫だ。走るぞ」


 ジャスパーが先導する。通路は狭く、灯りもほとんどない。床板が軋むたび、全員が一瞬ずつ息を止める。やがて、目的の区画に辿り着いた。木箱がいくつも積まれ、油と鉄の匂いが混じった空気が漂っている。


「これだ」


 マテオが木箱の蓋に手をかける。


「せーの……!」


 ——バキッ。


 乱暴に引き剥がされた蓋が音を立てて外れる。中には、整然と並べられたカットラス。


「……あった」


 ジャスパーが一本取り上げ、手の中で重さを確かめる。


「一本ずつだ。贅沢言うなよ」


 マテオがすぐに次を掴む。刃を抜き、雨粒を払うように軽く振った。


「……ようやく殴りに行ける」


 ニールも一本手に取り、笑顔のまま刃先を見下ろす。


「これで丸腰じゃない。安心して揉め事に参加できるね」

「ぼ、ぼくも……!」


 コリンが少し大きめのカットラスを抱えるように持つ。両手で握り、必死に頷いた。四人が剣を手にした瞬間、空気が変わった。逃げてきた人間の顔ではない。取り返しに行く者の目だ。


「行くぞ」


 ジャスパーが短く言う。


「今度こそ——あいつを止める」



 遠くで雷鳴が轟く。余韻がまだ空気に残っているうちにルキフェルは動いた。倒れ伏す隊員たちの間を躊躇なく走り抜ける。跳ぶでも、避けるでもない。最短距離を選び続ける足運び。そこに迷いはなかった。ルキフェルの視界の端で銃口が動く気配を感じても、意識は一点にしか向いていない。


 ……やっぱりな。


 ルキフェルは内心で舌打ちした。相手は小柄だが、姿勢が崩れていない。剣の握りも、足の置き方も、戦える者のそれだ。見た目だけの指揮官じゃない。剣を交えれば、すぐに分かる。だからこそ。だからこそ、許せない。ルキフェルは踏み込み、間合いに入って躊躇なくカットラスを振り下ろす瞬間、金属音が炸裂した。マクシムは反射的に剣を合わせている。考える前に、身体が動いたが、受け止めた刹那、彼の腕に走る衝撃に歯を食いしばる。重い。ただの力任せではない。重心が刃を通じて叩きつけられてくる。足が甲板に沈み込む錯覚。剣を合わせるたび、体力だけでなく意志そのものを削り取られていく感覚。


「……強い」


 マクシムは即座に理解した。昔より……いや、比べものにならない。記憶の中の友人。軽やかで、笑っていて、それでも芯の強かった少年。面影はあるが今、目の前にいるのは別物だ。刃が交差する。流れるような剣筋。無理のない体捌き。太極拳だ。受け流す動き。力をぶつけない。崩し、ずらし、次の一手へ繋げる。中華剣術の型を土台に、軌道は美しいが狙うのは常に急所。無駄がない。それに日本剣術に近い間合いの詰め方。踏み込む距離。退く距離。すべてが最適解だった。


「やはり……異国の武術が融合している……」


 マクシムの口から思わず言葉が零れた。彼の声を聞いた瞬間、ルキフェルの目が鋭く細まる。


「……分かるか」


 剣を交えただけでここまで読み取る。小柄だが、剣士としては一流に近い。だったら、なおさらだ。フランソワをあんなやり方で殺した。正面から斬り合うことすらせず、爆破で。——卑怯だ。怒りが刃に乗る。ルキフェルは一歩、深く踏み込んだ。重心を落とし、体軸を崩さないまま斬撃を重ねる。受け止めるたび、マクシムの腕が痺れていく。マクシムは歯を食いしばった。一瞬だけ踏ん張り、体勢を立て直す。ここで、退くわけにはいかない。後ろには部下がいる。これ以上、誰かを倒させるわけにはいかない。相手が誰であろうと。その決意が剣に伝わった瞬間、乾いた音と共にマクシムの剣が弾かれる。手から伝わる衝撃、剣先が宙を舞う。


「——っ」


 マクシムの身体がわずかに前のめりになる。その隙をルキフェルが見逃すはずもなかった。雷鳴がもう一度、遠くで轟く。

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