第三章② 嵐の前の静けさ
三月五日、不穏な空白。ある報告がブレスト司令部に届いたのは昼を少し過ぎた頃だった。
貿易商の小型ガレオン船が近海で奪われたらしい。詳細は不明。襲撃者の人数も、目的も分からない。ただ、被害報告を持ち込んだ商人の様子が、異様に怯えていたことだけが記録に残された。
「……海賊の残党か?」
「フランソワの件で、まだ燻っている連中がいるのかもしれんな」
参謀部ではそんな会話が交わされたが、声には切迫感がなかった。数日前の大海賊討伐の余韻が、まだ空気に残っていたからだ。事態は局地的、軽微と分類され、判断は保留とされた。
サン・マロ港では古参の水夫たちが空を見上げて眉を顰めている。
「荒れるな、これは」
彼らの言葉通り、夕方には細かな雨が降り始める。街路を濡らす程度の弱い雨が、風は強まりつつあった。サン・マロの街には、説明のつかない落ち着かなさが広がっていく。酒場では声がひとつ低くなり、港では人の往来が減った。誰も口にはしないが、皆が同じ感覚を抱いていた。何かが来る。この日はまだ血も火も上がらないが、軋む音だけは鳴り始めていた。
一方、入江はひどく静かだった。風は弱く、水面は鈍く光っている。遠くで波が砕ける音だけが間を埋めていた。船長室でルキフェルは縛られたまま座らされていた。手首に食い込む縄を彼は意にも介さず睨み返している。その前に立ったのはジャスパーだった。
「……逃げるぞ。トルチュ島へ行く」
一瞬、空気が止まる。次の瞬間、ルキフェルの口元が歪んだ。
「誰の判断だ」
唸るような声。怒りというより、嘲りが混じっている。ジャスパーは目を逸らさなかった。
「みんなで決めた」
ジャスパーの背後で、マテオが腕を組んだまま頷く。ニールもコリンも、視線を伏せた。彼らを見て、ルキフェルは鼻で笑う。
「弱腰だな。だから海賊は、狩られる側なんだよ」
乾いた音が室内に響いた。ルキフェルの顔が横に弾かれている。ジャスパーの平手打ちだった。驚いたのはルキフェルだけじゃない。マテオもニールもコリンも言葉を失った。ジャスパーは拳を下ろしたまま、立っていた。肩がわずかに上下している。
「……いい加減にしろ。自分が何をしたか分かってるのか。もう、おれたちは一線を越えたんだ」
ルキフェルは何も言わず、舌打ち一つで視線を逸らす。ジャスパーはそれ以上、何も言わなかった。彼は背を向けると仲間たちに目配せする。
「行くぞ」
四人が船長室を出る。扉が閉まる音がやけに重く響いた。甲板に出ると、外の空気がひやりと肌を撫でた。そこに、一人の青年が待っていた。ニコラだ。ジャスパーは足を止めて、少し気まずそうに頭を掻く。
「……悪いな。せっかく誘ってくれたのに」
ニコラは慌てて首を振った。
「い、いえ! いいんです!」
彼は照れくさそうに笑って、少しだけ胸を張る。
「友人には、ボクから伝えてきますね。それに……出港まで、何か手伝えることがあったら言ってください!」
ジャスパーは一瞬だけ目を閉じた。この状況で、こんな地獄みたいな空気の中で。それでも、当たり前のように手を差し出してくる。
「……助かる」
ニコラは「えへへ」と笑って、すぐに作業に向かっていく。ジャスパーはその背中を見送りながら、胸の奥で思った。まだ、完全に終わっちゃいない。そう信じたかった。
三月六日。入江、出港準備。忙しなく人が動く気配があった。帆の点検、樽の中身の確認、濡れた縄の張り替え。トルチュ島への逃避行に向けた準備は、思いのほか進んでいる。本来なら、この役目を仕切るのはクォーターマスターだったが、その男は今も船長室という名の檻の中だ。
「久々だな、これ」
ニールは甲板の片隅で膝をつき、紙と炭筆を前に航路計算をしていた。彼は指先で数字をなぞりながら、ふと顔を上げてマテオを見る。
「そういえばさ」
「ん?」
「マテオ、カスティーリャ語しか分かんないでしょ。街ふらついてて、困んなかった?」
マテオは物資の袋を肩に担ぎながら少し考えるように首を傾げた。
「ああ、それがさ。意外と通じるんだよ。この街、やけに国際的というか……」
彼の言葉をジャスパーが作業の手を止めずに引き取った。
「サン・マロは自由港としての歴史が長い。私掠船団の拠点でもあった。その名残で、色んな人種が集まる。カスティーリャ語を話せるやつなんて珍しくもない」
「へえ……」
ニールが感心したように唸った時、コリンが何気ない調子で口を挟んだ。
「でもさ、性欲に言語の壁はないでしょ」
ニールがゆっくり顔を上げ、ジャスパーが思わず手元を見失い、マテオだけは数秒遅れて理解する。大人三人はお互い訝しげに逡巡した後、マテオがコリンをじとりと睨んで口を開いた。
「……お前。ガキのくせに侮れないな」
コリンは肩をすくめる。
「ガキを舐めちゃいけません」
誰かが小さく吹き出した。その笑いはすぐ風に流された。誰も口には出さなかったが、この船に足りない一人がいることは、全員が分かっていた。
その頃、入江を見下ろす岩場。潮風に晒されながら、ピエールは望遠鏡を下ろした。
——生きている。
赤髪の男。甲板を行き来する長身の影。間違いない、ジャスパーだ。
「……ちっ」
小さく舌打ちをする。本当ならフランソワと一緒に消えているはずだったが、現実は違う。どういうわけか、あいつらは生きている。ピエールは視線をずらした。入江に停泊する小型ガレオン船。見覚えがありすぎる船影。
「……は?」
ピエールの目が細まる。船体の形、帆の切り方、喫水線。記憶の奥に、はっきりと一致する情報が浮かび上がる。——ダラス家の船だ。幻覚剤の取引に使われていた、表向きは貿易船の小型ガレオン。
「……あいつら」
ピエールの喉の奥で怒りが煮え立つ。よりにもよって、奪った船がそれか。ジャスパーが生きている。仲間たちも消えていない。そして、船はダラス家のビジネスに直結する代物。偶然にしては、出来すぎている。ピエールは望遠鏡を畳み、外套を翻した。
「……よし」
決断は早かった。ここで自分が動かねば、すべてが無駄になる。
一方、サン・マロ近海。
「……おい」
海霧の向こうで警備隊の一人が声を失った。浅瀬に引き寄せられるようにして、二隻の哨戒船が浮かんでいた。いや、正確には浮かんでいるように見えているだけだった。一隻目は近づいた瞬間に分かった。腐臭。甲板に横たわる遺体は原型を留めていない。剣も銃も、もはや意味を成していなかった。
「……ひどすぎる」
誰かが吐き気を堪えるように呟く。そして、もう一隻。同じく沈黙しているが、こちらは様子が違った。血はまだ乾ききっていない。腐敗は始まっているが、明らかに日が浅い。
「……これ、別件だぞ」
士官の声が震えた。
「殺し方が……違う」
甲板に上がった者たちは次々に言葉を失った。抵抗の形跡はほとんどない。まるで狩られたかのようだった。
「完全……壊滅……」
誰かが膝をついた。その場で判断は下された。
「異常事態だ、すぐに報告を!」
「ブレスト司令部へ。海路の方が早い、急げ!!」
笛の音が鳴り響き、港は一転して阿鼻叫喚の渦に呑まれていった。
昼下がり。港に隣接する海軍の簡易詰所は、まだ平時の空気を残していた。そこへ、ひとりの商人風の男が駆け込んでくる。
「す、すみません! 海軍の方ですか!?」
息を切らし、焦った声。服装は地味だが、どこか慣れた立ち振る舞い。貿易商を装ったピエールだった。
「どうしました?」
若い海軍兵が応じる。
「近海で……怪しい船を見かけましてね! 小型のガレオンです。帆の色も、船体も……どうにも不審で」
「小型ガレオン?」
兵の表情が変わる。
「ええ。しかも港には入らず、入江に潜むように停泊していて……商売柄、船には少し詳しいんですが、あれは普通の商船じゃありません」
ピエールの言葉に、周囲にいた別の兵も集まってくる。
「特徴は?」
「船首が低く、帆装は二本。積荷の割に喫水が深い……それに、船員の数が合わない」
ピエールは一つ一つ、本物の情報を混ぜながら語った。嘘ではないが、言う順番と強調点を選んでいるだけ。兵たちの間に騒めきが走る。
「それ、数日前に報告があった奪われた貿易船の特徴と一致してませんか?」
誰かがそう口にした瞬間、空気が一気に変わった。
「すぐ上に報告しろ」
「ブレスト司令部だ。急げ」
「海路の方が早い。伝令船を出せ!」
ピエールは一歩引いた位置で、彼らの様子を見つめていた。——かかった。あとは海軍が勝手に動く。
「お役に立てたなら何よりです」
そう言って頭を下げ、ピエールは何事もなかったかのように踵を返す。港を離れながらピエールは小さく笑った。
「これでいい」
ジャスパーたちがどこへ向かおうとどんな海だろうと、もう戻れない。自分は事態を知らせただけ。だが、その知らせは嵐を呼び込む。
三月七日から八日にかけて。ブレスト司令部。書類の山がようやく一つにまとまった。最初に上がってきたのは、沿岸警備隊二隻の壊滅報告。ただし、それは同時ではない。一隻目は、サン・マロ近海で発見された腐敗の進んだ船体。二隻目はやや沖合で発見された比較的新しい残骸。
「……二件とも、警備隊が全滅しているな」
「同一犯?」
「いや、時期が微妙にズレている。別件の可能性も……」
参謀部は即断を避け、まずは保留の札を貼った。続いて引っ張り出されたのが、数日前に報告だけ上がっていた貿易商の小型ガレオン船強奪事件。
「漂流者を引き上げたら脅されて船を奪われた……だったか」
「人数は……不明?」
「……いや、書いてあるな」
「え?」
士官の指でなぞられた一文。襲撃者は五名程度。正確な人数は不明だが、少数であったと証言。
「……五名?」
「五名で船を奪った?」
「それで警備隊を壊滅させた可能性があると?」
室内に微妙な沈黙が落ちた。
「フランソワの残党……ではないか?」
「いや、あの船団がそんな少人数で動くか?」
「だが、フランソワ本人は死亡したとされている」
「なら、暴走した残党が——」
誰も確信を持っていないが、話を前に進めるための仮定だけは必要だ。結論はあっさりと決まる。襲撃者五名は、フランソワの残党である可能性が高い。警備隊襲撃二件、および小型ガレオン船強奪事件は関連性あり。
「となると、通常部隊では追跡が難しい」
「……第七艦艇部隊か」
その中である名が挙がる。
「マクシミリアン・ブーケ隊」
「……あの部隊か」
「先日の件もある」
「軍医を独断で処分した件だな」
「危険な部隊ではあるが……」
誰かが半ば冗談めかして言った。
「不審な案件には、不審な部隊をぶつければいい」
「中和というやつだ」
数名が笑い、数名が目を逸らした。こうしてマクシム隊投入が決定事項として書類に記される。おまけに軽装の調査隊が編成された。念のため沿岸警備隊に調査同行を要請。
「すぐ戻るだろう」
誰もがそう思っていたが、その日のうちに調査隊からの連絡は途絶えた。翌刻限を過ぎても、信号は来ない。警備隊の報告もない。代わりに届いたのは沈黙だった。参謀部の空気が目に見えて重くなる。地図の上で赤い印が増えていく。貿易船が奪われた海域。調査隊が向かった航路。警備隊が最後に確認された地点。線で結べば、どれも近すぎた。
「……判断は保留だ」
最終的にそう結論づけられた。追加派遣は見送られる。嵐の兆しが出始めていたからだ。空は朝から不安定で、雲の流れが早い。風向きも一定しない。
キール通りの宿舎の側、整備士として小銭稼ぎをするため、ジョルジュが整備士として奮闘していた。船内での障壁点検と船倉点検をササッと終わらせ、ジョルジュは伸びをしながら階段を上がって甲板に出ると、どこか生暖かい潮風が頬を撫でて思わず背筋が伸びた。形容し難い不穏な風に、ジョルジュは顔を顰めて近場の水夫に声をかけた。
「おっちゃーん。なんか、変な感じしない?」
「んー?」
中年の水夫はジョルジュを振り返って眉を顰めた。
「そうかあ? いつも通りだろ」
それきり、水夫はプイッと顔を背けてロープ点検を再開してしまった。ジョルジュは灰色の空とどんよりした黒い水平線に顔を向けた。ブレストじゃないなら、この風はどこから来ているのか。彼の十八番である天気読みが、警報を鳴らしていた。
三月八日、深夜。サン・マロを出港する一隻の船があった。それは、ルキフェルたちとは無関係なフランソワの残党。彼らの背後には、あの男——ピエール がいた。
「まだ海軍は動いてない」
「今ならもう一度いける」
甘い言葉。怒りを煽る囁き。偶然にも、その航路上には調査に赴いていた海軍の調査隊がいた。結果はあっけなかった。数は少なく、装備も軽い調査隊は抵抗らしい抵抗もできずに壊滅する。甲板に残ったのは血と怒りに酔った残党たちの息遣い。
「……なあ。次はどこ行く?」
一味たちの言葉にピエールは穏やかに笑った。
「トゥーロンなんてどうだ。大きな港だ、きっと派手だぞ」
彼らは知らない。それが逃げ道ではなく、処刑場であることを。こうして、誤認と遅延と責任転嫁の果てに歯車は噛み合った。誰もが最善を選んだつもりで、実際には最悪を確定させていく。
出港準備はニコラの手際の良さもあって思いのほか順調に進んだ。積み込みの最終確認を終えた頃、マテオはふっと息を吐いて外套を肩に掛ける。
「……ちょっと、行ってくるわ」
誰にともなくそう言って、彼は入江を離れた。向かった先はここ数日ですっかり顔馴染みになった酒場だった。出港を目前に控えた今、最後に一杯だけ呑んでおきたい。そんな気分だった。扉を押し開けると、いつもの匂いが鼻を突く。安酒と潮気、木の床に染みついた長年の湿り気。
「お、来たな」
「にいちゃん、今日は早いじゃねえか」
言葉の通じる店主と、すっかり落ちぶれた水兵が手を振って迎えた。マテオが「明日、街を出る」と告げると、二人は顔を見合わせて笑う。
「じゃあ、餞別だ」
「奢りだ、遠慮すんな」
そう言って勝手に祝杯を用意してくれた。ジョッキを合わせる音がやけに大きく響く。しばらくは、どうでもいい話が続いた。酒の味、女の噂、昔の航海の自慢話。だが、不意に水兵がジョッキを置き、声を落とす。
「なぁ、にいちゃん……最近よ、天気が酷くてなあ」
「天気?」
マテオが聞き返すと水兵は首を振った。
「この辺りだけじゃねえ。なんていうか……海全体だ。最近の海と天候は、妙に不安定でな。熟練の航海士でも、予測がつかねえんだ」
愚痴るように言いながら彼は肩をすくめる。
「仲間と話してて思ったんだけどよ……これからは、知識だけじゃ足りねえんじゃねえかってな。直感ってやつも、必要なんじゃねえかって話だ」
「直感、ね」
マテオは呟き、ジョッキの縁を指でなぞった。脳裏に浮かんだのは、赤髪の操舵手の顔だった。
——あいつ、勘だけで舵切るときあるよな。しかも大体当たる。
考え込んだマテオを見て、酒場の主人が笑う。
「それなあ。最近のお客、みんな言ってるやつだ。俺にはさっぱり分かんねえけどな」
「冗談じゃねえよ」
水兵が声を上げる。
「海の機嫌が読めねえと仕事にならねえんだって」
三人で笑い合う。酒場は一瞬、いつもの賑やかさを取り戻したが、マテオだけは笑いきれなかった。ジョッキを仰ぎながら違和感を探る。理由のない、説明のつかない騒めきが胸をくすぐった。
——これは……注意しとくべきか。
彼はそう思い、無意識にジョッキを置いた。外の風はまだ穏やかだったが、どこか遠くで何かが蠢いている気がしてならなかった。




