第四章① マクシム
三月九日。
朝からブレスト港は騒然としていた。号令、足音、金属のぶつかる音、ロープが引き絞られる軋み。空気そのものが張り詰めていて、港全体が一つの巨大な生き物のように騒めいている。ブレスト司令部から突如として下った出動命令。その矛先に選ばれたのは、マクシミリアン・ブーケ隊だった。
「急げ! 昼には出るぞ!」
「補給は最低限でいい、積みすぎるな!」
怒号が飛び交う中、隊員たちは慣れた動きで出港準備を進めていく。昼頃には出発できる算段だった。天候は不安定が、出られなくはない。その微妙な判断が、逆に嫌な予感を煽る。
マクシムは港の端に立ち、二隻の船を交互に見ていた。ひとつは、自分たちに割り当てられた小型ガレオン船。もうひとつは少し離れた場所で堂々と横たわる、別部隊の正規艦隊のガレオン船。重装甲。厚い船体。大人数を想定した構造。見ただけで分かる、正面から殴り合うための船だ。マクシムの視線が自分たちの船へ戻る。隣の船に比べて、小型軽量速度と小回りだけが取り柄のような船体。積載量も限られ、装甲も薄い。少人数での運用を前提にした、いかにも間に合わせの選択。
「……これで十分だろって顔だな」
本部の判断だ。説明も理由もない。「お前たちにはこれでいい」と言わんばかりの配置。厄介者。変人の寄せ集め。危険だが、替えがきく部隊。マクシムは奥歯を噛み締め、思わず顔を顰めた。
「舐めやがって」
吐き捨てるような低い声。怒りというより冷えた苛立ちだったが、それでも行く。選ばれた以上、拒否権などない。珍しく、ブレストの空は快晴だった。雲一つない青が港の水面に映り込み、今日が出動日であることを嘘のように感じさせる。マクシムは港で腕を組み、出港準備が進む様子をぼんやりと眺めていた。彼の背後から規則正しい足音が近づく。
「隊長」
マクシムが振り返るとリラが涼しげな顔で立っていた。
「お客様です」
「……え、こんな時に?」
マクシムの喉から思わず間の抜けた声が出る。リラは一瞬だけ言い淀んだあと、どこか諦めたように肩を竦めた。
「はい。……いつもの彼ですよ」
そう言って、彼女は港の端を指さした。そこには、見慣れた東方風の衣装に身を包んだ男が立っている。リー・ウェンことヤン・ジュンジャー。彼はこちらに気づくなり、例によって軽薄そうにヒラヒラと手を振っている。マクシムは額を押さえかけたが、すぐに息を整えた。
「すぐ戻ります。何かあれば、報告を」
それだけ告げると、彼は足早にヤンの元へ向かっていく。リラは彼の背中を見送りながらため息をついた。
「……今の目、きらきらしてた」
半ば呆れ、半ば理解しているような独り言。その時、蹄の音が港の喧騒を切り裂いた。
「ブーケ中尉はいますか!?」
馬から飛び降り、伝令係が息を切らしながら駆け込んでくる。正規のブレスト司令部の制服だ。リラは即座に背筋を正して近づく。
「ブーケ中尉でしたら、現在お取り込み中です。私は副官のリラ・シャネル。代わりに承ります」
伝令係は一瞬ためらったが、すぐに敬礼した。
「はっ! 実は先ほど、参謀部に追加の情報が届きまして……急ぎマクシミリアン・ブーケ隊へ通達せよとの命を受けました!」
彼は鞍袋から一通の封書を取り出し、リラに差し出した。
「こちら、任務にお役立てください!」
受け取るが早いか伝令係は踵を返し、再び馬に飛び乗る。蹄の音はあっという間に遠ざかり、港にはまた別の喧騒が戻ってきた。リラは封書を見下ろす。ずしりと紙以上の重さ。
「……これは」
小さく息を吐き、彼女はタラップへと足を向けた。
「あとで、隊長と共有しないとね」
快晴の空の下。誰もまだ知らない追加情報が船へ運び込まれていった。一方、港の裏手。人の目につかない倉庫の陰で、マクシムとヤンは向かい合っていた。潮の匂いと木材の軋む音だけが近くにある。
「さて。本日お持ちしたのはこちらです」
ヤンはそう言って布袋を二つ、並べて差し出した。
「まずこちら。毒です。普通の毒です」
ヤンが一つ目の袋を軽く振る。
「……え?」
マクシムは思わず眉を寄せた。
「普通って何ですか」
「文字通りです。即効性はそこそこ、扱いやすく、混ぜやすい」
「いや、説明を丁寧にされても困ります」
ヤンは気にした様子もなく、もう一つの袋を持ち上げた。
「それと、こちらはマンドレイクの根。乾燥させたものです」
「……うん。毒ですね」
「確かに毒性はあります。が、古くから鎮痛や鎮静に使われてきました。用量さえ守れば、ですけど。使いすぎ注意」
マクシムは袋と袋を見比べてから、ゆっくり息を吐いた。
「それで。僕の何が欲しいんですか」
ヤンは一瞬だけ視線を逸らし、次いで柔らかく笑った。
「実は、ある書類が欲しくて」
「書類……ですか」
「ええ。ほら、いつだったか。あの儚い美女士官が写したという、写しの書類」
その瞬間、マクシムの表情がはっきりと曇った。
「あれですか……」
マクシムは少し間を置いてから首を横に振る。
「あれは他の方に渡しました」
「……なんですと?」
ヤンが珍しく声を上げ、マクシムは肩をすくめる。
「退役された先輩士官がいるんです。なんでも彼も謎を追うために必要だと。そもそも、あの書類は元々その方が僕に託したものですから。お返ししただけですよ」
ヤンは黙ったまま考え込み、やがて何かを理解したように息を吐く。
「……なるほど。よくわかりました。いえ、その情報だけで十分です。点と点が、綺麗につながりました」
そう言うとヤンは二つの袋をまとめてマクシムの胸元に押し付けた。
「では、こちらはあなたに差し上げます。どうぞ、お役立てください」
「え、いいんですか……?」
「構いません。相変わらず、あなたは必要なものを必要なときに持つ」
マクシムは一瞬迷った末、袋を受け取った。
「……ありがとうございます。本当に」
「お気になさらず」
二人は軽く視線を交わし、別れた。マクシムはそのまま小型ガレオン船へと向かっていく。やがて、昼近くなって出港準備が整い、小型ガレオン船はゆっくりと港を離れ始めた。ヤンは岸壁に立ち、その船影を見送っている。
「……この天気といい、どうにも妙ですね」
青空の下を進む船影を目で追いながら、ヤンはふっと口元を緩めた。
「それにしても……焦っている。まるで逃亡者とそれに付き従う従者のようだ」
小型ガレオン船は次第に遠ざかっていく。ヤンはそれを最後まで見届けると踵を返し、人混みの中へと消えていった。嵐の気配を誰よりも先に嗅ぎ取ったような足取りで。




