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報復の航路 【第二作 ルー・ブレス】3・4巻「覚醒編」  作者: セキユズル
第四章「俺は——ルキフェル。フランソワ海賊団の一味だった」
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第四章③ ルキフェル

 そのうち、海軍員たちがぞろぞろと戻ってくる。警護船から、本隊の甲板へ。足取りは重く、肩は落ち、誰一人として声を発しない。血の匂いが微かだが、漂ってくる。潮と混ざり、風に薄められても消えきらない、鉄と腐敗の臭気。ルキフェルはそれを嗅ぎ取り、喉の奥で息を吐いた。


「調べ終わったって顔だな」


 ルキフェルは視線を巡らせた。若い兵、年嵩の兵。皆、同じ表情をしている。失望と恐怖と、理解。救いようがない事実を突きつけられた者の顔だ。その時、甲板の一角で声が上がる。


「……っ! 見ろ!」


 男の叫びに紺色を纏う者たちが一斉に視線が動く。当然だ。人間はこういう時、群れで同じ方向を見るとルキフェルはすでに知っていた。自分たちの船が、どう見える位置にあるのかを。海軍船の反対舷。ほとんど触れ合う距離。帆を下ろし、旗も掲げず、音も立てず挟み撃ち。あるいは、逃げ場のない錯覚。そう見える場所。


「……いつの間に、あんなところに……?」


 下から聞こえてきた呟きに、ルキフェルは口元を歪めた。


「最初からだよ」


 風が止んだ。いや、止んだように感じただけかもしれないが、甲板の空気が冷えた。紺色の制服たちが海賊船を調べにゾロゾロと移動して甲板で騒いでいる間、ルキフェルは欠伸をして彼らの出戻りを待っていた。やがて、海軍員たちが海軍船に戻ってくるとルキフェルは観察を再開する。


「まさか幽霊船ですか? 今時」

「いや、そんなはずないでしょう」


 そのうち一人の男が目に入った。他より少し前に立ち、声を発し、周囲の反応を集めている。動きに無駄がない。苛立ちを隠そうともしていない。


「……あいつだ」


 直感だったが、間違いない。指揮官。部下が頷く。部下が従う。言葉が流れを作っている。


「あいつが核だ」


 ルキフェルの脳裏に、いくつもの顔が浮かんだ。フランソワ。ベルナルド。血と海水に濡れた、あの瞬間。ぎり、と歯が鳴る。


「奪ったのは……あいつらだ」


 甲板で指揮官が苛立ちを隠さず歩き回っている。吐き捨てるような言葉。苛立ち。焦り。


「なんで僕たちを試すようなことをするんでしょう?」


 ルキフェルは内心で嗤った。試されてる、だと。違う。お前たちは、選ばれただけだ。まず、あいつ。指揮官から、あいつを殺す。指揮系統を壊して、あとは一人ずつだ。仲間を失った復讐ではない。怒りに任せた衝動でもない。これは骨を折るための手順。ルキフェルは帆桁の上で、わずかに体勢を変えた。影がさらに深くなる。


「……見つけたぞ」


 下ではまだ誰も空を見上げていない。誰一人として、マストの上に潜む獣の存在に気づいていなかった。帆桁の上でルキフェルは風と同化するように身を伏せていた。甲板に立つ人間たちの声が、下から断片的に届く。苛立ち、困惑、焦燥。どれもよく知っている音だった。

 指揮官——マクシムは甲板に立ち尽くし、目の前に佇む海賊船を睨みつけた。潮風に髪がなびくが、それにすら苛立ちを覚える。


「警備隊は壊滅、死体の山だってのに……戻ってきたら今度は貿易船が偶然隣に並んでましたですって? 何の冗談でしょう」


 彼の声は地の底を這うようにくぐもっていた。拳を強く握りしめる。軋む音が聞こえそうなほど。


「次は、僕たちが見えない敵に殺される番?」


 指揮官らしき男が甲板の中央、無意識に人の視線が集まる位置に立ち、苛立ちを隠そうともせず吐き捨てるように言葉を零している。


 ——ああ、やっぱりだ。奪ったのはあいつだ。フランソワを。ベルナルドを。仲間たちの居場所を。


 ルキフェルの胸の奥で何かが低く鳴った。怒りでも悲しみでもない。獣が喉を鳴らす、あの音に近い。まずは、あいつ。だが、すぐに飛び降りるほど自分は短気でもない。せっかくここまで潜り込んだのだ。少しばかり、遊んでやるか。


 一方、マクシムは目を細めて空っぽの海賊船のほうへちらりと視線を送る。


「死体すら残さずに消える幽霊がいるなら見てみたいもんですよ。でも、現実の化け物のほうがよほど厄介ってことか」


 彼は唇を噛み、吐き捨てるように言った。


「……ああもう、腹立つ」

「隊長、ここにいても具合を悪くするだけです。ここは一先ず報告のために港へ停泊しませんか?」


 リラの言葉に耳は貸さず、マクシムは足を止めてぶつぶつと呟いた。


「このことは直ちに本部へ報告する。……それにしても、だ。あの人数が船内を彷徨っていたのに、生き残りも主犯格も……」


 ルキフェルは帆桁に腹ばいになったまま甲板を見下ろした。人間の集団は何かを探すように視線を彷徨わせている。視線は常に水平。誰一人、上を見ない。……いい。ルキフェルは声を殺して息を吸う。次に出す言葉は軽く、あくまで無害に。この場の空気をほんの一瞬だけ歪ませるためのもの。


「あのー、お話はもう終わりでしょうか?」


 自分でも驚くほど、よく通る声だった。若く快活で、場違いなほど穏やか。案の定、甲板の空気が止まる。


「まずは応援を待ちます。そして——」


 マクシムが言いかけて、ふと眉を寄せた。


「今、しゃべったの誰ですか?」


全員の視線が一斉にジョルジュへ集まった。誰か声を発したはずの場所へ。


「え、いやボクは何も喋っていませんよ!」


「……はは」


 思惑通りだ。人は理解できない状況に直面すると、まず知っている誰かを疑う。皆の視線が一人の若い兵士に集中する。戸惑い、焦り、弁明がルキフェルには滑稽に映った。


 ——今だ。


 フードの奥で視線を一点に固定する。甲板の中央に立つ男。苛立ちを隠しきれず、拳を握りしめている指揮官。あいつから。ルキフェルはカットラスの柄を握る。引き抜くと同時に、身体の内側を巡っていた“気”が一気に解放される。血が熱を帯び、視界が研ぎ澄まされる。獣が目を覚ました。その気配をただ一人だけ察知した者がいても。


「——上だ!!」


 鋭い声が甲板を切り裂くが、遅い。ルキフェルは帆桁を蹴った。空を裂く感覚。落下ではない。跳躍だ。フードを深く被った影が宙を舞う。ローブの裾が風に翻り、身体は無駄なく一直線に落ちていく。両手で振り翳したカットラスに、全体重を乗せて。狙いは、ただ一つ。——殺す。指揮官の頭上へ。迷いはない。ためらいもない。今の自分はただの獣だ。ルキフェルの刃が空気を切り裂いた。「避けろ」という叫びが聞こえた気がしたが、ルキフェルの意識はすでに次の動きへ移っている。振り下ろした刃が空を切った感触。狙いが外れた。いや、違う。相手が想像以上に早かっただけだ。


 ——やるな。


 ルキフェルは足裏が甲板に触れた瞬間、力を逃がさず重心を確認して床を蹴った。次の一撃が横から来るのは、音と気配で分かる。別の誰かの刃が薙ぎ払われるが、受け止める必要はない。膝を抜き、腰を落とし、胴をしならせる。剣の軌道が、自分のすぐ上を通り過ぎる。風だけが頬を掠めた。


 ——遅い。


 ルキフェルの視界の端で、指揮官の動きを捉える。彼が剣を抜く直前、その隙が十分すぎるほど見えた。ルキフェルは深く踏み込むと世界がふっと軽くなる。跳んで、甲板が遠ざかり、空が近づく。身体をひねり、空中でしならせた。重力の中心を自分の内側に保ったまま、鮮やかに。


 ——その瞬間、マクシムは思わず顔を上げていた。


 自分の頭上を越えていく影。あまりにも近い距離。あまりにも非常識な軌道。回転する男の身体が、空を裂くように視界を横切る。フードに覆われた顔は、なおも影の中にあったが、影の奥で光るものがあった。翡翠色の瞳。それを認識した瞬間、マクシムの思考が完全に止まった。音が遠のく。風も雷鳴も、甲板の軋みも、すべてが遅くなる。


 ——知っている。


 マクシムの身体の奥が勝手に叫んだ。知っている。この目を。マクシムの胸の奥がひどく冷えたと同時に、焼けるように熱くなる。忘れていたはずの名前。思い出してはいけなかった時間。波の音と白い帆と、まだ何者でもなかった少年たち。


 ——ラウル。


 ルキフェルの視界には獲物しかいない。フランソワを奪った男。ベルナルドを殺した側の人間。切り裂くべき存在。それ以上でも、それ以下でもない。


 ——殺す。


 一方で、下から見上げる男の目がわずかに揺れたのが分かった。理解できない何かを見た顔。知っているはずのものを思い出してはいけない形で見た顔。だが、そんなことはどうでもいい。回転を終え、ルキフェルは身体を反転させた。勢いを殺さず、もう一度跳ぶ。今度は斜め前方、舳先へ。着地の音はほとんど立たなかった。風に煽られ、ローブが揺れる。ルキフェルはゆっくりと立ち上がった。マクシムは剣を握ったまま動けず、心臓だけが遅れて強く打つ。一方で、


「……誰だ、あれは……」


 誰かの呆然とした声が聞こえた。雷鳴が遠くで鳴った。甲板に落ちた沈黙は、嵐の前のそれに似ていた。波の音だけが低く船腹を叩いている。ルキフェルは舳先に立ったまま、背を向けていた。彼の視線は海へ。灰色に濁り始めた水面を、まるで他人事のように見下ろしている。


 ——近いな。


 殺せる距離だ。一歩踏み出せば剣は届くが、今すぐ斬るには惜しい。甲板に満ちるこの緊張、この戸惑い、この理解できないものに直面した人間たちの空気。それをもう少し味わってやりたかった。ルキフェルの背後で甲高い声が弾む。


「マストから奇襲とは、驚きましたな……! 一体いつ忍び込んでいたのか……ふふ、なかなかやりますね!」


 発言者の声には恐怖がない。あるのは高揚と知的好奇心。次に聞こえた声は少し違った。


「……少し、話をしませんか。せめて、あなたの名前を」


 ルキフェルはゆっくりと肩を動かした。剣は下げたまま。マクシムは平静を装っていた。声の調子も姿勢も指揮官として整えているが、胸の奥に渦巻くものはあまりにうるさい。


 ——なぜ、今まで忘れていた? いや、違う。断定するな。まだだ。まずは対話だ。何事も、対話から。


 ルキフェルにはとっては相手の問いかけすら滑稽だった。


「名乗るほどの人間じゃありません」


 フランス語だが意図的に整えない。母語ではないことがはっきり分かる抑揚で淡々と返した。


「少なくとも、あなた方にとっては……我々は、獣に見えるでしょう?」


 ルキフェルは言葉を選びながら、わざと距離を置いた。人間と獣。線を引くことで相手の思考を揺らす。案の定、噛みついてきた。


「カタコトのフランス語はいい。お前の“本性”を見せろよ、本性を!」


 苛立ちを隠さない、声に棘がある。


 ——ああ、面倒くさい。


 ルキフェルはようやく半身だけ振り返った。フードの影が顔の上半分を覆ったまま。声を落とす。柔らかさを削ぎ落とし、刃のように。


「……今、言ったはずだ。名乗る必要なんて、ない」


 ルキフェルの一言に空気が凍る。誰もが小さく息を呑んだ。今のはフランス語じゃない。混じり気のない、はっきりしたカスティーリャ語。甲板の誰もが意味を理解したわけではないが、異質なものが発せられたことだけは全員が察した。マクシムは喉の奥がひりつく。


 ……ラウル。


 その名がまたしても脳裏をかすめる。友人。憧れ。嫉妬。自分よりも、いつも光の近くにいた存在。ルキフェルはマクシムの視線を感じ取っていたが、そこに意味を見出さない。見ているのは獲物だ。フランソワを奪った側。ベルナルドを殺した側。


 ——翻弄してから殺す。


 誰もが武器に手をかけ、視線は舳先のルキフェルから離れない。一歩でも動けば斬り合いになる、そんな距離感。スザンヌもその輪の中にいたが、彼女の意識はどこか噛み合っていなかった。獣のような殺気。低く唸るような声色。危険を告げているはずなのに、彼女の胸の奥で別の感覚がざわめいている。


 ——違う。


 殺気よりも先に彼女の耳に残ったものがあった。マストの上から降ってきた、あの声。澄んでいて、よく通る。冷たい空気の中でも輪郭を失わない声。スザンヌは無意識に息を詰めていた。周囲の隊員たちは、舳先の男を敵として見ている。武器を見て動きを読んで距離を測るが、スザンヌだけは違った。彼女の視線は刃でも構えでもなくフードの奥、声の主そのものに向いていた。


 ——知ってる、気がする。


 いつ、どこで、誰の声なのかも思い出せない。それでも胸の奥が勝手に反応している。寒さとは違う。恐怖とも違う。むしろ、懐かしさに近い何か。スザンヌの指先がわずかに震え、制服の布を強く握りしめた。あの声を聞いた瞬間から、この場の緊張とは別のところで心が乱されている。舳先に立つ男は、依然として何も語らない。獣のような気配を纏っているのに、 知らないとは言い切れない。スザンヌは自分でも説明できない胸騒ぎを抱えたまま、フードの男から目を離せずにいた。この場でただ一人、彼を危険な敵としてだけ見ていないことに、まだ気づかないまま。


「……名を名乗れ。顔を見せろ。それから……用件を言え」


 グウェナエルのぎこちない発音のカスティーリャ語が、甲板の空気を切った。彼の言葉が届いた瞬間、ルキフェルの肩がほんのわずかに揺れた。


 ……顔を見せろ。


 彼の胸の奥で鈍い痛みが走る。ルキフェルは反射的にフードの縁へと指がかかりかけて止めた。どうする。この顔を、ここで晒すのか。今まで誰にも見せなかった。見せなかったというより、見せられなかった。恐れられるのが分かっていたから。嫌悪されるのも、距離を置かれるのも全部分かっていた。なにより、それを見る相手の目に映る哀れみが何より耐え難かった。この顔は自分の自己嫌悪そのもの。奪われた選択肢。閉ざされた道。人として扱われない理由を常に自分の顔に押し付けてきた。


 ……本当に、そうだったのか?


 ふいに別の記憶が割り込む。あの入江。フランソワとの最後の会話。


 ——なあ、ルキフェル。もう、無理に顔を隠す必要はないんじゃないか?


 風に紛れて、あの穏やかな声が蘇る。


 ——昔はな。確かに言った。その顔は、見せないほうがいいって。


「……フランソワ」


 ——けど、今は違う。お前が、その顔を晒したいなら……晒していい。俺は止めない。なにより、お前の意志を尊重したい。


 ルキフェルの喉の奥がひりついた。今がその時なのかもしれない。影として生きてきた。名も顔も、過去も隠して。だが……もういい。恐怖を植え付けるために。そして何より、自分自身から逃げるのをやめるために。


「……仕方ないな」


 ルキフェルはゆっくりとフードに手をかけた。一瞬のためらいのあと一気に外す。冷たい空気に晒された顔に、甲板の視線が一斉に集まった。息を呑む気配。無意識に後ずさる足音。彼らの剣の柄を握る手がきつく強張る。


 ——ああ。やはり、そうか。


 海軍の人間たちの表情がはっきりと変わる。恐怖。警戒。嫌悪。言葉にされる前の、剥き出しの感情。この顔は、やはり怖いのだ。ルキフェルの胸の奥で何かが落ち着いていく。傷つくでもなく、怒るでもない。諦観に近い実感。好きに思えばいい。自分は晒した。もう何も恐れるものはない。ルキフェルは曇り空の下で影ではなく、はっきりと立つ。


「俺は——ルキフェル。フランソワ海賊団の一味だった」

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