第四章④ 海賊と海軍
マクシムの耳に、ルキフェルの声が残響のように残っていた。はっきりと名を聞いてしまった。聞き間違いだと逃げる余地もないほど、澄んだ発音で。マクシムの胸の奥が嫌な音を立てて沈む。思考が追いつかない。いや、追いついているからこそ認めたくない。
——なんで……なんで今まで疑わなかった。フランソワが生きていた可能性をあれだけ考えてきたくせに。その影にもう一人、もっと重要な存在がいたことをどうして忘れていた。そうだろ、フランソワが生きてるなら、あいつも共に行動している可能性を疑うべきだった。自分だ、自分の怠慢だ。自分の思考停止だ。
怒りが遅れて自分自身に向く。爪が掌に食い込む感覚すら遠い。ルキフェルの翡翠の双眸が甲板をゆっくりと見渡し、マクシムに定まる。わずかに口角が上がった。笑みとも、獣の威嚇ともつかない表情。
「……そして、そこにいる男を討つために来た」
風が吹き抜ける。雷鳴が遠くで低く唸った。影として生きてきた男が、初めて空の下で自分の名と意志を叩きつけた瞬間だった。その時、マクシムは視線を感じた。真っ直ぐだ。逃げ場のないほど一直線にこちらを射抜いてくる。……見てる。あいつは、こちらを見ている。間違いなく、自分を。
——そこにいる男を討つためにきた。
先ほどの言葉が遅れて意味を持つ。マクシムの心臓が遅れて跳ね上がった。
甲板で起きたすべての異常。警備隊の壊滅。幽霊船。見えない敵。復讐のために。たった一人でか。だが、目の前の男は冗談の顔をしていない。翡翠色の双眸は冷たく澄み切っている。そこに、かつての面影を探そうとしてマクシムは我に返った。違う。今、考えるべきことじゃない。ラウルだとか、ルキフェルだとか。友人だったかもしれない過去だとか。嫉妬だとか、劣等感だとか。そんなものは全部後だ。
マクシムの身体が指揮官として先に動く。剣を持った部下たちが、彼の視界の端に入る。誰もが緊張で硬直している。下手に動けば、死人が出る。マクシムは歯を食いしばった。——部下を守れ。その一念だけが辛うじて彼を立たせていた。
「ルキフェル……?」
誰かが呟いた名は波紋にもならずに消えた。隊員たちが一斉に顔を見合わせる。誰の顔にも「知っている」という表情はなかった。むしろ、「聞いたことがない」という共通の戸惑いが重たい沈黙のように場を覆う。その沈黙をダヴィッドが震えるような声で破った。
「待て……その名、もう一度言ってみろ」
ルキフェルは気にも留めない。彼らが戸惑おうが顔を見合わせようが、どうでもよかった。知るはずがない。知っているのは、死んだ者たちだけだ。ダヴィッドは喉を鳴らし、額に手を当てて呻いた。
「……そんなはずはない。フランソワとは何年も渡り合ってきた。あの男が誰を従え、誰と共に海を渡っていたか、それくらいは記録にも耳にも入っていた……」
マクシムが静かに問う。
「——なのに、彼の名は一度たりとも出てこなかった」
ダヴィッドは苦々しく頷いた。
「……ああ。聞いたことがない。フランソワの名と共に語られた仲間たちのなかに、ルキフェルなどという名はただの一度も、影も形も出てきていない」
「それじゃ……偽名の可能性は?」
リラがぽつりと呟く。隊員たちの会話は、ルキフェルにとって耳に入っても意味を成さない雑音。フランソワの名、記録、残党、偽名の可能性。どれも今さらだ。名が出ない理由を説明する義理もない。
「さあな……だが、あの目は本物だ」
ダヴィッドは険しい目でルキフェルを睨み返す。相手の中に渦巻く激しい感情、苛烈な怒り、その奥に潜む何かを彼の本能が拒んでいた。
「名が本物かどうかはわからん。だが……あの目が、フランソワを想っているのは確かだ。それだけは、疑いようがない」
ダヴィットの一言が刃の先で心臓の縁をなぞった。ルキフェルはわずかに目を伏せる。船の構造を見るような視線。木目の歪み、帆柱の角度、索具の張り。意味のあるものだけを見てきた、いつもの癖だ。
……こいつ。よく見ている。
心の奥で吐き捨てる。怒り、憎しみ。そんな単純なものなら、ここまで生き残れなかった。フランソワを想っている。その言葉は否定しようがなかった。想っている。敬っている。信じている。そして、奪われた。だからこそ、胸の奥が一瞬だけ軋んだ。外套の縁を掴む指に無意識に力が入る。革がかすかに鳴いたが、それも一瞬だった。次の瞬間にはすべてを押し殺す。名が残らない役目。それは誇りでもあり、呪いでもあった。
「……名が残らない役目もある」
影で船を動かす。船長を立たせ、仲間を生かし、戦場を成立させる。血を浴びるのは船長。責任を引き受けるのも船長。自分は、その下で全てを支える。それでよかった。少なくとも、あの頃は。ルキフェルは顔を上げ、改めて彼らを見た。恐怖と警戒が混じった視線。理解できないものを見る目。それでいい。
「……俺はフランソワ海賊団のクォーターマスターだった。戦場に立つのは船長の務めだ。俺は、戦場の下ですべてを支えていた」
そこに誇示はない。自慢も言い訳もない。生き切った者の声だった。甲板に落ちる静寂の質が変わった。それを、ルキフェルは肌で感じ取る。理解されなくていい。恐れられれば、それでいい。心の奥でそう呟きながら、ルキフェルは再び感情を沈めた。次に動くのは言葉ではない。甲板に再び沈黙が落ちた。その静けさを裂いたのは、シャルルの声だ。
「クォーターマスター……」
その言葉が耳に届いた瞬間、ルキフェルの内心で小さな舌打ちが鳴った。今さらか。海軍だろうが何だろうが、船を扱う人間なら知っていて当然の役職だ。知らないのなら、それは机上の記録しか見てこなかったという証拠に過ぎない。ジョルジュの素朴な問いが続く。
「それって……何をする役職なんですか?」
ルキフェルは、あからさまにため息をつきたい衝動を抑えた。影で船を動かしていた者の存在は、表に立つ人間には永遠に理解されない。シャルルの説明が続く。航海、物資、船員、調整、影、裏、実力者。正しいが、あくまで外から見た説明だ。それだけじゃない。その仕事はもっと血に近い。怒鳴り合い、殴り合い、反乱の芽を摘み、船長が迷えば進路を決め、船長が狂えば止める。名が出ない? 当然だ。出す必要がないからだ。サミュエルの納得したような声が耳に入る。フランソワが情報を絞っていた理由。違う。情報を絞ったんじゃない。自分がそういう場所にいた。だからこそ、ルキフェルは口を開いた。
「そういうことだ」
自分の声がひどく乾いているのが分かった。感情を乗せる必要がない。事実を言うだけでいい。
「……俺は、奴の影だった」
その言葉を吐いた瞬間、胸の奥がわずかに熱を帯びた。怒りと誇りが、同時に立ち上がる。目の前に並ぶのは、あの男を討った側の人間たち。
「だからこそ、今ここにいる。その命を奪ったお前たちの元に、こうして立っている」
冷たい風が吹き抜け、雨に濡れた甲板がわずかに軋む。恐怖。警戒。距離を取ろうとする無意識の動き。この反応には、慣れている。
「俺のことを初めて知ったというなら、俺の仕事がうまくいっていたということだ。表に出なかった。それだけの話だ」
誇りだった。ずっと。その誇りを壊されたから今、ここにいる。その時、一歩前に出る気配。ルキフェルの視線が自然とそちらへ向く。グウェナエル。目が違う。剣を持つ者の目だ。人を見る目ではない。斬る対象を測る目。その鋭さに、内心で感心する。……こいつは、ただ者じゃない。
「影で生きてきた人間が、こうして表に出てきた」
グウェナエルの言葉を聞いた瞬間、ルキフェルの内側で別の感情が湧いた。眉ひとつ動かさず、ただ見返すが、その沈黙の間にグウェナエルは一歩も引かない。量り合いだ。言葉ではなく、存在そのもので。
「……なにか、相当な決意があるはずだな」
——天然か? さっきから何度言えば分かる。俺は復讐しに来た。決意も何も、もう終わっている。
ルキフェルは答えない代わりに相手の呼吸、重心、剣の位置を読む。なるほど。こいつは斬る瞬間を想像している。自分が何人殺してきたかを感覚で理解し始めている。
「お前のその目だ」
来る。グウェナエルが言葉ではなく、刃の領域に踏み込んでくる。
「今すぐにでも、誰かを殺せる目をしている」
銃に伸びかける他隊員たちの指。一歩引く足音。空気が変わった。グウェナエルが言葉を研ぐ。
「……いや、すでに何十人も殺してきた目だろう?」
——当たりだ。だからこそ、ルキフェルは淡々と答えた。
「気のせいだ」
感情は乗せない。否定でも肯定でもない。事実を拒否しただけ。グウェナエルの目が細くなる。
「だったら——試させてもらおうか」
その瞬間、ルキフェルの内側で獣が静かに身を起こした。ようやくだ。言葉はもう要らない。影の仕事はここで終わる。二人の視線が真正面から噛み合った。
先に動いたのはルキフェルだった。外套の留め具にかけていた指を外す。一瞬の躊躇もない。肩から無造作に布を払い落とすと外套は風を孕み、甲板に叩きつけられた。その音がやけに大きく響く。もう要らない。人前で顔を晒した時点で、この外套の役目は終わっている。影として生きるための皮。身を隠すための殻。
それは、もう脱ぎ捨てた。
露わになったのは白い麻の長袖シャツ。肘のあたりまで無造作に捲られた袖の下、前腕には古い傷が幾重にも刻まれている。刃物の痕、鞭の跡、焼けただれた名残、どれも消えることなく、彼の皮膚に居座っていた。黒いズボン。膝下まで覆う革の編み上げブーツ。腰には赤いサッシュが巻かれ、風を受けてはためく。斜めに掛けられた剣帯。その立ち姿は、もはや言い逃れの余地がなかった。
海賊だ。海に生き、海で奪い、海で殺してきた人間の装い。それを隠す気も誤魔化す気もない。
ルキフェルは次に自分の髪へと手を伸ばした。肩に届く暗褐色の髪。軽く波打つ前髪が、視界の端にかかっている。邪魔だな。戦うには余計だ。指を差し込み、前髪を一息に掻き上げる。傷だらけの顔を隠していた影が、はっきりと甲板の光に晒される。斜めに走る裂傷。歪に盛り上がった皮膚。幾重にも重なる白い痕。見ろ。恐れろ。好きに思えばいい。髪は後ろへ流され、無造作なオールバックの形に収まる。耳の後ろから首筋へと落ちる毛先が風に揺れた。
自分はここで生まれ変わる。影でも、亡霊でもない。名を持ち、顔を持ち、剣を振るう存在として。
甲板にいる海軍たちの空気がはっきりと変わった。誰かが息を呑み、誰かが半歩引く。銃へ伸びかける指。剣の柄を握り直す手。獣が檻の外に出た。そんな錯覚を抱かせるほどの存在感が、そこに立っていた。
「隊長」
マクシムの背後で低く抑えた声が響く。ダヴィットだった。彼の視線は前方から逸らさず、声だけをマクシムの耳元へ落とす。
「突撃命令を。……これ以上は、待てません」
マクシムもまたルキフェルから目を離さぬまま息を吐く。
「ええ。構いません。少し話しただけですが……彼は、極めて危険です」
グウェナエルの手が剣の柄へとかかった。無駄のない動き。感情の起伏を感じさせない所作。甲板の空気がきりきりと張り詰める。ルキフェルはそれを正面から受け止めた。オールバックにした髪をもう戻そうとはしない。来い。ここから先は言葉はいらない。剣と剣ですべてを終わらせる。グウェナエルは言う。
「この場に立つ以上、お前も覚悟はあるな?」
剣を抜く音が鋭く響いた。風が鳴ったかと思うとルキフェルが舳先を蹴って飛び出していく。まるで今の言葉が合図であったかのように。
「っ——!?」
グウェナエルが体勢を取るより早く、ルキフェルの鋭い斬撃が横から滑り込む。踏み込みは深くしない。この距離なら半歩で届く。ギリギリで剣を合わせて受ける。金属音が炸裂し、グウェナエルの腕が痺れた。重心が浮いた。受け止める癖がある。斬撃の威力そのものが想定以上だが、それ以上に恐ろしいのは間合いの読みと軌道の選び方だ。剣と剣が数度、鋭く交差する。ルキフェルの動きは剣術というよりも舞いのようで、型を作らない。残るのは間合いだけ。身体をひねり、腰を落とし、足運びを滑らせるように繰り返しながら手首の回転と体幹で鋭い斬撃を繰り出してくる。ただの力任せでも技術任せでもない。完全な融合。何流とも知れぬ、恐ろしく完成された型破りの武術。剣圧に押され、グウェナエルの足元が数歩下がる。
「この……っ、重さだけじゃない、型も読めない……!」
すぐにシャルルが後方から声を張り上げた。
「援護に回れ、囲め!」
サミュエル、リラ、ダヴィッドらが動く。複数方向から囲もうとするが、ルキフェルの反応は早い。後方の気配を察し、振り向きざまに一人の間合いへ踏み込むと身体を低く構え、剣を下から斬り上げる。直撃を避けたダヴィットの顔に、斬り跡が走って血が噴いた。ルキフェルは跳ねるように方向転換。舳先を背に、後ろからの攻撃も視界に入る位置を選んで立つ。グウェナエルが再度突撃するが、剣が届く瞬間にルキフェルは体をひねって身を沈め、そのまま軸足で体を回転させて、グウェナエルの膝裏を刈るようにして転ばせた。
「っぐ……!」
グウェナエルが倒れた瞬間、ルキフェルの刃は彼の喉元へピタリと突きつけた。
「終わりだ」
ルキフェルがグウェナエルへ刃を振り上げようとした瞬間、彼の背後から巨大な影が覆いかぶさる。
「捕まえろ!」
サミュエルが吼えた。長身と体重を活かし、両腕でルキフェルの胴を締め上げる。ルキフェルの肋骨がきしむ。肺から空気が一気に押し出され、喉の奥で音にならない息が潰れた。一瞬、彼の指先の力が抜けて剣が宙を舞い、金属音を立てて甲板を転がった。
「今だ!」
ジョルジュとダヴィットが同時に踏み込む瞬間、ごつりと鈍く嫌な音がする。ルキフェルが後頭部を思い切り反らし、サミュエルの顔面へ叩きつけた。
「ぐっ——!?」
サミュエルの鼻梁に走った衝撃が、頭蓋の内側で弾ける。視界が白く飛び、涙と血が一気に滲んだ。鼻の奥が潰れた感覚。呼吸が吸うことも吐くこともできない。彼の腕の力がほんの一瞬だけ緩む。ルキフェルは解放されると地を蹴り、最初に踏み込んできたダヴィットへ踵を叩き込んだ。彼の肋に走った衝撃は、鈍痛ではない。内臓を直接殴られたような深い痛み。
「——っ!!」
ダヴィットは声にならないまま肺が痙攣した。身体が浮き、甲板に背中から叩き落とされて息が戻らない。次に迫ったジョルジュへ、ルキフェルは視線すら向けなかった。一歩。身体を捻り、掌が走る。ルキフェルの肘が入った瞬間、ジョルジュの世界が反転した。彼の顎の奥で衝撃が爆ぜ、脳が揺れる。歯が噛み合わず、舌を噛んだ。ジョルジュは呻き声を上げる暇もなく、背中から甲板に叩き伏せられた。衝撃で肺の空気が抜け、視界の端が暗く滲む。ルキフェルは即座にジョルジュの手から縄を奪い取ると縄は空を裂き、呻くサミュエルの腕と胴を無慈悲に絡め取った。
「な——」
サミュエルが気づいた時には甲板に押し倒され、逆に拘束されていた。シャルルが一歩、前に出た。いつもの軽薄な笑みは消え、片眼鏡の奥で瞳だけが冷たく光っている。彼の腰から引き抜かれたのは細身のレイピア。刺突に特化した、殺すための剣。
「……本気でいくよ、グウェン」
シャルルの声は低く冗談の余地がない。
「言われなくてもだ」
グウェナエルも体を起こし、サーベルを構え直す。喉元に刃を突きつけられた感覚がまだ皮膚に残っていた。呼吸が浅くなるが、構えは崩れない。二人同時に踏み込む。左右からの挟撃。間合いも角度も、完璧だった。
——悪くない連携だが、殺しに来ている動きじゃない。
ルキフェルは迎え撃たなかった。剣を振らない。斬り合わない。ただ避ける。受ける理由がない。この二人は、まだ剣を信じている。レイピアの刺突が空を切った。サーベルの刃が甲板を叩き、火花を散らす。その刃と刃の隙間を、ルキフェルは水のようにすり抜けていった。近いが、触れられない。間合いの外ではない。死角の中だ。
「……っ、当たらない!」
シャルルが歯噛みする。彼の腕に走る焦りが刺突をわずかに鈍らせた。今だ。焦りは、刃より先に来る。ルキフェルは後退しながら視線を落とす。そこにある。先ほど、甲板に落とした自分の剣。位置、確認。拾う価値はある。彼は地を蹴り、身体を低く沈めた。まるで獣が腹を擦るような低姿勢で甲板を滑り、ルキフェルの指が柄を掴む。刹那、息を吹き返したようにカットラスが唸った。振り上げられたのではない。流れに乗って、身体ごと回される。
——腕で振るな。腰で回せ。
そこから先は剣術ではなかった。円を描く足運び。腰を軸にした回転。剣は体幹から放たれている。中華剣術。斬るためではない。重心を崩し、視界を削り、恐怖を植え付ける動き。倒す必要はない。戦えないと理解させればいい。
「——っ!」
最初にシャルルの腕が裂けた。レイピアを突き出した瞬間、前腕の内側を浅く切り裂かれる。皮膚が開き、血が滲む。突く腕。一番、無防備だ。力が一瞬抜けた。続けざまにグウェナエル。踏み込んだ脚の外側。脛をかすめる一閃。踏み込み脚。逃げ場を消す。致命傷ではないが、足裏の感覚が狂う。踏み込むたび、わずかにズレる。
「くっ……!」
シャルルのレイピアが弾かれ、金属音とともに軌道が狂う。グウェナエルのサーベルも、振り抜くたびに距離を失っていく。翻弄されている。二人同時に、それを悟った。遅い。悟った時点で、半分は終わりだ。
「挟むぞ!」
「分かってる!」
グウェナエルとシャルルは声を合わせ、左右から同時に踏み込む。今度こそ逃げ場はない、はずだった。ルキフェルは両刃が触れる寸前に身を屈めて半歩だけ下がった。前ではない。間だ。勝ち筋を作れ。
「——なっ!?」
ごつんと鈍く硬い音。シャルルとグウェナエルの額が、互いの勢いを殺せないまま、正面からぶつかった。二人の頭蓋の内側で星が弾け、身体がほぼ同時に崩れ落ちた。ルキフェルは二人を見下ろしていた。剣を下げて肩の力を抜き、息一つ乱さずに。まだ殺す段階じゃない。
「——いくよ」
リラが放った一言で、甲板の空気が切り替わる。リラ、ロザリー、ペネロペが同時に動いた。三人ともサーベルを抜き、互いの死角を埋めるように間合いを分けて前に出る。三人の背後で、メリッサが投擲用ナイフを構えた。刃先は定まっている。役割も順序も、理解している。連携だ。後衛あり。殺しに来ている。だが。
「……女か?」
ルキフェルがぽつりと呟いた。翡翠色の瞳が三人をなぞる。本気か。海軍は、ここまで来たのか。値踏みでも侮蔑でもない。ただ、状況の確認。
「海軍は女まで戦場に送るのかよ」
だが、ルキフェルは三人の目つきを認識するなり内心で訂正した。いや、違う。送られたんじゃない。立っている。ペネロペが歯を食いしばって呻くように叫んだ。
「黙れ!」
三方向から同時に斬撃。速い。踏み込み、浅くない。ルキフェルは剣を大きく振らなかった。受け、流し、かわす。力で止める必要はない。角度をずらせ。最小限の動きで、三人の攻撃を外側へ逸らしていく。踏み込んだはずなのに距離が縮まらない。
「……おかしい。間合いの読みが……常識と、違う……」
ロザリーの声が届いたかのように、ルキフェルが一瞬だけ彼女を見る。気づいたか。頭も、悪くない。その刹那、メリッサがナイフを構え直した。……投げられない。三人から一時的に距離を取ったところで、ルキフェルはメリッサに目を向けた。翡翠色の瞳が、彼女を真正面から射抜く。獣に睨まれた小動物のように、メリッサの身体が固まった。
「……手荒な真似は、したくないんだがな」
——嘘だ。必要ならやる。
次の瞬間、ルキフェルは真っ直ぐ飛び込んできたペネロペの腕を取った。斬撃を受け止める動作の延長。受けたのは“剣”じゃない。重心だ。引き寄せるでも、掴むでもない。流れに乗せる。
「な——!?」
ペネロペの足が浮いた。踏み込み脚が浮いている。少し捻ればペネロペの身体がそのまま宙を舞う。軽い。鍛えているが体格差はある。彼女が投げられた先、縄を解いたばかりのサミュエル。
「ぐっ!?」
衝突。鈍い音。二人がもつれて甲板に倒れ込んだ。
「ペネロペ、サミュエル!」
ロザリーの叫び。ルキフェルは彼女の足元を払った。ロザリーから重心が消え、視界が反転する。彼女の背中が船縁に叩きつけられ、肺の空気が一気に吐き出される。息が入らない。立ち上がれない。ルキフェルはすでに次を見ていた。残るのはリラ。ルキフェルが狙いを定めた瞬間、咆哮が飛んだ。
「——離れろ!!」
ダヴィットが突進してきた。全身の体重。長身の勢いでルキフェルの腕を絡め、胴を締め上げると、そのままマストの柱へ連れていく。
「このまま——!」
ルキフェルの身体がダヴィットによって持っていかれる。いや、持っていかせる。
「……甘い」
“壁”がある。拘束されたまま地を蹴り、マストを蹴り上げて柱を壁のように使った、壁宙。反動でルキフェルの身体が反転し、拘束がほどける。
「な——」
ダヴィットが呆然と目を見開く。彼の視界の中で、ルキフェルの身体が空中で翻る。ルキフェルはほとんど音もなく着地すると回し蹴りをお見舞いした。太極拳。腰から放たれた一撃がダヴィットの腹部を正確に捉える。
「がっ——!」
ダヴィットの身体が宙を舞い、背中と頭がマストの柱に叩きつけられた。どんという鈍い音のあとに身体がずるずると沈んでいく。甲板に静寂が落ちた。誰も動けない。ルキフェルだけが立っていた。剣を下げ、呼吸一つ乱さず。
「強いな、こいつら。ちゃんと鍛えている。ちゃんと戦っている」
それでも止めるには足りない。まるで最初からこうなると分かっていたかのように。




