第五章① 小舟の四人
雨音と頬に伝わる小さな振動に、マテオは目を覚ました。最初に感じたのは、冷たさ。頬に当たる雨粒。次に風。最後に、身体の下で不規則に揺れる感触。
「……っ」
マテオが息を吸った瞬間、肺に冷気が刺さり、意識が一気に浮上する。彼は反射的に上体を起こそうとして、バランスを崩しかけた。足元は安定していない。板切れのような狭さ。周囲は暗く、視界の端で波が跳ねる。小舟だ。理解した途端、マテオの背筋がぞっとした。記憶が荒っぽく繋がっていく。甲板。怒号。剣閃。ルキフェル。——その先がない。
「……おい」
マテオは声を出し、すぐ隣に転がっていた影を揺すった。
「ジャスパー。起きろ」
すぐに、くぐもった呻き声が返ってきた。
「……っ、頭……」
「いいから起きろ。今すぐだ」
続けてニール、コリンを叩き起こす。三人とも遅れて状況を飲み込み、同時に息を呑んだ。雨。波。小舟。
「……船は?」
ニールの声がやけに静かだった。マテオは答えず、周囲を見回す。海の向こう、雨に滲む輪郭。その中に船影が三つ。一隻。見慣れたシルエット。自分たちが乗っていた船。二隻。別方向に並走するような大きな影。
「……ルキフェルだな」
ジャスパーが絞り出すように言った直後、船底に触れたコリンの手に何かが触れた。コリンが目を向けると思わず声を漏らす
「……あ」
布に包まれた重さ。コリンが引き上げたのは四丁の銃と弾薬。誰ともなく、乾いた笑いが漏れた。
「……はは、“情け”ってやつかよ。違ぇだろ」
マテオの声には怒りが滲んでいた。いや、怒りというより裏切られたに近い。
「……そうじゃねえ」
ぽつりとジャスパーが言った。雨がさらに強くなる。
「守るとか巻き込まないとか、そういう話じゃないでしょ」
ニールが拳を握り、濡れた木板の上で指が軋む。
「ぼくたちを……置いていかないでよ」
最後にコリンが言った。声は震えていないが、ひどく冷えていた。四人とも、わかっている。ルキフェルが彼なりに選んだ結果だということも。自分たちを生かすための判断だったということも。——それでも。
「一人で背負うとか、格好つけんなよ」
マテオは雨の向こうの船影を睨んだ。
「そうじゃないって……」
波間で揺れる小舟の上。四人の怒りは爆発もしなければ、叫びにもならなかった。深く沈んでいく。それが一番厄介な怒りだと、彼ら自身が一番よく知っていた。小舟は波に合わせて静かに上下する。櫂も動かさず、四人はただ漂っている。雨音だけがやけに大きい。沈黙を破ったのはニールだった。
「……ねえ。どうしようか」
「……わからねえ」
ジャスパーが正直すぎる答えを返す。それ以上、言葉を足せなかった。コリンは小さく震えている。口を開こうとしてやめた。マテオだけが顔を上げていた。雨の向こうにぼんやりと浮かぶ三つの船影。その中の一つ、海軍船。
「……いる」
根拠なんてないが、確信だけはあった。ルキフェルはあそこにいる。たった一人で、誰にも止められず、誰にも支えられず。
「オレは……」
ここにいていいのか。小舟の中。銃がある。弾もある。生き延びるための最低限は、揃えられている。——それが、余計にマテオの胸を抉った。
「……っ」
マテオは舌打ちし、両手で頭を抱えた。濡れた指が髪に食い込む。
「……悔しいな、止められなかった。けどさ、一番悔しいのは……あいつの側に、いられないことだ」
雨が頬を伝う。何なのか、もう区別がつかなかった。
「決して遠くない距離だろ。あんなに近くにいるのに……オレたちはここにいて。あいつは一人で戦ってる。何もできない。何一つ、手出しできない。それでも……」
マテオは歯を食いしばる。一瞬言葉が詰まったが、雨音に言葉が溶ける。
「それでも、あいつのこと……諦めきれねえんだよ」
マテオは顔を上げた。濡れた睫毛の向こうで目が揺れている。
「人が変わった。人を殺した。それも……たくさんだ。なのにオレ……まだ親友だって思ってる、それが……一番悔しい、情けなさすぎて……嫌になる」
マテオはの肩が小さく上下する。ジャスパーはまずマテオを見た。歯を食いしばり、視線を逸らさずに海軍船を睨みつけている横顔。次に、マテオの視線の先、三隻の船を見た。距離は遠くない。雨音に紛れれば、櫂の音も消える。海は、今なら行ける。
「……ああ、そうか」
ジャスパーの胸の奥で何かが腑に落ちた。自分の勘がいつも通りうるさい。ジャスパーは何も言わず、櫂を掴んだ。ぎ、と水を切る音。小舟がわずかに向きを変える。
「……え?」
ニールが声を漏らす。コリンが目を見開き、マテオがはっとジャスパーを振り返った。ジャスパーは一度だけ、全員を見渡してから言った。
「行くぞ。……と言っても、これは選択だ。命懸けだし、文句も後悔も受け付けねえ」
雨に濡れた顔でジャスパーはニヤリと笑った。その笑みはどこか無理をしている。
「おれも……ここまでされても、あいつをまだ諦めちゃいないらしい」
軽口の形を借りているが、目は真剣だった。櫂を漕ぐ彼の手に力が入る。
「おれはな。海軍のところにお邪魔して、あいつらの前でルキフェルをボコボコにするつもりだ」
「……は?」
「……え?」
「巻き込まれたんだぞ、こっちは」
ジャスパーの声から冗談の色が消える。
「それくらいやったってバチ当たらないよな」
マテオは呆然としたままジャスパーの顔を見つめていたが、次第に胸の奥で、別の火が灯る。
「……ああ、くそ」
フランソワ海賊団の悪い癖だ。どうせやるなら派手に。どうせ終わるなら笑って。マテオは息を吐いた。
「よし。それなら、オレも行く」
底に置かれていた銃を掴み、剣帯に差し込む。次々に、四丁。その手つきは、迷いがなかった。マテオは顔を上げ、はっきりと言う。
「ただし。あいつを最初に殴っていいのは、オレだ」
ニールが一瞬目を丸くし、ふっと笑った。笑みは爽やかだが、目が笑っていない。
「……それ、海軍さんの前でやるんだよね? うん、いいね。責任の所在が曖昧になる」
「ニール……?」
「だってほら。混乱の最中って、人って何も見てないじゃない?」
コリンが遅れて、ぎゅっと拳を握った。
「……ぼくも! みんなが行くなら、ぼくも行くよ! 一人だけ残るなんて、できない!」
ジャスパーは彼らの様子を見て、ふっと鼻で笑った。櫂を漕ぐ腕に力が漲る。小舟はさらに波を裂いて進み始めた。
「決まりだな。善は急げ、まずは武器を取らねえとな」
ジャスパーは前を見据えながら言う。マテオは海軍船を睨みつけたまま低く呟いた。
「……ルカ。今、行く」
誓いでも宣言でもなかった。親友に追いつこうとする男の本音。雨音と波の騒めきに紛れて溶けた。




